阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

転院当日

2021-05-04 09:27:03 | 父の闘病
(父の入院のつづき、主に4月27日のできごとです)

今回の父の入院では面会できていた時期も11時からで、朝の通勤通学ラッシュは避けることができた。しかし転院の日は9時半から10時ぐらいまでの間に病棟に来てくださいとのことで、少し心配である。面会禁止だから荷物を少し持って帰っておくということもできなくて、県病院の荷物を全部持って、着替えを家から持って行って、もちろん父の移動もケアしなければならない。私と弟が行けば良さそうなものだが、転院先も面会できるかどうかわからない。母はどうしても父に会っておきたいという。それで私と母が行くことになった。叔母(父の妹)も応援に来てくれるという。

転院の前日の月曜日、バスイットでバスの運行状況をモニターしたところ、当地を8時過ぎのバスは最寄りのバス停で既に10分遅れ、不動院には約20分遅れて着いて、それだと不動院を49分のバスに乗り継げて9時35分ごろ県病院前に着いていた。月曜の朝は通院の人も多く渋滞するから、明日の火曜日はこれで大丈夫だろうという結論になった。

翌27日、バスは2分遅れでやってきて、口田や小田も混んでいなくて順調に不動院に着いた。予定より1本前のバスに乗れるが、こちらは市役所経由で通勤客が多いから間に合ったとしてもベンチに座ってやり過ごすつもりであった。しかし、母は気が急くのか乗ると言う。少し通勤ラッシュからは外れていて幸い母は座れた。渋滞もなく、9時15分ごろ県病院前についた。

病棟のトイレは使えないから下でゆっくり済ませてエレベーターに乗ろうとしたらロビーに座っている叔母を母が見つけた。面会禁止の折、病棟に大人数で上がらない方が良いから一階で待っいると叔母は行ったが母が行こうと言って3人でエレベーターに乗った。叔母は父とは一回り違う酉年、昭和20年の6月生まれで生後2か月の時、原爆の爆風で飛ばされたが外れたふすまの角に引っかかって助かったという強運の持ち主。うちの家族にはモチベーターがいないので2年前から随分父を励ましてくれてありがたい存在だ。

病棟の受付の前に座って書類を受け取りながらナースステーションの中をみると、患者支援はMさんではなくて別の方がいらっしゃる。5月からと聞いていたが今週からだったようだ。21日は引継ぎの忙しい時にお電話してしまったかもしれない。Mさんに会えなかったのは大ショックだけど、今日は父を転院先に連れて行かなければならない。ここは落ち込んでいる訳にはいかない。またいつかご挨拶できる日もあるだろう。

まだしばらく時間がかかるとのことで待っていたら、同級生先生が通りかかった。この先生とは私が小学5年の時に転校してから小、中、高と8年間同じ学校だった。早くにお父さんを亡くされて学費貸与の制度がある医大に進学したところまでは知っていたが、その後会う機会はなかった。それが2年前に栄養の回診で父の病室に来て40年ぶりに再会した。感染症が専門で、おそらく大変な日々ではないかと思う。しかしここで話すべきはコロナ病棟ではなく父の事、あらましを話したら、転院先のO病院は良い先生がいらっしゃるから大丈夫と同級生は言った。感染症が専門だから膿胸のことを聞けばよかったと後で思ったがそこまで頭が回らなかった。母同士も友達だったから母にも声をかけてもらった。そしたら母が「O病院は昔は評判が悪かったんですよ」と、いらん事を言うから私が手でやめとけと合図したら先生も「うん、ゆうたらいけん」と笑っていた。

先に荷物が出てきて、予想通り大荷物だ。病室には入れないから看護師さんがワゴンに載せて持って来て下さった。洗濯物と、転院先では持ち込み禁止の紙おむつは別にして、それ以外を何とかまとめた。叔母にも持ってもらうことにした。

父は10時過ぎに車いすで出てきた。10時に導尿を済ませたと転院先あての手紙に既に記載したと看護師さんは言っていた。痩せてはいるが、そんなにやつれた様子ではなく少し安心した。担当看護師のAさんがタクシー乗り場まで車いすを押して下さった。叔母は別のタクシーでO病院に向かう。父が運転していた的場から女学院ではなく、紙屋町から広島城を通った。

