ホリスティックライフ in 世田谷

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キーワードは、ホリスティックライフ。

とても興味深かったアイヌ文化普及啓発セミナー

2022-08-29 17:40:16 | 日記
ひょんなことから、アイヌ文化普及啓発セミナー(こちら)に参加しました。
八重洲にアイヌ文化交流センターという機関があり、
そこで受講料無料の10回に及ぶセミナーが開催されたのです。
チラシは偶然、いつも行く図書館で見つけました。
沖縄へ行ってきたばかりですが、遠く北にあるアイヌの歴史や実情はあまりよく知らず、
とてもいい機会だと思って受講することに。

各回、テーマはそれぞれで、興味があったもの&都合に合わせて4回、
3日間にわたって参加しました。
本当は5回分申し込んでいましたが、1回分は直前にキャンセルとなったため、参加したのは4講座です。

簡単に内容をご紹介します。

1)近代の記録にみる平取コタンの暮らし ー明治後半代を主としてー
平取町立二風谷アイヌ文化博物館長の長田佳宏氏による講座。
明治後半から大正にかけて平取コタンを訪問した外国人3人の記録により、当時の様子を紹介。
研究者のポーランド人、写真家のアメリカ人、旅行記作家のチェコ人が滞在し、
記録しています。ポーランド人は人類学的調査を行って、貴重な記録が残されています。
写真もあって、当時の風俗、服装や装飾品の様子を知ることができます。
そういった時代にヨーロッパやアメリカから来ていたこと自体、全く知らなかったので、
とにかく驚きました。

2)「北前船」交易がもたらしたアイヌ文化 ー北陸の事例を中心としてー
講師は、元石川県立歴史博物館学芸主幹の戸潤幹夫氏。
北前船の船主集落として知られる輪島市黒島町と白山市美川南町の神社で、
アイヌ民族が祭儀に用いる「イナウ」(人間の祈りをカムイに伝えるメッセンジャー)が存在。
その一つは、樺太アイヌによって作られたものであることが分かっています。
船はサハリン東海岸やナヨロまで行っていたようです。
大阪で昆布だしが当たり前になっているのは北前船が活躍したからこそ。
沖縄で昆布はとれないのにクブイリチーが常食されるのも、
はるばる運ばれてくるルートが確立していたからこそ。
北前船には以前から興味津々です。その歴史的な意味、食文化に与えた影響、
もっと知りたいです。

3)江戸時代の近江と蝦夷地 ー滋賀大学経済学部附属史料館の収蔵資料に見るー
滋賀大学経済学部教授の青柳周一氏による講座。
なぜ近江かと思ったら、そう、近江商人でした。
近江商人は江戸時代初期という早い時期からアイヌ民族が住む蝦夷地に組織的に進出していました。
八幡(現在の近江八幡市)の西川家では1650年ごろ松前へ行き、
1701年には現地に支配人を置くまでになっています(支店開設のようなもの)。
西川家文書には、取引の記録が残されています。
近江八幡はお気に入りの街。近江商人についてもっと調べて、
近江八幡に限らず琵琶湖周辺を巡ってみたいものです。

4)木彫り熊の発祥と歴史的経緯について
講師は、八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館学芸員の大谷茂之氏。
この講座も、興味深い発見がありました。
北海道のお土産としてよく知られている木彫りの熊は、八雲町が発祥の地だそうです。
それも、作るきっかけとなったのは尾張徳川家第19代当主の徳川義親。
尾張徳川家第17代当主・徳川慶勝の旧家臣団が1878(明治11)年、北海道に開墾移住しました。
その後、義親は大正7年から八雲町へ毎年、害獣駆除を兼ねて熊狩りにやってきて、
熊狩りの殿様の愛称で呼ばれていました。徳川農場もありました。
義親がヨーロッパ旅行中に寄ったスイスで、農民が作った木彫りの土産品を見たことがきっかけとなり、
土産として持ち帰った木彫り熊を真似て作らせたのが始まり。
戦後、農地解放により徳川農場も閉鎖となり、八雲の木彫り熊も衰退。
昭和30年代からまた木彫り熊を作る人が出てきて復興。
木彫り熊の発祥は旭川という説もあるので、一応、記しておきます。

どのテーマも広がりが壮大で、とにかく興味津々でした。
初めて聞くことばかりだし、流通の歴史にはすごいものがあることがよく分かりました。
セミナーは定期的(コロナの関係で不定期?)に開催されているとのこと。
今後もぜひ参加したいです。

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