惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

色川武大「うらおもて人生録」(新潮文庫)

2010年05月03日 | 読書メモ
うらおもて人生録 (新潮文庫)
色川 武大
新潮社
Amazon/7net


このblogでも何度か紹介してきた桜井章一の人生談義は、ユニークな身体論の本として読めば面白い、興味深いことがたくさん書かれているけれど、本当のことを言って、人生がどうのこうのということになるとそんなにタメになりそうなことは書かれていないと思う。現役で仕事を続けてはいるが、かつての「雀鬼」も今は孫も何人かいるようなお爺さんになったなと感じるところがある。

それはそれで、いずれはそうなる、あるいはすでになりつつある人にとっては参考になるだろう、けれどもたとえば、わたしみたいに孫はおろかコドモもいない、予測可能な未来に存在しそうな気配もないという人にとっては「ああ、それはよかったですね」という言葉しか出て来ないということになっても仕方がないのである。

そういうんじゃなくて本当に人生のタメになるような本が読みたい、という人がいるとしたら、わたしならこの一冊を薦める。他に薦めるものは何もないと言いたいくらい、現代日本ではほとんど唯一の「人生指南」の本だと思う。だいたい、桜井章一を退けても薦めたい、薦めても誰からも叱られずに済みそうな(笑)人生談義の本となったら、それはもうこの本を持ち出してくるよりほかにないわけである。

といってこの本の中に文字通り「タメになる」ことが書かれているかというと、本当はそんなには書かれていない。ご本人がこの本の最初の方で「俺なんてくだらん男なんだよ」と書いている通り、そういう言い方をすればまったく滅茶苦茶な人生を過ごしたといっていい人である。この本の中でも具体的に「これをこうして・・・」的なことが書かれている箇所はいくつかあるけれど、それをそのまま受け取って実践する人がいたら、絶対に保証できるが、人生破滅の一直線を突き進むことになるはずである。だって本人がそうなんだから。

どこのイシャが診断書にそう書いたのか知らないが「心臓破裂」で亡くなったと、死後に出たたいていの本の奥付にはそう書かれていた。交通事故やなんかで物理的に圧迫されたわけでもないのにそんな死亡理由があってたまるかと思うわけだが、色川武大ならひょっとするとあってもおかしくないかも、と思わせるところがある、事実それほど凄惨な生涯を送って終えた人である。この本の中でも字面の上では「9勝6敗」ということを著者色川は語っている(これは色川の十八番だ)が、ご本人は時々ひょっこりAクラス、いや阿佐田哲也杯に因んで言えばS級の優勝争いに顔を出しては皆を驚かせたりしたことがある程度で、あとはほとんど2勝13敗くらいの戦績で低迷し続けたと思う。閻魔様が競輪新聞を参照して実証的に評定するならそういうことになるしかなかろうと思う。

そんな人が人生の来し方を語った本がどうして人生指南の書としてオススメで、たとえばamazonのカスタマーレビューでも手放しで絶賛している感想ばかりであったりするのか。要するに色川武大という人は、昔の言葉で言えば生涯を「ツッパリ」通した人だということになると思う。人と世間の性懲りのなさや抜け目のなさ、社会制度のびくともしない理不尽と頑健さ、さらには天然自然のどうしようもない雄大さといったことにその都度ぶちあたってはやりこめられたり敗北感や劣等感を抱いたり、時には感嘆の表情をさえ浮かべたりしてみせながら、その実最後までこれらのあらゆる強力に対抗して文字通り自分を「ツッパ」るように存在させ、そのままの姿勢で生涯を押し通す道を進んだということである。

そういうことをすればひとりの人間の生涯は凄惨なことになるのに決まっている。確かこの本の冒頭には「優等生は読まなくていい」という一言が書かれていた。それはつまり(天然自然を含めて)強勢をもつものの強さに乗っかって生きしのいで行けるならそうすればいい、人の書いたものを読むまでもなかろう、という意味だと思う。けれども何かの不運からそうできなかったか、あるいはできたとしても確かに自分の力ではない力の上に乗っかって生きて行くことにどうしても納得できない人はどうすればいいのか。どうするも何も本当は破滅の道があるだけなのだ。しかし、その道をせめて最後まで走り切ろうと思うなら──思うはずだ──たとえば俺はこんな風にやってきたのだが、という体験の過去と現在がこの本には書かれているのである。

こう書いてもまだ立派すぎるということになるかもしれないからもうひとつだけ書いてみる。わたしなどが何より驚いたのは、ご本人の死後も色川武大の母親という人は存命で、どこかの週刊誌の取材に答えていわく「あんな穀潰しの極道息子が」というような意味のことを吐き捨てるように語っていたことであった。色川武大は進退きわまるような危機に陥るたんび生家に転がり込んでは、しばらくほとぼりを冷ましているということがちょくちょくあったものらしい。今でいうところのニートである。そうでなければ実の母親が、息子が死んだと報されて吐き捨てるように言うわけもないだろう。そういう、ほんとの「裏話」は、さすがにこの本の中には直接的には書かれていない(笑)。

見た目はどんなに格好よくても、ツッパリの不良少年がバイクで転んで早死にもせずに生き延びたという場合は、たいていそういうみっともないエピソードのひとつやふたつは隠されている。けれどもそのカッコ悪さ、みっともなさの次元で折れてしまうわけにはいかない自分がすでに存在していたら、その人はいったいどうすればいいのか。何をどうすることが「生きている」という言葉にかなうことでありうるのか。曲りなりにもそれに答える、答えようとする姿勢で書かれた本は、少なくとも現代日本にはこの一冊しか存在していない、とわたしは思う。

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