春のうららかな陽気になってきた、茨城県の大子町からです。
水戸市の梅も寒さ厳しいため平年より遅れながらも咲き誇ってきています。
大子も花の町になるのもそろそろ…
我が街風景。
新道通りの泉町側(東側)です。
役場前通りから左折しての見通し。
ここの通りは、大子町の医療施設が集まっている通りです。
全ての救急車は、ここの通りに駆け込んできます。
・久保田病院
・保内郷メディカルクリニック
・慈泉堂病院
・吉成医院
近いうちに開通する国道461号線が通るまで、一方通行の駅前と本町通りをバイパスしています。
かつて、大変においしい焼きそば屋さんがあった通りです。
川井さんの焼きそばで思い出した方、どれほどいらっしゃいますでしょうか?
”きんつば”という大判焼きもあったと。。
また、今は葬儀屋さんになっていますが、喫茶店「メープル」もありましたヨネ。
私もガキめの頃は”クリームソーダ”をねだってました。
大子人で初めてナポリタンを食したのはここだという方もいらっしゃるのではないでしょうか?
「保内郷」を冠する病院。
保内郷とは、今は大子町といわれている地域のかつての呼称なのです。
以下、役場HPからの引用です(原文ママ)
~~~~~~
本町は、もと陸奥国白河郡に属し、「倭名類聚鈔」のいわゆる白河郡17郷のうち、八溝山東南の地で、10世紀前半には既に「依上郷」として成立しました。
その後、「依上保(よりかみのほ)」と呼ばれました。
その地方は、下総の結城朝光の孫、祐広が白河に居住以来いわゆる白河結城氏の影響を受け、在地領主の勢力拡張の場であったといいます。
さらに永正年間に至り、依上保は佐竹義舜の支配下におかれ、文禄の太閤検地によって、佐竹義宣が領有するところとなりました。
以来、この地方は常陸国に属するようになったわけです。
この依上保は、慶長7年に佐竹義宣が秋田へ移封されてから、水戸の徳川氏の所有になりました。
そして、明治元年に徳川昭武が水戸藩知事になり、明治4年7月の廃藩置県のときに水戸県に属し、同年11月13日に茨城県に属するようになりました。
今この地を「保内郷(ほないごう)」と呼んでいるのは、すなわち、この「依上保」からきた名称だといわれています。
その後、明治22年4月の市町村制実施によって、保内郷では大子村・依上村・黒沢村・宮川村・袋田村・生瀬村・上小川村・下小川村・諸富野村が誕生し、
更に明治23年8月に依上村が分村して佐原村が生まれ、翌24年8月に大子村が大子町として町制を施行しました。
以来、保内郷は1町9か村として長いあいだ歩んできました。
そして、昭和28年9月の町村合併促進法の施行に伴い、諸富野村は昭和30年2月に那珂郡山方町と久慈郡下小川村に分村して合併しました。
また、一方、保内郷各市町村でも急速に合併気運が進み、昭和30年2月24日に保内郷1町8か村が一斉に合併議決を行い(下小川村は、那珂郡山方町と大子町に分村)、
同年3月31日、現在の「大子町」が誕生しました。
~~~~~~
依上保→保内郷→大子町。
ちなみに、今も町内(まちうちという、中心市街地のこと。)を大子、ほかの生瀬・黒沢・依上・上小川などを郡部(ぐんぶ)という名残りがあります。
平成の大合併が最近ありましたが、昭和30年に大子町はそれに匹敵する大合併で、人口も4万人超えしたんですよ。
今は2万人、間もなく1万人台になってしまう町ではあります。。。
温故知新。
歴史を読み解くことも面白い発見がある町なのです。
最新の画像[もっと見る]
- 令和元年、奉祝です。 5年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 梅雨入りした奥久慈大子。 6年前
- 新緑~梅雨入り前の頃の奥久慈大子(過去を振り返る) 6年前
ちなみに
保内郷一円合併を強力に推進したのは旧上小川村の村長だった宮田篤三郎氏です。彼は、町村合併の本質を理解し、昭和の大合併で行われた2・3の自治体による合併はその本質に反するものだと考えていました。そのため、平成の大合併に相当する大合併が成立し、現大子町が誕生しました。
人口約4万4000人という数は、当時の県内自治体中第5位でした。市部を除く町村部だけで考えると堂々の第1位。さらに、平成の大合併で常陸大宮市が誕生するまでの約50年間に渡り、県内最大の面積を誇っておりました。
昭和の大合併において、いかに規模の大きな合併であったかを伺い知ることができますね。
誤植は役場の書き担当(?)に伝えないとですね。。。
さらに詳しい追記をありがとうございます。
かつての大子は今では信じられないほどの栄えた町なのかが伺えますね。
昭和46年ごろメープルでハンバーグステーキを初めて食べました。
滝本の友達に誘われまして・・・
メープルの近所だもので、小さい頃はナポリタンの香りがしてきました。
店内も大子おろか近隣でも洋食屋さんとしっかりいえる佇まいでした。
がねっちさんへ、私の書いた方が間違っておりましたので訂正しておきます。
ご指摘ありがとうございます。
私は、いろいろとお世話になっております大子町金町の吉見屋商店6代目(まだ次いでおりませんが…)です。
長らく閲覧だけをさせていただいておりましたが、今回初めてコメントを残させていただきました。
どうぞよろしくお願いします。
次→継
遠慮無くコメントしていってください。
またお待ちしております。
私は、3歳頃までこの通り沿いに住んでいました。
もう60年前になります。
小学生の夏休みには、毎年遊びに行ってました。
小道から町役場〜久慈川まで散歩しました。
焼きそば、大好物でした。
魚肉ソーセージが刻んであって、竹の皮で包まれて、、、。
懐かしい‼️
6年前に亡くなった生瀬が故郷の母の位牌を持って11月に訪れる予定です。
痛みがあるのものの、建物はまだ残っています。
つい先日、その近くの「メープル」跡は解体されてしまいましたが、通りの面影はまだ少しあります。
ぜひ記憶をたどっていってください。