日大豊山水泳部 活動日誌

インターハイでの総合優勝を目指して、日々練習に励んでいます。

インターハイ優勝カップ

2017-10-31 18:48:36 | ニュース

高松宮殿下杯が修理から戻って参りました。

台座がはずれそうになっていたものがしっかりと固定されたうえに、ピカピカに磨かれて帰って参りました。

もともとはこれほどまでに美しいカップだったということを初めて知りました。

スポーツの振興に尽力されていた高松宮殿下の杯です。

正式には高松宮宣仁(のぶひと)親王です。

大正天皇の第三皇子で、有栖川宮の祭祀や土地を継承されました。

カップの上部には、高松宮家の御紋があります。

やはりインターハイ総合優勝のカップには、他の大会のカップとは異なる重みを感じます。

高松宮殿下は、護国寺の隣の豊島岡墓地に埋葬されています。

今、優勝杯は殿下が眠っているところから一番近い学校にあるのです。

スポーツの振興に尽力された高松宮殿下杯の名に恥じぬクラブでありたいと考えています。

竹村知洋

 

 

 

 

 

 

 

 

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キャプテンを発表しました

2017-10-26 18:31:20 | 日常

昨日、新チームの役職の発表を行いました。

 

 

高校

主将…吉田啓祐

副将…西口大河・庄野敢大(Aチーム)、長尾一諒(Bチーム)

寮長…庄野敢大

左から西口、吉田、庄野。庄野は副将としてもチームをまとめてもらいます。

 

 

Bチーム主将の長尾。1年生の頃からBチームを引っ張ってくれていました。

 

 

中学

主将…高野真之介

副将…渋木謙進

高野(左)も渋木(右)のどちらも成績優秀で人間性にも優れており、信頼できる2人です。

 

 

この結果は、シーズン後に主将候補の投票を行い、さらにスタッフ間でも話し合って決定したものです。

そのため役職についた者は部員だけでなく、我々スタッフの期待や信頼もあります。

また、役職についていない者たちがどう振る舞うかでチームは変わっていきます!誰からも愛され、応援されるチームを作っていこう!

 

 

 

野本

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日大豊山水泳部の歴史 10

2017-10-21 16:25:12 | トピックス

合宿所の歴史についてもふれてみたい。

板橋区中台総合グラウンドに運動部合宿所がつくられたのは昭和43(1968)年のことである。

それまでは日本大学の合宿所に大学生と一緒に生活していた。

石川健二氏の『日大豊山の三十年』記念誌に書かれている記事によると、その当時の合宿所生活はあまりにもひどかったらしい。

その後、昭和43(1968)年に中台に合宿所がつくられたが、古材で建てられたトタン屋根の建物はお世辞にも素晴らしいものとは言えないようである。

福岡から上京した本田和励氏によると、合宿所はうす暗く、すでに冷えたおかずで食事をする毎日であったということである。

さらに「冬はものすごく寒く、夏は極端に暑い」。

あまりの暑さに疲れていてもなかなか寝れず、そのために疲労も取れず、「夏が来るのが恐ろしく、ノイローゼになる」ほどだったという。

三十周年の記念に新しい合宿所ができるという話がダメになったときは、自分も家族もがっかりしたとのことである。

「地獄のような合宿所を、せめて冬も夏も、まともに眠れるような、また、試験勉強ぐらいできるような合宿所にしてくれたら、もっともっと学校生活も楽しくなるのに」という切実な思いが育友会新聞第41号に掲載されている。

そのような地獄の合宿で暮らしながらインターハイで優勝した本田氏はじめ、歴代のOBの方々は本当に身心共に強い生徒達であった。

当時は、事務職員であった三輪御夫妻の管理の下、上野広治先生が一緒に生活をしていたが、指導者側も大変なご苦労であったと思う。

平成3(1991)年、念願であった新しい合宿所である体育実習棟が誕生した。

日本大学創立100周年記念、日大豊山創立35周年事業として行われ、鉄筋コンクリート造り地上2階建て、1階は教室、トレーニングルーム、部室、2階に寮室、食堂、教室があり、当時の最新の設備を備えた合宿所であった。

