惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

断片

2014年05月20日 | チラシの裏
以下はあるテーマについて論じている中の余談として書いた、小学生のころの思い出話のようなものである。思い出話の部分だけ抜き出したので、本当のところ何を言わんとしたものかは、たぶん読んでも判らないはずであるが、許してもらうことにする。



(前略)当時の日本は高度経済成長のまっただ中で、科学技術の進歩が人類全体にバラ色の未来を開くであろうというようなことが、今日からはおそらく想像することもできないくらいの水準で(少なくともわが国では)強く確信されていた時代であった。それはそれで、小学生のわたしにとって少しも悪い話だとは思われていなかった(実際、今だって少しも悪い話だとは思わない)のであるが、それでもある日、いやある晩、ふと嫌なことに気がついた。

そうやって無限に(とはこの場合、「際限なく」という意味である)進歩して行った先の世界に何があるのだろう、ということである。

それが、思い煩うことの何もない世界だというのは、確かなことであろう。進歩とは何かと言ったら、そういう悩みの種をひとつずつ潰して行くこと、それも、ふたたび同じ悩みが生じない形でそれを潰すことである、そう言っていいであろう。そうすると、いつかはその悩みのネタも尽きることになるであろう。完全に尽きなくても、たとえば99%尽きたら、事実上は尽きたも同然だと見なせるようにはなるであろう。

で、実際に未来がそういう世界になったとしよう。そしたら俺は、もしもその時まだ生きていたとすれば、はて、俺はそんな世界でいったい何をすることになるのだろうか(笑)。まったく何もすることがないのではないだろうか──だろうかではない。以上の前提が正しければ、実際まったく何もすることがないのである。

もちろんそういう世界では、何よりまずコドモは勉強しなくていい(笑)、学校に行かなくていい、大人も働かなくていい、仕事に行かなくていい、毎日美味しいものを食べ、食べてすぐ寝てしまっても叱られない(笑)、人間どうしが憎みあい、殺しあうこともなければ、そのような争いが生じる可能性について考える必要もない、とにかく思い煩うことが何もない世界である。どこまでも結構づくめな、そういう世界で、実は「わたし」は何もすることがないのである。

寝たり食べたりはするとしても、それらの欲求が生じたと同時に満たされる、少しの遅延も抵抗もなく正確に満たされる、つまり自分の意志では指一本動かす必要がない。そういう意味では意志を持たないロボットと同じである。苦痛らしい苦痛は何もない、今ある世界(1970年前後の世界だ)を思えば天国にも等しい世界である、にもかかわらず、言いかえればそれは、そうした世界では、人間は事実上ひとり残らず死んでしまっている。動き回ってはいてもゾンビであり、ロボットである。そうとしか言いようがないのである。

そんなことをひとしきり空想して嫌な気分になった。なったけれども、まあ、自分が生きてるうちにそんな世界がやってくるはずもない、そうなることがあったとしても何千年何万年と先の遠い未来であろうし、そんな遠い先の未来について自分がいかなる義務も責任も負わされているはずがないことも明らかであったから、このことが小学生の日々に深刻な影を落とすということは、基本的にはなかった。

なかったけれども、今もこうして時々それを思い出して書くことができるということは、忘れたこともなかったということである。
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