教会に外国人のお客さんが来た。と言っても牧会する教会にではない。今夜、中心的な教会の礼拝に出席していた時だ。イスラエルを支援するヨーロッパの団体で、フィンランド・英・カナダ・ドイツの牧師や学者たちによる日本訪問らしい。
メッセージは当然英語だ。必死に聞き取ろうとしても、ちょっと構文が複雑になったり、知らない単語が出るともう、お手上げだ。仕方がないのでもっぱら通訳に頼る。いずれにしても、じれったいことに変わりはない。特にユーモアで直に分かる時は面白いが、通訳を通してとなると、ちょっと間の抜けた笑いとなるのが残念だ。「あーあ、英語を学ばなかったのは、一生の不覚!」と自分にがっかりする。
また、会が終わってお客さんたちを囲み、会話して交わりを楽しんでいる様子(写真)を見ながら、そういうわけでどうしても入っていけない。聞きたいことがあっただけに残念だった。
そんな気持ちなりかけた時、ふと「感謝」を思い出す。できないことに目を留め、うらやましがるのではなく、まず、できることを心から感謝し喜ぼう。そうすると私がどんなに神様から愛されていることか!・・・・30年もそれに気づかずにいた放蕩息子だった。自分の命に勝る使命が、神さまから与えられていることだって、素晴らしいことではないか!・・・・かつて目的がなくて自暴自棄になりかけた。 この使命を果たすために今、命が与えられていて、かつ、極めて健康であること。まだある。愛する妻がいて、二人三脚で同じ方向を走れること・・・・かつて、夫婦で信仰が違ってしまい、塗炭の苦しみを体験した。
こんな風に思い出すと、英語ができないことなど、取るに足りないことであって、なんと私は神の祝福に満ち溢れているかに気づく。今の私の感謝は誰にも、何物にもこれに代えることはできない。 (ケパ)