惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

うーむ

2011年07月12日 | 私訳メモ
訳文の方はどうにもハッキリしない、怪しい訳ばかりになっているわけだが、3-03を原文と既訳書でざっと読んでみる限り、ヒューム先生がややこしいことを主張しているということまでは、どうやら確かである。「任意の対象について、それが存在することはその原因を必要とするのか否か」という問いに対して、その問いの答は「決定不能」だと主張しているのである。つまり、対象の存在が原因をもつものでありうること、それ自体が否定されているわけではなく、それが常に必要なのかというと、それは「わからない」と答えるのが正しい、という主張である。「原因を持たない存在が少なくともひとつ存在する」というのではなく「あらゆる存在が原因を持つかもしれないし、原因を持たない存在があるかもしれない、どちらが正しいのかを論理的に決定することはできない」というのである。

ゲーデルの不完全性定理もチューリング機械の停止判定不能定理も大学の学部レベルで習う、どうかすると大学院で可能世界意味論の初歩まで習わされていたりするような現代の我々にとっては、そのような命題がありうるという程度のことは、べつだん不思議なことでも何でもなくなっているわけであるが、18世紀には理解するのも説明するのも骨が折れまくる何かであったということかもしれない。ヒューム先生自身の証明や説明もあちこち脱臼していて、訳す方の骨まで折りまくっているのだからもう無茶苦茶である。

まあ、「決定不能」というならそれはそれで、現代の我々としては構わないわけである。しかしヒューム先生はどうしてこんな先駆的な論理の複雑骨折を、特に因果関係ということについて提示してみせなくてはならなかったのか、そこにどんな「必然性」があったのか、それはそれで、訳出の現時点ではまだ不明だというべきである。

また、ここでそれを強調するというのは、おそらくはここいらの議論に関連して、例のprobability(本訳ではあえて暫定的に「半知識」と訳している)の語に、やはりというか、どうやらヒューム先生は非常に特異な意味を与えようとしているらしいことが、少しずつはっきりしてきたからである。すべての対象が原因を必要とするかどうかは「わからない」のであるが、そのわからないということを含めた上で因果関係に基づく論証ということを考えることが正当に可能なのであって、ただ、そこには半知識という概念が新たに導入されなければならないのだ、というような感じの議論である。違うかもしれないが。

最初の方は、これだったら「山」でも「川」でも、別に何と訳したって構わないくらいじゃないか、くらいの印象であったものが、次第にややこしいことになってきているわけである。変に深入りして生涯を台無しにしないよう、注意しなければならないところである。
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