今日、ポレポレ東中野で映画「地の塩 山室軍平」を観てきた。その感想。
(1)卵断ちをして仏に祈る?
卵断ちをして、生涯軍平のことを仏壇に祈り続けた母の願い〜「人様にご迷惑をかけず、ちいとでもええことをするもんになりますように」。これが随所に出てきて、ある意味、その成就として軍平の生涯が描かれている。
これが映画のキモなのだろうが、非常に意見の分かれるところだ。仏とキリスト教の神には何の関係もないし、実際わずかでもあってはならない。しかし人間的な見方をするなら、軍平の人格形成に、母の願いが全く関係なかった、とまでは言えないだろう。けれども私は、こと唯一の神に限って、他の神々を用いるようなことは決してされないと信じる。
それゆえこの映画のキモである母の愛の設定は、まことに汎神論的で、疑問であり残念至極である。付け加えて言えば、軍平の母の祈りから始まるが、その祈りとは、どの神様、仏様なのか?祈りや物断ちは神道風だが、それを位牌のある仏壇の前でしている? 監督の宗教センスを疑うばかりである。
(2)組み手の祈り
この映画では両手の指を組んでの祈るポーズが多い。長い福音派上がりの私は、自分でもしていたし余り気にならない方だが、何だかすごくそのシーンが多く、「自分の力で祈る!」風で、律法的で目立ち過ぎに感じた。この映画での祈りのシーンには、何となく霊性が感じられない。
(3)妻の愛に支えられて
廃娼運動で廓の用心棒たちに軍平が痛めつけられ、おそらく担架などで帰った知らせを聞いた妻の機恵子は、夫が神の使命のために血を流し傷ついたことを平然と「名誉なり」と言い放って、見にも行かない。知らせを取り次いだ女中はその平然さに驚く。
私はこれにしびれた。本心はどんなに飛んで行きたかっただろうかと。それが分からぬようでは困る。男性がもし、ひとかどのことを為すことができるなら、それは支えてくれる妻の存在があったればこそだ。そのような妻は神だけが与えてくださるものだ(体験者)。だから人には誇りは一切無く、すべて良きことは神の栄光に帰する。
ちなみに高円寺駅から環七を南に数キロ下った和田に、桜が美しい救世軍のブース記念病院がある。その庭の一画に礼拝堂があって、礼拝堂をぐるり回ると山室機恵子の像が建っている。機恵子は南部藩の代々の武家で、東京は明治女学校出のエリートだった。だから二人の結婚は、当時としては相当な抵抗があった結婚だったと想像する。そんな女性だったからこそ、日本の貧しき人々のために各種社会福祉事業を興し、使命を貫いたクリスチャンだった。
(4)結局、やっぱり聖霊のパプテスマが働きの土台
映画では軍平が洗礼を求め、すぐには受けられないので、屋根上で雨に打たれて祈るシーンがあった。これは自分で受けたバプテスマだろうと思った。この気持ちは私もすごくよく分かる。教会で受ける洗礼も必須だが、真の信仰告白はこの天雨の中にあったのではないかと思う。
また石井と一緒に松江のバックストン宅で、聖霊のパプテスマの勧めを受け、(神に触れられ)涙を流すシーンがあった。彼のその以後の働きを見ると、聖霊のバプテスマを受けた、神に聞き従うクリスチャンであっただろうことがわかる。聖霊のバプテスマを受けないと、人は聖霊を通し神の御心を知り、それを行う事ができないからだ。
クリスチャン三十年だった私も、ある時点から聖霊のバプテスマを求め、凍てつく河原で、夜な夜な声を張り上げ涙を流して祈った事を思い出す。心を再び熱くされた映画だった。
見終わって、外に出ると五時近く。もう外は暗かったが、心は晴れて明るかった。
ケパ