海鳴記

歴史一般

奈良原家の怪(4)

2013-11-07 15:32:33 | 歴史
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 奈良原喜左衛門に娘がいる可能性は充分にあった。喜左衛門は若くして出仕し、嘉永三年(1850)の二十歳のときに、いわゆる「お由良騒動」に関わり、慎み、役障(やくさわり)という罰を受けている。その後、罪が許され、安政二年(1855)には江戸詰めだった。こういう経歴から判断すれば、彼は結婚していた可能性は充分ある。奈良原助左衛門家の長子でもあったのだから。そうだとすれば、男児が生まれている可能性もあったが、これは考えられない。
 なぜなら、もし喜左衛門に男児がいたら、その子供が跡を継ぐことになり、その子孫がいたはずだからである。また、あいまいな系図を持ち出して娘(女児)の子孫だなどと名乗る人物もいなかっただろう。この推測は、最終的に奈良原繁の除籍謄本を入手したときに証明されている。
それには、弟の繁が助左衛門家を継いだことになっていたからである。つまり、喜左衛門に男児がいたら、おそらく独立していた繁が父親の跡を継ぐことはなかったのだから。
 鹿児島の奈良原家の墓には、喜左衛門の墓もある。それには、彼の妻であるヒロの名前も並んで彫ってある。墓に向かって左側面には、喜左衛門が慶応元年(1865)閏五月十八日に京都で亡くなり、その頭髪の一部をここに葬る、とある。ところが、右側面には、ただ文久二年(1862)十月二日と彫ってあるだけなのである。妻ヒロの名前も、「没」など何も彫られていないのだ。しかしながら、どう見てもヒロの没年としか考えられないのだ。
 だとすれば、ヒロは幼い女児を遺して死んだと考えるしかない。そして、夫の喜左衛門はその三年後に。
とにかく、喜左衛門夫婦に子供がいたとすれば、男児ではなく女児であった。そして、可能性とすれば、二人。というのは、実際に喜左衛門の子孫だと名乗る人たちが二家系あったからである。一つは、本を出すほどの情熱をもって訴えている家系。もう一つは、奈良原雅雄の子孫の家系(注1)。
 そうだとすれば、奈良原雅雄は元々奈良原家とは関係がないのだから、雅雄に土地を譲った奈良原トミが喜左衛門の娘だった可能性を否定できないのである。だが、当時喜左衛門夫婦は、すでにこの世にいなかったのだから、一体誰が親代わりになっていたのだろうか。
そして、それが私の最初からの追及課題だったこと、さらにそれに奈良原繁を想定していたことは、最初の本でもすでに触れている。
 それなら現在、それがより確実になったと言えるだろうか。
(注1)・・・このご子孫の方とは、接触できなかった。なぜかよくわからないが、頑なに拒否されてしまった。