じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

病気の症状としての「妄想」について、覚書。(症例)

2005-06-22 21:36:00 | 介護の土台
※一部、改稿いたしました(6/23 01:25)

前回、妄想に関する対処のしかたについて、自分なりの考えを書いてみました。
今回はそれを踏まえたうえで、
私の体験の一部を、参考までに書いてみたいと思います。

じいたんばあたんのケースではありませんが、
この症例が、私にとってのイニシアルケースであると言い切れる
そんな症例を紹介したいと思います。

その後の人生で、別の家族を看病した場面や、
また、現在、じいたんばあたんとの生活の中で、
時に現れる妄想のようなものに対処するとき、

この時の体験が、私を助けてきたと思っています。

そういう訳ですので、どうかご容赦ください。


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症例)私の父の場合(当時、父41歳、私は高1)

病名:脳腫瘍(悪性)再発何回目か。

状況:(うろ覚えですが確かこんな感じ)
   5回目か六回目の手術の後。
   腫瘍摘出のほか、
   正常圧水頭症によるシャント手術も施行後であったため、
   痴呆症状を呈しているのだろうということで、経過観察。
   幻覚・幻視を緩和する薬物治療は適応ではない。


脳圧があがってしまっているせいで、
「水頭症痴呆」が出ていた時期がありました。

父は、様々な妄想(幻覚や幻視)に苦しめられていました。
そのとき症状に応じて対処してきたわけですが、
一番、分かりやすく、また印象に残った事例を一つ、書きたいと思います。

例えば、
「足元に、黒猫が座って、どかないんだ。不吉だからどこかへ連れて行ってくれ」
と切羽詰ってわたしたちに、訴えるのです。

母はそんな父の変わりように、
「そんなものいないわよ、あなた。どうしたの、あなた」
と悲しみ、途方に暮れ、病室の外で泣き崩れていました。

でも、いっこうに症状はおさまらず、
他の妄想(向かいの部屋が霊安室だからいやだ、とか)も
強くなってきました。
父の手にはナースコールが握られたまま。

その時ふと思いついて、やってみたことを書いてみます。


たま「パパ、パパの足元には黒い猫がいるのね。」

父「そうなんだ。気味が悪いんだよ。たまこは分かってくれる?
  ママに言っても、信じてくれないんだ」

たま「うんとね、パパ。
   あたしには、黒猫がよく見えないんだ。
   でも、パパに黒猫は見えてて、すごく嫌なんだよね?
   たまも、同じようなことあったら、嫌な気分になっちゃうよ。
   
   だからさ、どの辺りにいるのか、教えてくれないかな。
   たま、がんばって捕まえるから、
   ちゃんと捕まえられたかどうか、教えてちょうだい。この辺?」

   (としばらく、ベッドの足元あたりを、探ってみる)

父「ああ、そこだ、そこだ。(笑顔になる)」

たま(抱き上げるしぐさをして)「ねえパパ、まだ、足元にいる?」

父「いや、たまが抱っこしているやつだけだ」

たま「そうなんだ~。じゃあこのまま、連れてって、外でえさでもあげてくるよ」

戻ってきたとき、父は落ち着きを取り戻し、ナースコールから手を離していました。

それからも時々、誰もいないときを見計らって、
父に、直接

「猫はいない?怖くない?たまには、見えないんだけど」
と問いかけるようにして、

「実はいるような気がするんだよ」
と打ち明けてくれたときには、上と似たような対処を繰り返しました。

そのうち、
父は「もう、猫はこなくなったよ。ありがとう。」と
笑顔で答えてくれました。

これが、脳圧が下がったせいなのか
対処が適切だったからなのかは、わかりません。
ただ、彼の気持ちが和らいだ結果、
症状を緩和することに多少は役立ったのではないかと思います。


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こういった対処をたまたま出来たのは、

母が、悲しみをぶちまけてくれたおかげで、逆に私が冷静になれたこと
つまりたまたま、「家族」という枠組みのなかで、
こういった対処の仕方が発生し、機能したのだということ
(母がいなければ、私はこういった対処ができなかったと思います。
 母と私が逆であっても、同じ結果が出たかもしれません)

一見、キチガイじみたように見える私の対処と努力について、
妹”にゃお”が理解を示してくれ、協力してくれたこと
(妹がいなければ、この孤独な作業を続けることはできなかったと思います)

他の患者さんのご家族や、看護師さんたちが、
黙ってあたたかく見守ってくださったこと

この三点があったことを付け加えておきます。


家族や周囲の協力があってこそ、こういった対処が可能になったということを、
どうかご理解いただき、
苦しい闘病生活をなさっている方やそのご家族に、
何らかの希望を感じていただければ、さいわいでございます。

つたない文章を、
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


追記1:
父は、核融合理論の研究者でした。
11年の闘病生活の間、ぎりぎりまで研究職を続けました。
そして、43年の短い生涯を終えました。
最後まで、泣き言ひとつ言わず堂々と、生き抜きました。
彼の名誉のために、付記しておきます。