惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

3-4c (ver. 0.1)

2010年04月13日 | MSW私訳・Ⅰ
3-4 「我々」志向性はいかにして個体へ移行するのか(承前)

構成的経由関係の場合の考察に戻ろう。二重奏の演奏でわたしがピアノを、あなたがヴァイオリンのパートを受け持つという場合である。わたしはわたしのピアノ演奏だけを引き起こすことができる。わたしはあなたがヴァイオリンを演奏するということを前提しなければならない。したがってわたしの意図の内容は

個人の行為Aを経由した集合的な行為Bのia(このiaは行為A=ピアノ演奏を引き起こし、集合的な行為B=二重奏の演奏を構成する)

そして因果的な場合とパラレルな相当する信念は

信念(集団におけるわたしのパートナーは次の形の行為中の意図を持つ(個人の行為Aを経由した行為Bのia(このiaはヴァイオリン演奏を引き起こし、二重奏の演奏を構成する)))

ふたたび普通の日本語[原文は英語・・・やれやれ]で読み下せば次のようになる。わたしはわたしの分担(個人の行為A)をこなすことを経由してBを達成するための集合的な行為中の意図をもつ。その意図の内容は、この行為中の意図はピアノ演奏(を行為Aとして)引き起こし、それはその文脈において二重奏の演奏の場合を(集合的な行為Bとして)構成する。信念についての追加節は次のように読み下される。わたしは集団におけるわたしのパートナーもまたわたしが持つのと同じ形の行為中の意図、つまり、集合的な行為Bを個人の行為Aを経由して達成する、その場合行為Aはヴァイオリンを演奏することであり、その文脈においてそれは二重奏の演奏(集合的な行為Bとして)の場合を構成するという行為中の意図を持つ、という信念をもつ。

反復するに値する重大な特徴がひとつ。両方の場合において、わたし個人の志向性の内容は、あなた個人の志向性に対する本質的な参照を行わない。わたしは単に、その文脈において、わたしがわたしの分担を果たせば我々は目標達成を試みることになるということを当然だと思っている。なぜならわたしはあなたがあなたの分担を果たすという仮定のもとでそれを行うのだし、あなたはわたしがわたしの分担を果たすという仮定のもとでそれを行うのだからである。これに対しては認識論的な基礎が存在する。しばしば人は集団内の他の成員の心の中の個人的な志向性がどうなっているのかを知らない。わたしはある目標を達成しようという集合的志向性を持つかもしれない。[持つ場合には]わたしが持つのと同じ作業目標をあなたが持つという仮定のもとで持つのである。アメフトの試合で言えば、パスプレーにおいてブロックを行うオフェンスラインの選手は、ワイドレシーバーがどんな経路をたどるか、あるいはクォーターバックがパスを投げる前に何歩下がるかといったことを知る必要がない。

・・・アメフトの知識がアメフト中継観戦以外で役に立ったのは、生まれて初めてだ。

彼が知るべきすべては、彼が[プレー中に]どういう動きをすることになっているのか(アメフト・コーチの隠語で「アサインメント」というやつ)であり、後者の記法[控室で黒板とかに書くアレのことか?]は彼の意図の充足条件をとらえる試みである。

この分析が成功しているならば、わたしは、それがどうやって集合的志向性が個人の心の中に存在し、同時にその集合的志向性が(本質的に集合的であったとしても、それにもかかわらず)個々の身体動作を引き起こすことができるのかを示すことができたということになるだろう。わたしの身体が動かなければ行為は行われない。またこのことは集合的な意図の内容の中に反映されなければならない。たとえ集合的な意図の内容のすべてが、わたしやあなたや集団の他の構成員の脳の中に存在するとしてもである。

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