O病院の正面のドアは閉じていてすぐ横の夜間入口から入った。消毒検温を一人ずつ行うため一度に大勢来ないようにしてあるようだ。父はやはり一人では歩けない感じで私につかまって入口まで来たところで受付の方が車いすを持って来て下さった。チェックシートを記入して先に進んだ。1階は外来があって診察を待っている人が結構いた。ここも面会禁止のため病室までは行けないということで、ワゴンに荷物を載せる。病室は5階、地域包括ケア病棟といって在宅復帰へ向けて60日以内という条件があるようだ。その5階に我々も上がって先生と看護師の話を聞く段取りだったが叔母とはここでお別れ、荷物も持っていただいてありがたい事だった。

5階のナースステーションの中で主治医の呼吸器内科の先生の話を聞いた。ここの看護師さんは白衣ではなくて、看護師さんが目の前に座ったのかと思ったら女性の先生だった。膿胸は落ち着いていて、おしっこの様子を見ながら歩くリハビリをする。県病院の泌尿器科の先生の手紙が間に合わなかったそうで、それが届いてから考えるが、薬で改善しない場合は留置バルーンで退院と、Mさんから聞いたコースの話だった。母は尿が出ない場合でも退院できると聞いて安心したようだが、父は先生の声が聞こえてないのか反応がなかった。しかし、管がついたままの退院は間違いなく嫌がるだろう。また、どれぐらい歩ければ良いか聞かれたのでトイレに行けたら十分と言っておいた。

このあと先生が家族にだけ話があると言って父は病室へ、また当分会えないことを言っておいた。先生からの話は、転院前にも聞いた延命治療についてだった。膿胸の多くは誤嚥が原因の嫌気性細菌によるもので、一度なった人はまた肺炎になるリスクがある。その場合に人工呼吸器を使った延命治療を行うかどうかという主旨で、県病院で聞いたのと同じような話だった。高熱が続いた時に県病院の先生は肺炎ではないと言われた事、父は咽頭摘出の手術によって食道と気管は完全に分離していて誤嚥は起きないのではないか、この二点が疑問であったが枝葉の部分なので言わなかった。延命治療についても、回復の望みがなくて心臓が動いていても体を動かすこともできないとなれば、もう結構ですと言えるが、肺炎になったら延命治療と言われるのにはやはり違和感がある。父のように高齢で基礎疾患がある者が肺炎になったら回復の望みはないとイコールなのか、どうもすっきりしない。しかし、転院で父をここまで連れてくるのにエネルギー使っていて先生に反論する元気も無いし、得策だとは思えない。回復の望みがあるなら、治療はしていただきたいと言うに留めた。先生からは、ここは大病院ではないから、と言われた。それでこの話は一応終わりになった。県病院でも同じような話だったから、この先生の持論という訳ではなくて元になるガイドラインがあるのだろう。呼吸器内科ではそれが常識なのか、それとも現在の医療リソースや医療費の問題なのか、どうもよくわからない。

そのあとの看護師さんとの話、なにしろ父に会うのは一週間ぶりで今日も一時間ちょっとの再会だったので、現在の状況は家族にもよくわかっていない。それでタオルなどのレンタルの話など、事務的な話が多かった。県病院と違って着替えなどを届けるのは可能で、前日に来院の予約をとって13時から15時までの間に持って来るということだった。今日は転院の大荷物なので家から持って来た着替えは二日分だけだった。さっそく明日下着を持って来る予約をした。

話が終わって病院を出たのは11時40分ごろ、家に帰るバスは50分待たねばならない。学生が下校する時間までは1時間に1本しかない。私だけなら芸備線で帰るところだが、母には徒歩10分の上り坂は無理だ。近くのスーパーで買い物を終えたら、母はもうバス停までの短い上り坂も難しいと言う。仕方なくスーパー近くのバス停から朝乗った県病院行きのバスに乗って不動院で逆向きのバス停に回って予定の12時半に間に合った。母が通えるように家からバス1本のO病院にしたのだけど、坂道が入ると中々厳しいようだ。もっとも、ここも面会禁止だから母が来ることは当分なさそうではある。とにかく、今日のところは無事転院できてほっとした。しかし先の事は、全く予想ができていなかった。