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皐月賞の法則3

2011-04-20 00:10:43 | ダービー馬を探せ!2011
よくよく見てみれば、23年前に東京で行なわれた皐月賞の血統傾向が手元にあることに気付いた。だからといって、これが役に立つとは思わないが、見つけた限りは掲載しておかないと。

父ニジンスキー系が1着、3着!!!!
って、当時はSS産駒もいないし、馬場も今みたいな高速馬場じゃないしね。
あくまでも、豆知識ということで。
といいながら、1着ヤエノムテキ、3着のサクラチヨノオーの名前を見たら思い出さずにはいられない。(残念ながら2着のディクターランドには思い出がない。)
惜しくも3着に敗れたチヨノオーは、宿敵ヤエノムテキ、メジロアルダンを押さえダービーを制した。
★1988年東京優駿★
小島太VS岡部幸雄。いわば雑草VS優等生の壮絶なる叩き合いでもあった。当時、小島太はサクラの主戦騎手で、勝てば聖蹟桜ヶ丘のサクラのオーナーが経営する『焼肉モンブラン』でたらふくご馳走になり、負ければ負けたで、系列店のサウナに閉じ込められていたという噂が実しやかに囁かれていた。ちなみに、府中の『さくらパチンコ』では、サクラの馬が勝った時にはお客さん全員にドル箱一箱を無料でサービスしていたものだ。これホント。

で、チヨノオー。
ダービーのあと屈腱炎を発症し、3歳秋は休養を余儀なくされ、1年後の安田記念で復活をはたすものの16着。雪辱を期した宝塚記念でも16着になり、そのまま引退とあいなった。なんとも悲運の名馬である。というのも、戦歴ではダービーのみであるが、闘ってきた相手をみれば納得というもの。
3着に敗れた皐月賞の勝馬はヤエノムテキで、ダービーを制したときの2着はメジロアルダン。そして2年後―つまり1990年。この年の秋天で、当時、この2頭で何もなし!と言われていたオグリキャップとオサイチジョージを押さえ、ワン・ツーを決めたのだ。しかも、枠連4-4。今でこそ枠連などは見向きもされないが、当時は馬連などなく、ただでさえゾロ目はめったに出ないという、今となっては何ら根拠もない競馬オヤジのヨタ話を信じ込み、ひたすらゾロ目を避けて買っていた矢先に、枠連4-4とは、驚いた。オグリ-オサイチ一点の馬券を握り締め、府中のゴール前で呆然と佇んでいたことは、忘れたくても忘れられない…★1990年天皇賞(秋)★
ということは、もう少なくとも23年間も競馬をやっているのか・・・・・・・
いい加減脚を洗わねば・・・・・・・・
なんてね♪むりむり♪


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