合宿所の歴史についてもふれてみたい。
板橋区中台総合グラウンドに運動部合宿所がつくられたのは昭和43(1968)年のことである。
それまでは日本大学の合宿所に大学生と一緒に生活していた。
石川健二氏の『日大豊山の三十年』記念誌に書かれている記事によると、その当時の合宿所生活はあまりにもひどかったらしい。
その後、昭和43(1968)年に中台に合宿所がつくられたが、古材で建てられたトタン屋根の建物はお世辞にも素晴らしいものとは言えないようである。
福岡から上京した本田和励氏によると、合宿所はうす暗く、すでに冷えたおかずで食事をする毎日であったということである。
さらに「冬はものすごく寒く、夏は極端に暑い」。
あまりの暑さに疲れていてもなかなか寝れず、そのために疲労も取れず、「夏が来るのが恐ろしく、ノイローゼになる」ほどだったという。
三十周年の記念に新しい合宿所ができるという話がダメになったときは、自分も家族もがっかりしたとのことである。
「地獄のような合宿所を、せめて冬も夏も、まともに眠れるような、また、試験勉強ぐらいできるような合宿所にしてくれたら、もっともっと学校生活も楽しくなるのに」という切実な思いが育友会新聞第41号に掲載されている。
そのような地獄の合宿で暮らしながらインターハイで優勝した本田氏はじめ、歴代のOBの方々は本当に身心共に強い生徒達であった。
当時は、事務職員であった三輪御夫妻の管理の下、上野広治先生が一緒に生活をしていたが、指導者側も大変なご苦労であったと思う。
平成3(1991)年、念願であった新しい合宿所である体育実習棟が誕生した。
日本大学創立100周年記念、日大豊山創立35周年事業として行われ、鉄筋コンクリート造り地上2階建て、1階は教室、トレーニングルーム、部室、2階に寮室、食堂、教室があり、当時の最新の設備を備えた合宿所であった。
当時の校長は第10代夏井校長であり、校長自身が学生時代に過ごしたという部屋のつくりになっている。
寮室は4人部屋であるが、各ベッドがカーテンで仕切られ、なかには机もあるため各自で勉強をすることができる。
冷暖房も完備され、以前の合宿所とは比較にならない大変住み心地のよい設備となった。
平成29(2017)年現在、体育実習棟の管理は事務職員の町井さんが担当され、水泳部顧問安村亜洲が生活指導を含めて共に生活している。
グラウンド側から見た様子。
空中写真。左下の体育館横にある。右側の施設は日大豊山女子高校。
廊下と風呂、食堂、洗濯機。
焼肉パーティー。
合宿所の食事会。
合宿所生活は体験した者でなければ分からない仲間同士のつながりや教員との関係を結ぶことができる場所である。
高校生で親元を離れ、洗濯や掃除など身の回りのことを自ら行い、上級生や下級生と共に生活をするという毎日は学生時代のかけがえのない経験であり、大人になってからもよい思い出となるものである。
同じ学校やクラブ活動に所属していても、苦労を分かち合っている意識があるため、合宿所生活をしている者同士の連帯感は強い。
私自身も高校時代、大学時代と合宿所生活を送り、教員として指導する立場になってからも18年間にわたって合宿所で過ごした。
教員として長年にわたり生徒と寝食を共にした日々を送った経験は、これからもかけがえのないものである。
水泳部の強さを支えているのは、合宿所の存在が大きく、これからも欠かせないものであることはうたがいようのない事実である。
第10回終わり
竹村知洋