惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

5月病記念(2)

2010年05月01日 | 他人の狂気
ところでこのシリーズ題だが、これは別にわたしが5月病だということではない。それを言うならわたしは物心ついて以来ずっと5月病なのだからいまさら記念することはない。自分では「怠け病」と称している。鬱病と一緒にされては迷惑だ、というあの病気である。鬱病にはよく効くクスリがあるということだが、怠け病にはつけるクスリもないのである。おイシャ様でも草津の湯でも治せない、という意味では、いま書いていて気づいたのだが、どこか恋の病に似ていなくもない。そう言えば。

思うに怠け病は非存在に対する恋の病である。すっげー哲学みたいだ、ではなく、計算機屋はもともとil-y-aの使い手なのだ。意識的な事柄を対象xへの志向性Intyという意味でInty(x)とかくとすると、このxがヌルポインタの場合、はプログラマならば当然考慮すべきことなのである。職業プログラマならばむしろヌルポインタの場合だけを考えなければならない、と言った方がいいくらいである。ちなみに志向性をintyと略すのは、同じ規則によって内包性はinsyと略せることになって区別しやすいからである。intentionality-with-tとかintensionality-with-sとかいちいち書くのは、書いてる方はワープロだから楽なものかもしれないが、いちいち読まされる方はたまったものではない。

なんか話が逸れた。戻そう。

「友達のいない人だという目で見られるのが嫌だ」ということ自体が不思議だ、と書いた。もちろん、本当は友達がいるのにいない人のように見られるのは(事実と異なるから)嫌だというなら別に不思議でも何でもない。そうではなく事実として友達のいない人が友達のいない人のように他人から見られるのが嫌だというのが不思議なのである。

だからこれはつまりそういうことではなくて、ある人に友達がいないという事実はその事実が何か否定的な意味を帯びていて、それが攻撃的な作用を持っている、あるいは目の前で振り翳された拳のように現実の攻撃を潜在させていると感じられる、それが嫌だということであるのだろう。なるほどそれなら嫌だ。

それにしても厄介な話である。第一に他人が「友達のいない人だという目で見る」ということが現実であるかどうか定かでない。そう感じるというだけである。そしてその定かでないことが「現実の攻撃を潜在させている」ということも現実かどうか定かでない、そう感じるというだけである。ひとつだけなら可能性として考慮することに意味があるかもしれないが、定かでないことが二重になっているというのは典型的な妄想の状況である。「宇宙人の攻撃を恐れる」妄想家の思考と同じである。宇宙人の存在も、宇宙人が敵対的であるということも、そう感じる、あるいはそう思われるだけの憶測なのだから。

・・・しかしまあ5月最初の書き込みがこれかよ。さすがはメーデーだというところである。
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