惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「知識」についてのメモ(2) ── 行為の触媒としての知識

2014年03月31日 | チラシの裏
知識とは「真理の保証」である。そう考えてみると、ひとつの疑問が自然に生じてくる。

知識が真理の保証であるというのはいいとして、では、その真理はなぜ保証されなければならないのか、ということである。ほとんどの場合真理はそれ自体としてあるのではなく、保証されなければならないものであるとすれば、なんで「わざわざ」保証を要する真理を、あるいは真理の保証にすぎない知識を、人間は「わざわざ」求めるのか、ということである。

その疑問の答が今回の副題である。知識は本来、さもなくば行いえなかった行為を行いうるようにする、つまり行為を触媒する性質をもっている、ということである。

いま腹を空かせた人の目の前に、見たこともない物体がひとつ置かれているとする。その物体はどう見ても食欲をそそる形と色をしている上に、「うまそうな」匂いまでたてていやがる(笑)としよう。ところが我々人間は徐にその物体を手に取って口へ運ぶことが、しばしばできない。食べることができないだけでなく、食うか食うまいかと葛藤して立ち往生してしまうこともある。

知識はそこで「その物体は○○である。そして○○は食べ物である(あるいは、食べるべからざる毒である)」という真理を保証することができる。この保証によって初めて我々は食うか食うまいかの葛藤を離脱して、その物体に手を伸ばして食べる(あるいは、手を引っ込めて立ち去る)行為を開始することができる。知識によって初めてそれが可能になる、つまり「さもなくば行いえなかった行為」が可能になるわけである。

初めて目にする物体が食べ物なのか、見かけが食べ物っぽいだけで致死性の毒をもつものであるのかは、自明な真理、つまり直接経験の範囲を超越している。普通の言葉で言えば「食べてみなけりゃわからない」ことである(笑)。つべこべ言わずに(騙されたと思って)食ってみろ、などと言ったりするわけだが、冗談ではない、もしもそれが毒であったとすれば、食べたら死んでしまうわけである。

人間はそこで「勇気を奮って」食べ物である(毒である)ことの方に賭けることもできる存在ではある。けれども、そうは言っても現実にはほとんどできないものでもある(笑)わけである。知識をもつことはその敷居を無にはしないかもしれないが、それでもぐっと低くすることではある。

これはまったく、化学における触媒(catalyst)の性質そのものである。触媒はそれがない状態で必要とされる活性化エネルギ(activation energy, Arrhenius)という名の「敷居」をぐっと低くすることによって、特定の化学反応を生じやすくする(反応速度を上げる)作用をもつ物質である(その効果がしばしば桁違いなので、見た目には「起こりえない反応が起こる」奇跡の物質のようにも見えるが、実際はそうではなくて、ただ「敷居を下げて」いるだけである)。

何にせよ、こんな風に知識は行為の触媒だと考えられる。自明な真理だけではなく真理の保証を真理同然のものとして(手形を現金同然のものとして扱うように)扱うことで、人間は実際に可能な行為の範囲を大幅に広げることが可能になるわけである。

さらに、このように考えてみれば、この考え方自体が真理とは何かということの実際的(pragmatic)な本質を定義するものだと見なすことが、あるいは可能であるかもしれないということに気づかされる。少なくとも、そもそも真理はなぜ尊重されなければならないかというときに、絶対的・超越的な何かを無理して想定する(そうしなければならない予感に不安を抱く)必要は、必ずしもなさそうであることがわかる。

もちろん、はっきりした疑問がひとつ、ここから生じてくる。知識は確かに行為の触媒でありうるが、何の行為も触媒しない知識もまたあるように思われるということである。そのような知識の意味は何か、つまりそのような知識をもつことはいったい何をしていることになるのか。これは、またそのうち考えよう(笑)。

(つづく)
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