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人間と他の動物との違(ちが)いを、どこかに線(せん)を引けば、どのような言い方でも可能(かのう)だろう。たとえば、二足(にそく)歩行(ほこう)とか、道具(どうぐ)を使うとか、言語(げんご)を獲得(かくとく)したとか。しかし、<家族>とか<母系>制のような、すでに人間の段階(だんかい)で、その発生を考えなければならない場合、エンゲルスらの発想は、いかにも機械(きかい)的<モノ的>過(す)ぎるのである。
要するに、雄(おす)・雌(めす)の動物生的自然の<性>行為だけで、婚姻制の基礎を考えれば、人間の男・女の性交にとって不都合(ふつごう)なばかりか「混乱(こんらん)を招(まね)くだけの親族(しんぞく)体系を創(つく)りあげたり、親族名称(めいしょう)を創りあげたりした未開の人類の集団」は、なぜそんなことをしたのかわからなくなるのである。ましてや、人間の<性>というものを基軸(きじく)におく、<家族>とか<母系>制というのは、人間の心や意識の問題を排除(はいじょ)しては、私にも納得(なっとく)できる理論とはなりえないように思える。
人間が動物と同じような<性>的な自然行為を<対(つい)なる幻想>として心的(しんてき)に疎外(そがい)し、自立(じりつ)させて初めて、動物とは違った共同性<家族>を獲得したのである。人間にとって<性>の問題が幻想の領域に滲入(しんにゅう)したとき、男・女の間の<性>的な自然行為とたとえ矛盾(むじゅん)しても、また桎梏(しっこく)や制約(せいやく)になっても、不可避(ふかひ)的に男女の<対なる幻想>が現実にとれるすべての態様(たいよう)が現れるようになった。そこでは男・女が互いに<嫉妬(しっと)>しようが<許容(きょよう)>しようが、ある意味では個々の男・女の<自由(じゆう)>にゆだねられるようになった。(「母制論」)
さて、以前後回(あとまわ)しにした、性交の形態と<性>行為の形態の違いについてだが、エンゲルスは、動物生から家族の発祥(はっしょう)を想定した。だから、集団が大きくなるにつれて、男(雄)と女(雌)の間の<嫉妬>の解放(かいほう)などという不可解な概念を持ち出さざるをえなかった。ところが、人間の男と女との<性交>は、あくまで意識された<行為>なのであって、互いに意識のない、動物生の<性交>ではない、といっていることなのである。
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