blogのコメントやトラックバックが気持ち悪いというのは、単にわたしの個人的な好みにすぎない。それをわざわざ書いてみたのは、誰にとってもそうではないのかという問題提起の意味では少しもない。そうではなくて、好き嫌いはともかく、そこでわたしが感じている種類の違和感と同じ違和感を与えるものが、おおよそ「伝達(コミュニケーション)」ということをめぐって、この15年から20年くらいの間に、文明世界のあちらこちらに出現するようになったという印象を、わたしは持っているのである。そしてそれらについて納得の行く(つまりわたしの場所から言えば違和感の出所を探り当てたと思える)分析を行っている例を、わたしは読んだことがないのである。
(どうもここ数ヶ月間MSWの英文和訳ばかりやっていたせいで、普通に書いてるつもりで妙に回りくどい文章ができてしまう、という変な癖がついてしまったようだ。まあこれはこれで、書いてる方は面白い(笑)のだが、読む方はたまったものではない。しばらく和訳から離れて文体を元に戻さなくてはいけない)
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たとえば「コミュニケーション能力」という変な言葉がある。こんな言葉はちょっと前まで存在していなかったはずである。少なくとも20世紀には、現在と同じ文脈でこの語が使われているのを目に耳にしたことはなかった。そもそも伝達は機能であって能力ではない。この語を作った人物はよほど無知なのだろうと思う。知らずに使っている方も大概だけれども。
まあそれはそれとして、この言葉が指し示しているもの(概念)が、この言葉以前にはなかったのかというと、必ずしもそうではないとわたしは思っている。ぴったり一致するわけではない、大雑把にだが、それ以前の時代にこの言葉と同じ位置に収まっていたのは「社交性」という言葉だった。普通に置き換えてみれば結構、故障なく置き換えられるはずである。
その「社交性」という言葉もまた、「コミュニケーション能力」とそっくり同じような倫理を随伴させているところがあって、口にするのも忌まわしい嫌な言葉のひとつだったが、それはそれとして言葉として「社交性」が廃れて、まったく同じ役割を「コミュニケーション能力」が担うようになったというのは興味深いことである。好悪は別として「社交性」という言葉の背後には価値的なまとまりをもつ社会が想定されていた。それを肯定的に考えるにせよ、反発して否定的に受け止めるにせよ、コンパクト写像としての規範とその像である社会(価値的なまとまりとしての社会)が共有されていた、その像が脱落した(コンパクトな像を結ばなくなった)結果が「コミュニケーション能力」という、それ自体にはほとんどどんな価値もなさそうな局所属性の、地面に落っことしたウドン玉のような無秩序な束を連想させる汚らしい言葉に変化したのではないだろうか。我ながら都合のよすぎる分析のような気もするが。
(どうもここ数ヶ月間MSWの英文和訳ばかりやっていたせいで、普通に書いてるつもりで妙に回りくどい文章ができてしまう、という変な癖がついてしまったようだ。まあこれはこれで、書いてる方は面白い(笑)のだが、読む方はたまったものではない。しばらく和訳から離れて文体を元に戻さなくてはいけない)
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たとえば「コミュニケーション能力」という変な言葉がある。こんな言葉はちょっと前まで存在していなかったはずである。少なくとも20世紀には、現在と同じ文脈でこの語が使われているのを目に耳にしたことはなかった。そもそも伝達は機能であって能力ではない。この語を作った人物はよほど無知なのだろうと思う。知らずに使っている方も大概だけれども。
まあそれはそれとして、この言葉が指し示しているもの(概念)が、この言葉以前にはなかったのかというと、必ずしもそうではないとわたしは思っている。ぴったり一致するわけではない、大雑把にだが、それ以前の時代にこの言葉と同じ位置に収まっていたのは「社交性」という言葉だった。普通に置き換えてみれば結構、故障なく置き換えられるはずである。
その「社交性」という言葉もまた、「コミュニケーション能力」とそっくり同じような倫理を随伴させているところがあって、口にするのも忌まわしい嫌な言葉のひとつだったが、それはそれとして言葉として「社交性」が廃れて、まったく同じ役割を「コミュニケーション能力」が担うようになったというのは興味深いことである。好悪は別として「社交性」という言葉の背後には価値的なまとまりをもつ社会が想定されていた。それを肯定的に考えるにせよ、反発して否定的に受け止めるにせよ、コンパクト写像としての規範とその像である社会(価値的なまとまりとしての社会)が共有されていた、その像が脱落した(コンパクトな像を結ばなくなった)結果が「コミュニケーション能力」という、それ自体にはほとんどどんな価値もなさそうな局所属性の、地面に落っことしたウドン玉のような無秩序な束を連想させる汚らしい言葉に変化したのではないだろうか。我ながら都合のよすぎる分析のような気もするが。