海鳴記

歴史一般

日本は母系社会である(43)

2017-04-04 09:50:17 | 歴史

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 人間と他の動物との(ちが)いを、どこかに(せん)を引けばどのような言い方でも可能(かのう)だろう。たとえば、二足(にそく)歩行(ほこう)とか、道具(どうぐ)を使うとか、言語(げんご)獲得(かくとく)したとか。しかし、<家族>とか<母系>制のような、すでに人間段階(だんかい)、その発生を考えなければならない場合、エンゲルスらの発想は、いかにも機械(きかい)的<モノ的>(す)ぎるのである。

 要するに、(おす)(めす)の動物生的自然の<性>行為だけで、婚姻制の基礎を考えれば、人間の男・女の性交にとって不都合(ふつごう)なばかりか「混乱(こんらん)(まね)くだけの親族(しんぞく)体系を(つく)りあげたり、親族名称(めいしょう)を創りあげたりした未開の人類の集団」は、なぜそんなことをしたのかわからなくなるのである。ましてや、人間の<性>というものを基軸(きじく)おく、<家族>とか<母系>制というのは、人間の心意識の問題排除(はいじょ)しては私にも納得(なっとく)できる理論とはなりえないように思える

 

 人間が動物と同じような<性>的な自然行為を<(つい)なる幻想>として心的(しんてき)疎外(そがい)し、自立(じりつ)させて初めて、動物とは違った共同性<家族>を獲得したのである。人間にとって<性>の問題が幻想の領域に滲入(しんにゅう)したとき、男・女の間の<性>的な自然行為とたとえ矛盾(むじゅん)しても、また桎梏(しっこく)制約(せいやく)になっても、不可避(ふかひ)的に男女の<対なる幻想>が現実にとれるすべての態様(たいよう)が現れるようになった。そこでは男・女が互いに<嫉妬(しっと)>しようが<許容(きょよう)>しようが、ある意味では個々の男・女の<自由(じゆう)>にゆだねられるようになった。(「母制論」)

 

 さて、以前後回(あとまわ)しにした、性交の形態と<性>行為の形態の違いについてだが、エンゲルスは、動物生から家族の発祥(はっしょう)を想定した。だから、集団が大きくなるにつれて、男(雄)と女(雌)の間の<嫉妬>の解放(かいほう)などという不可解な概念を持ち出さざるをえなかった。ところが、人間の男と女との<性交>は、あくまで意識された<行為>なのであって、互いに意識のない、動物生の<性交>ではない、といっていることなのである。


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