海鳴記

歴史一般

奈良原家の怪(3)

2013-11-05 15:48:55 | 歴史
                    (3)
 一体、これらのことは何を意味しているのだろうか。
 まず、結婚三年にしてなぜ原田雅雄は、本田家の養嗣子になったのか。そして、またすぐに手のひらを返すように奈良原家の養嗣子になったのか。本田家の養嗣子より奈良原家のそれのほうがいい条件だったからだろうか。それならなぜ本田雅雄から奈良原雅雄ではなく、原田雅雄のまま奈良原家の養子になったのだろうか。
 考えられるのは、実際に本田家の養嗣子の件を承諾し、戸籍手続きはとったものの、なんらかの事情でそれを破棄したということではないだろうか。もちろん、なんらかの事情というのは、正式に本田家に入る前に、奈良原家の養子の口が舞い込んだということだろう。それを物語るのは、本田家への養嗣子年月日は、明治二十二年十二月九日と記載されているのに、奈良原家への入籍は翌年の三月二十六日となっているからである。つまり、本田家から奈良原家へ移る期間が短すぎるのだ。だから、実質的にも正式にも本田家に入らず、そして戸籍手続きはとっていたものの、それを正式に破棄する前に、奈良原家を継いだということだろう。
 ただ、実際はどうだったのかわからない。そういう経緯が記載されていないからだ。わかっているのは、本田雅雄から奈良原雅雄になったのではなく、原田姓から奈良原姓になったということだけである。
私が最初に原田雅雄こと奈良原雅雄の名前を目にしたのは、奈良原トミからであった。私は、鹿児島市内の奈良原家を、最初は幕末期の城下絵図や墓地、明治以降は、主に旧土地台帳を探ることで確認していった。幸いにも、後者はかなり残っており、また閲覧も自由だった。そして、そこで私は、奈良原トミと出合ったのである。
 その台帳には、明治二十三年七月二十六日付けで、鹿児島市内の土地百七十四坪を奈良原雅雄に譲渡したことが記載されていたのであった。それから私は、この土地の所有者であった奈良原トミと同時に、原田姓から奈良原姓に変わった雅雄なる人物に興味を持ち探っていった。
 まず私は、トミという女性は喜左衛門の娘の一人ではないかと疑った。というのも、喜左衛門の娘の子孫という人物が鹿児島の郡部に存在し、喜左衛門に関する本も出していたからであった。もっとも、その本に書かれてあった系図そのものがどうも怪しかった。というより、断定はできないが、どうも別な奈良原姓の家系から出た娘のようだった。しかし、どちらにせよ、喜左衛門の子孫だと名乗る子孫は他にもあったので、トミさんはそちらの系列の可能性があったのである。