当時の校長は第10代夏井校長であり、校長自身が学生時代に過ごしたという部屋のつくりになっている。

寮室は4人部屋であるが、各ベッドがカーテンで仕切られ、なかには机もあるため各自で勉強をすることができる。

冷暖房も完備され、以前の合宿所とは比較にならない大変住み心地のよい設備となった。

平成29(2017)年現在、体育実習棟の管理は事務職員の町井さんが担当され、水泳部顧問安村亜洲が生活指導を含めて共に生活している。

グラウンド側から見た様子。

空中写真。左下の体育館横にある。右側の施設は日大豊山女子高校。

廊下と風呂、食堂、洗濯機。

  

 

焼肉パーティー。

   

合宿所の食事会。

 

合宿所生活は体験した者でなければ分からない仲間同士のつながりや教員との関係を結ぶことができる場所である。

高校生で親元を離れ、洗濯や掃除など身の回りのことを自ら行い、上級生や下級生と共に生活をするという毎日は学生時代のかけがえのない経験であり、大人になってからもよい思い出となるものである。

同じ学校やクラブ活動に所属していても、苦労を分かち合っている意識があるため、合宿所生活をしている者同士の連帯感は強い。

私自身も高校時代、大学時代と合宿所生活を送り、教員として指導する立場になってからも18年間にわたって合宿所で過ごした。

教員として長年にわたり生徒と寝食を共にした日々を送った経験は、これからもかけがえのないものである。

水泳部の強さを支えているのは、合宿所の存在が大きく、これからも欠かせないものであることはうたがいようのない事実である。

第10回終わり

竹村知洋

 

 

 

 

 

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日大豊山水泳部の歴史 9

2017-10-21 13:44:53 | トピックス

昭和60(1985)年、中学時代からオリンピック選手として活躍した渡辺健司氏が入学し、高校1年生からインターハイで活躍した。

100m・200m平泳ぎで優勝、リレーでも活躍し、男子総合第2位に貢献した。

高校2年生のときには日本選手権で優勝、世界選手権・アジア大会の代表選手として選出された。

昭和61(1986)年のソウルで開かれたアジア大会では200m平泳ぎで優勝している。

その当時、男子チームコーチとして井上先生が帯同し、男子は15種目中、11種目で優勝、日本記録も多数樹立された。

その後渡辺氏はオリンピック選手として、昭和59(1984)年のロサンゼルス大会、昭和63(1988)年ソウル大会に出場し、平成4(1992)年バルセロナ大会では200m平泳ぎで第7位に入賞した。

競泳の日大豊山水泳部関係者でオリンピックに3度出場した選手は、渡辺氏だけである。

 昭和61(1986)年は、2人のインターハイ優勝者を輩出した年である。

400m・1500m自由形で優勝した遠藤昭一氏と100mバタフライで優勝した磯英仁氏である。

磯氏のご子息である桜一朗君が平成29(2017)年現在、日大豊山高校1年に在籍している。

桜一朗君は中学校3年生の時に全国中学校大会に400mリレー選手として出場し、日大豊山中学の総合第2位に貢献した。

左から2番目が桜一朗君。

 

昭和50年代からスイミングクラブの活動が活発となり、昭和58(1983)年から平成7(1995)年まで近畿大学付属高校がインターハイ13連覇を続けた。

その間、日大豊山は学校水泳を継続し、総合第2位・第3位を守り続けていた。

平成元(1989)年には100mバタフライで渡辺諭氏が優勝、野村英司氏が第2位、翌年には野村氏が100m・200mバタフライで優勝した。

平成8(1996)年には総合第5位となったが、その悔しさは翌年からの三連覇につながることになる。

第9回終わり

竹村知洋

 

 

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日大豊山水泳部の歴史 8

2017-10-20 16:31:56 | トピックス

昭和57(1982)年、日大豊山水泳部は鹿児島で開かれたインターハイで3回目となる総合優勝を飾った。

その年は戦力が整っており、優勝候補の筆頭として楽勝で優勝できるかもしれないという予想であった。

本田和励氏が100m背泳ぎで優勝(日本高校新記録)、400mメドレーリレーでも優勝(日本高校新記録)などの活躍もあったが、一日目、二日目と日が経つにつれ予想に反して苦戦していた。

得点争いをしていたのは、瀬戸内高校である。

最終日の最後の800mリレーの500m位でようやく優勝が決まるというきわどい勝ち方であった。

最終的な得点は日大豊山が60点、第二位の瀬戸内高校が59点で、その差はわずか1点であった。

井上先生は「伝統の力」と純粋に母校を応援していただいたOBをはじめとした皆さまに大変感謝しているという記事を残している。

井上先生はこの年の僅差での優勝の記憶を強く留めており、ダブルスコアやトリプルスコアの差があっても油断してはならず、負けていても決してあきらめてはいけない、ということを教訓としてお話されることが多い。

