海鳴記

歴史一般

西南之役異聞(3)

2010-02-03 09:36:10 | 歴史
 私はやや不思議に思い始めて、これらのことをもっと詳しく書いてある当時の記録はないかと探し出すと、『丁丑乱概(ていちゅうらんがい)』という明治十一年六月に発行された冊子があった。これは、西南戦争中の明治十年五月、県外から入ってきた最初の県令である岩村通俊(みちとし)が、戦後、県の御用掛(ごようがかり)を務めていた児玉源之丞(げんのじょう)に委嘱して編纂させたもので、この事件については、城下士族の人物名はともかく、重富郷士族などの名前もない簡略な記述だった。この冊子は、中立的立場で書かれていると評されているが、少なくとも市来の『丁丑擾乱記』の裏付けにはなっている。
 ところで、西南戦争を西郷と大久保の私闘とみなしていた市来四郎は、のちに自叙伝も書き上げ、そこでも繰り返しこの事件を記録している。記録しているというより、書かずにはいられないという悲壮感すら漂う描写である。その最大の理由は、市来自身の弟がこの事件で殺されているからだろう。養子として他家に入っているので苗字は違っているが、有馬壮十郎という。また、徳尾政高と小倉友整の二人は甥というから、縁者が三人も含まれていたことになる。市来は、その自叙伝で有馬と同一の境遇にあるので、自分も捕まえられ、災厄にあうことを覚悟したと書いているから、当時はかなり切迫した状況だったのだろう。
 だが私は、これらの記述を読み終えたあとも、戦争につきものの暗い一面を見せられたという感慨を抱いただけで、それ以上突き進めようなどとは思わなかった。
 一つだけ気になることといえば、殺された場所や墓はどうなっているのだろうということだった。そこで数日後、当時の殺害現場が現在どの行政区域なのか確認し、その地元の教育委員会に電話で問い合わせてみた。すると、歴史や社会の担当者がいなかったのか、電話口で応答するまでやや時間が掛かった。やがて電話口にでたかなり年輩と思われる相手に、史料で知った事実を述べ、その墓がどこにあるのか尋ねると、
 「いや、事実あったそうです。私も詳しい話は知らないのですが、あの地域では代々そう言い伝えてられている、と聞いておりますよ」
 どこで話が食い違ってきたのか、私は歴史的事実を訊(き)いているのではなく、その墓の所在を確認しようとしただけだったので、
 「ええ、私も事実だったと思っております。というより当時の文献に書いてあるのですから、間違いないでしょう・・・」
 受話器の向こう側では、何やら他の職員と話をしているのか、どうも私の話など聴いている気配はない。しばらくして、
 「もしもし、あのですね、この件に詳しい先生が今日は出かけていますので、また明日にでも掛けなおします。そちらの電話番号をお伺いしたいのですが・・・」
 私は、そのほうがかえって都合がいいと思ったので、こちらの電話番号を二度ほど繰り返し、受話器をおいた。そしてしばらくの間、相手側は、なぜ私の話を最後まで聴かずにかってに歴史的事実の質問と聞き違いしたのか考えてみた。それはやはり、その事実を問い合わせる人がいるからであろうし、中には「そういう事実はなかった」と執拗に食い下がる人もいたのかもしれない、と考えたりした。
 私の中で少しずつ興味が湧き出した。


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