惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

呟き Oct.25

2010年10月25日 | チラシの裏
なんか意欲がわかないので昨日は面白い話だけを書いて終わってしまった。これもその続きだ。

昨日書いた「形式の法則」なんかもそうだが、オートポイエシスっていうのもまだやってる人がいるんだな。ルーマンとかあっちの方をいじってると必然的にかかわらざるを得ない、ということなんだろうか。なんか気の毒な話だ。

オートポイエシスは複雑性のベンキョーを始めたごく初期のころに「自己組織化を超える」なんちゃらというフレコミで本屋に並んでいたから「なんだと」と思って読んでみたことがある。サンタフェの「人工生命」論文集にもこれを扱った論文がひとつかふたつはあったと記憶している。少なくともひとつはヴァレラの名前があった。

まあ結局のところサッパリ判りませなんだ。これは、そう装ってはいるが理科系のネタじゃねえよ、というのが当時わたしが下した結論で、それ以後真面目に読んだことがないから今はどうなっているのかは知らない。基本的にはデイヴィドソンの非法則的一元論と同様、属性二元論のヴァリアントのひとつだとわたしは思っている。二元論をやって理科系の人間に嫌がられないためには、物理じゃない方が「物理から生じて分離独立する」という論理をどうしても正当化しなくてはならない。そういう無理な──わたし自身も別にさんざんやったわけだが──論理的努力の一例なのである。

もっともオートポイエシスの本を読んだ当時は哲学書とかは読んでなかったから、「理科系のネタじゃねえ」という判断はつまり「入力も出力もない」という、かの有名な意味不明の1行を読んで下したわけだった。物理屋の友達が「それって孤立系ってことか」と言うから「孤立系というか、こじつけだよ」と答えたりしたのを覚えている。入力も出力もないのだったら観測すらできないわけで、にもかかわらずそれが(物理の側からみて)「ある」ということがどうして証明できるのか。自由意志と同じで証明なんかできないのだ。証明はできないがある別の観点からは確かに「ある」としか言いようがない、とすればそれは端的に「物理の観点ではない」つまり形而上学の観点なのである。

どうってことはない、そう言えばいいのである。言うとオバケだと思われるから屁理屈をこねてみせているだけなのだ。それはいいけど(いいんだよ!)無駄に難解な屁理屈をこねて若い学生を誑かす。「わかんねえ」と言うと「勉強が足りない」などとぬかすのだからタチが悪い。ベンキョーは信心やお布施じゃねえんだよ。
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