下は祝勝会の写真であるが、この会のお祝いは全国中学校飛び込み競技大会の団体優勝も兼ねている。

昭和57(1982)年、中学3年生の金戸恵太氏が飛込み選手として活躍し、全国中学校大会で総合優勝した。

金戸氏は同年の全日本ジュニア水泳飛込み選手権でも優勝している。

高校3年生の時には高飛び込み、飛び板飛び込みの2種目で優勝、日大豊山高校初の飛込競技での総合優勝を飾った。

金戸氏はオリンピック選手として昭和63(1988)年のソウル大会、平成4(1992)年のバルセロナ大会(高飛び込み第8位)、平成8(1996)年アトランタ大会に出場し、活躍した。

第8回終わり 

竹村知洋

 

 

 

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水泳部食事会 中止のお知らせ

2017-10-20 12:49:24 | お知らせ

10月23日(月)に予定しておりました毎年恒例の水泳部の食事会ですが、その日は台風の接近が予想されております。

生徒の安全を考慮し、10月23日(月)の食事会は中止とさせていただきます。

急な変更となりましたことを生徒諸君、保護者にはお詫び申し上げます。

竹村知洋

 

 

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日大豊山水泳部の歴史 7

2017-10-16 14:47:18 | トピックス

昭和55(1980)年、56(1981)年に活躍した選手は、坂大平氏である。

2年間連続で200m個人メドレー・400m個人メドレーで優勝し、高校新記録を樹立した。

育友会新聞『ぶざん』第35号に坂氏の高校3年生の時のインタビュー記事がある。

『三十年記念誌』にも坂氏のインタビュー記事がある。

坂氏はインターハイは個人メドレーで優勝したが、高校3年生の日本選手権は100m自由形で優勝、昭和59(1984)年のロサンゼルスオリンピックは200mバタフライの代表選手として出場した、まさにオールラウンドな選手である。

下はオリンピック代表選手になった時のインタビュー記事である。

この記事で印象的なのは、当時の校長である第7代金子義夫先生との関係である。

坂氏は高校1年生までそれほど練習を頑張っていなかったということだが、校長先生が優勝を喜ぶ姿を見て、そのように強く選手を思う気持ちに答えようと頑張りはじめたということである。

同級生が停学処分を受けた際の金子校長の話を聞いて、胸にジーンときたという話もある。

自分が日本記録を出したり、オリンピック選手になれたのは心から生徒のことを思ってくださる金子校長と会えたからではないか、という坂氏の言葉は教員として大変重みのあるものだと感じた。

坂氏は昭和57(1982)年のアジア大会では、100m・200mバタフライ、400mリレー・800mリレー・400mメドレーリレーすべてで優勝するという快挙を成し遂げている。

本人のインタビュー記事にもあるが、井上先生の話によると坂氏は特にキックが強いとかプルが強いとかはなく、全体的なバランスの取れた選手ということであった。

ご子息である登暉氏も日大豊山水泳部に入り、100m~1500mまで泳げる選手としてインターハイの個人種目とリレー種目で活躍した。

力泳する登暉氏。

登暉氏は卒業式で日本大学学長賞(かつての総長賞)を受賞したが、親子そろっての受賞というのは珍しいのではないか。

一番左が登暉氏。

この頃の日大豊山のインターハイでの総合成績は総合第2位・第3位であり、昭和57(1982)年には劇的な3回目の総合優勝を果たすことになる。

第7回終わり 

竹村知洋

 

 

 

 

 

 

 

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スイミングマガジン 11月号

2017-10-15 16:29:49 | ニュース

SWIMMING MAGAZINE 11月号に国民体育大会で活躍した部員が掲載されております。

 

  

是非、ご覧になってください!

