暮れの頃、冷え込みも強くなってくる頃、袋田の滝が今冬も凍るか期待する、茨城県の大子町からです。
茨城県のチベットともいわれる僻地で寒ーい町。
だけれど、人々は心遣い温かい(と思いたい)町。
久しぶりに「我が街・我が風景」。
大子の商店街で新たな事実が発見されました。
見つけたのは、商店街で今は洋品店を営む所のご子息さん、まだ大学生。
とても賢く、とても歴史が大好きな青年です。
将来は次代目の跡を継ぐべく勉学はもとより、たまに帰郷しては町おこし(本当の町おこしですよ!)に協力し社会勉強されています。
つい先日に催された、大子町商工会青年部主催の「百段階段キャンドルナイト」にも情報を寄せ、大いに貢献されました。
あの百段階段ができて今年、12月23日で100周年を迎えたことを掘り起こしてくれたのです。
本町通り・山田文具店前にある「百段階段」。
後山地区にある十二所神社への参道入り口となり、百段階段は通称です。
だいご小学校の通学路にもなっており、地域の人々も苦もせず上り下りをしています。
夜の荘厳な風景もいいですよ。
ここを上って高台から街を眺めると爽快です。
遠くに男体山と長福山を望み、眼下には山間の「かつても今も栄えること現在進行形」な昭和レトロ懐かしの街並み。
なぜこんな山間に広大な商店街があるのかは歴史が語るところ…たばこ、コンニャク、木材の集積地出荷地…交通の要所でもあった街。
かつてはこの写る範囲だけが「大子町」でした。
川の向こうは袋田村、宮川村などで、今でも年配の方は商店街(中心市街地)を「だいご」と呼んでいます。
市街地周辺の人々が「だいごへ行く」は、中心市街地へ行くこと。
水戸の人々が「大子へ行く」は、袋田の滝だったり生瀬や浅川のりんご園だったり「現在の大子町の範囲」になります。
なかなか興味深いものです。
「大子ふれあい商店街」や「大子町のほほん商店街」とか、「だいごレトロ街」などといった愛称はないんですけどね。
さて、「百段階段」です。
かつての十二所神社は、現在よりも西の方に鎮座しておりました。
明治43年4月24日の未明、当時の街が1/3も焼失、神社も焼失する大子大火に襲われます。
その翌年より、街の再興と復興が始まり、神社の再建が当時の総代さんや町長さんをはじめとする再建委員会により始まります。
大正2年7月、神社再建の一環として、100段の石段参道を設ける工事が始まります。
そしてその年の12月23日、101段の石段が落成します。
今年で落成して100年経ったのです。
のちの世界大戦の戦乱、2011年3月11日の東日本大震災の大きな揺れにも大した被害を受けることなく頑として100年を経過しているのです。
(正確には、経過年度の途中で石組みの歪みがあり修復をしています。)
石段手前の大鳥居は、大正6年6月30日に建設。
神社本殿は、大正7年5月9,10日に遷宮式を行い、一環の大再建が進められてきました。
ただし、このときの本殿は現在の位置と異なり、今のだいご小学校の敷地内にあったとされます。
本殿は、のちに大子尋常小学校の敷地拡張に伴い、現在の後山に遷座されています。(昭和初期)
これらの驚くべき事実を伝えてくれた、洋品店のご子息さんは、神社再建当時の大子町町長・益子彦五郎氏の回顧録から掘り起こしたのです。
その書は、『最近大子記事并ニ余長町ノ事蹟』といいます。
意外にも知られざる歴史でした。
時の町長が記事を残していなかったら、今の青年が歴史を掘り起こしていなかったら、知らないままだった歴史。
現在の現地には、石段にまつわるこれらのはっきりとした彫り込みがなかったのですから。
我が街の洋品店さんの青年に感謝申し上げます。
来るべき春には、ここで「百段階段でひな祭り」が開催されます。
歴史を読みつつ、楽しんで下さい。
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