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日大豊山水泳部の歴史 6

2017-10-15 15:57:21 | トピックス

 昭和54(1979)年のインターハイ優勝祝賀会の写真です。

優勝メンバーの主軸となった選手は、当時3年生の堀江直行氏である。

100m背泳ぎ優勝、200m背泳ぎ第2位、400mメドレリレーで優勝し、総合優勝に大きく貢献した。

堀江氏は小学生の頃から音羽スイミングクラブに所属しており、日大豊山中学時代には100m・200m背泳ぎで優勝し、高校では主将を務めた。

育友会新聞『ぶざん』第29号に書かれた井上先生の記事によると、実力的には素晴らしい3年生だったが、統率力・責任感という意味ではもう一つといった中で抜群のリーダーシップを発揮したのが堀江氏だったということである。

明るく、ファイトのある態度はどれほどチームに勇気をもたらせたか、はかりしれないという素晴らしい主将であった。

堀江氏は現在でも奥様とともに合宿所生徒の食事会を催して下さり、水泳部を応援して頂いている。

堀江氏と同学年の高岡忠博氏の活躍も目を見張るものがある。

高岡氏は在学中の3年間、個人メドレーで優勝し続けた選手である。

高岡氏の泳ぎを見ると背中がぞくぞくするという井上先生の話があるが、それほど素晴らしい才能を持つ選手であった。

日大豊山水泳部の歴史でも3年間優勝というのは、駒崎氏と高岡氏、そして平成9年度卒の森隆弘氏しかいない。

また記事によると、当時はマネージャーとしてチームを支えた6名の生徒が一致協力して練習指導にあたっていたということであり、まさに「縁の下の力もち」であった。

最近はマネージャーのなり手がおらず、せいぜいチームに一人という状況であることを考えると羨ましい限りである。

優勝の陰には、水泳部OB会、学校長をはじめとする教職員の方々などの御協力などがあり感謝しているという井上先生の言葉があるが、それは当時から現在に至るまでかわっておらず、今の水泳部を支えている大きな力となっている。

井上先生就任以来初のインターハイ総合優勝は、学校と水泳部OB会、そして顧問・コーチの指導力、選手とマネージャーという水泳部のチーム力が生んだ総合優勝であった。

若かりし頃(20代)の井上先生。

第6回終わり

竹村知洋

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日大豊山水泳部の歴史 5

2017-10-14 17:40:10 | トピックス

井上先生の就任後、チームの主力となった選手は駒崎康弘氏である。

駒崎氏は日大豊山中学時代から活躍し、第8回全国中学校大会200mバタフライで優勝した。

高校2年生の時には日本選手権200mバタフライで優勝(その後5連覇)、同年のバンコクで開かれた第6回アジア大会では100m・200mバタフライで優勝した。

大学1年生の昭和47(1972)年、ミュンヘンオリンピック代表選手に選ばれ、400mメドレーリレーで第6位に入賞した。

下の記事は昭和46(1971)年の育友会新聞『ぶざん』第3号である。

駒崎氏は在学中、インターハイで3年間優勝しており、3年生の時には100m・200mバタフライで優勝している。

当時、優勝争いをしていたのは広島の尾道高校である。

日大豊山は藤木正隆氏の100m背泳ぎでの優勝などもあったが、最終日、最後のレースである800mリレーで逆転され、総合得点は尾道50点、日大豊山49点で1点差の第2位であった。

その時の育友会新聞の記事はそのときの悔しさが伝わってくる内容である。

駒崎氏のお兄様は仕出し料理『茨城屋』を高田馬場で経営され、長年にわたり合宿所生徒のお弁当や校内合宿の食事を提供していただいたことを記しておきたい。

日大豊山水泳部は、昭和49(1974)年から53(1978)年までインターハイで総合第2位・第3位を続けた。

昭和49(1974)年には大石則夫氏が100mバタフライで優勝、200mバタフライ第3位、岡誠氏が200mバタフライで優勝した。

同種目で日大豊山の選手が1位と3位に入る活躍をした。

昭和50(1975)年、51(1976)年には三科典由氏が100m背泳ぎで2年連続で優勝した。

三科氏は日本が不出場であったが、モスクワオリンピックの代表選手に選考された。

また、昭和51(1976)年には高橋光一氏が100m自由形で優勝、昭和52(1977)年には100m・200m自由形で2冠を達成した。

そして昭和54(1979)年、ついに滋賀県で井上先生の悲願であったインターハイ男子総合優勝を果たした。

学校としては実に16年ぶりとなる優勝であった。

尾道高校に1点差で敗れた悔しさが忘れられないものとして残っているという井上先生と当時コーチとして指導していた駒崎氏の熱い思いが選手の頑張りにつながった総合優勝であった。

第5回終わり

竹村知洋

 

 

 

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