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海鳴記

歴史一般

肩ふりサロン(81)

2008-09-09 13:14:00 | Weblog
 こうして、この酒場兼娼婦館で過ごすのが、インドでの日課のようになったが、こういうことができるのも、当時の日本とインドの貨幣価値の違いによった。以前も触れたが、当時の私の月収が、平均的インド人の30倍ほどであったのだから、インド人たちより多少高い酒を飲まされていたとしても、ほとんど気になる金額ではなかった。女たちへの支払いも記憶にないほどの金額といえば、だいたいのことはおわかりいただけるだろう。
 それでは、インドは、船員にとっては天国(ハーレム)のようなところではないか、と思われるかもしれない。確かに最初はそんな感覚もあった。
 だが、女と親しくなったといっても、やはり言葉が通じないということは、何か決定的なものが足りないという感じをぬぐえなかった。他の船員たちも、おそらく同様だっただろう。性的な処理をするという以外、他に何か引きつけるものがあったとは思えない。航海中もインドのことが話題になることはなかったのだから。
ただ、船員の中には、言葉が通じないから、というだけではない別の理由を匂わす者がいた。かれらは、さまざまな港に入り、さまざまな女たちと交わっているので、比較して話をするのだった。たとえば、どこどこの港ではよかった、どこどこの港では最低だった、とか。そして、それらの港を知っている船員たちは、示し合わせたように同じ港の名前をあげるのだった。
 ということは、船員たちが言っているのは、言葉の問題だけでなく、女たちに何か決定的な違いがあったということだろうか。
 当時はそんなことを深く考えたことはなかったが、今考えると、それはどうも女たちのサービスの問題だったのではないかと思う。つまり、女たちの娼婦としてのプロ意識が、インドの港の場合、希薄だったのではないか、と。


肩ふりサロン(80)

2008-09-08 12:58:38 | Weblog
 ずいぶん横道にそれて臭い話に立ち入ってしまったが、これも「肩ふり」好きな船員の与太話の一つだと思ってご容赦願いたい。

 さて、その酒場兼娼婦館では、女たちと自由に交渉できたのだが、形式的には、テーブル席等で女たちと酒を頼み、そこで好みの女と女の部屋へしけこむという手順だった。もちろん、馴染みの女や好きな女ができるようになると、そういう形式を踏まなくとも、つまりテーブルで酒など頼まなくとも、その女と一緒であれば、女の部屋へ直行できるようになった。
 女たちは、フィリピン、タイ、ビルマ(ミャンマー)などの港町出身の者や、ネパールやチベットという内陸部出身の者など様々だった。かなり年配のイギリス人もいたが、もっぱらテーブル席で船長や機関長などの高級士官の酒の相手になっていた。インド人娼婦は、隣の酒場にいたのかもしれないが、ここにはいなかった。何か法的な問題があったのか、店の方針だったのか、よくわからない。
英語が一番通じたのは、フィリピン人の女たちだったが、私は、彼女たちより日本人に似ているネパール出身の女と親しくなり、2、3航海目以降は、その女が私の馴染みになった。
 私と一緒によく外出したメスロンボーイは、ほとんど言葉が通じないので、自分から声をかけることはなく、逆に声をかけてくる女とは誰とでも部屋に上がっていった。というより、かれは女たちに人気があったので、自分から声をかける必要はなかったのだ。おそらく、かれのひょうきんさというか、今でいう天然というか、そんな雰囲気をもったかれに、女たちは安心していたのかもしれない。
 そのメスロンボーイとは、最初の航海から親しくなったが、胸の上部の中ほどに巻きタバコ半分ぐらい大きさの火傷(やけど)の跡があった。どうしてそんなところを火傷したのかと尋ねると、
 「船室のベッドで、タバコを吸いながら横になっていたら、いつの間にか眠ってしまい、気がついたときはこうなっていた」
 と言うのだ。信じられない話だが、真面目な顔でそういうことを言う男だった。

肩ふりサロン(79)

2008-09-07 12:31:32 | Weblog
 私の糞尿譚は、尽きそうもないのでこの辺で終わりにするが、最後に次の感想で締めくくりたい。
 高橋和巳(注1)の小説に、ある著名な学者が、机に座って一人ポツネンと食事をしている様子を一人で用をたしている姿と結びつけて、わびしくて、見るに耐えなかったと描写している部分があったが、食事をすることが排泄に繋がるという連想だけの問題ではなく、日本人が個室で一人用を足すということがなければ、「わびしい」という描写は出てこなかったように思える。
あるいはひょっとすると、中国文学者でもあった高橋和巳が、中国の公衆トイレ事情を知っていて、日本の個室で用をたす習慣を「わびしい」と強調したかったのかもしれないが(注2)。
 それはともかく、中国人は皆でわいわい食事をするのを好み、だから、皆と一緒に話でもしながら排泄する習慣を生み出したのかもしれない。ワイワイ騒がしくやるから何とか耐えられるので、皆黙っていたら、何か薄気味悪い光景になってしまうだろう。
 それに対して、インド人は、一人沈思黙考するのを好む国柄なのかもしれない。だから、仏陀のような偉大な宗教者が生まれたのだろう。

(注1)・・・高橋和巳は、ネット検索によれば、専攻は魏晋南北朝文学とあるが、確か杜甫や李白のようなメジャーではない唐代の詩人(李商隠?)の研究者でもあったように思う。
(注2)・・・高橋和巳は、ひょっとすると中国の公衆トイレ事情を知らなかったようにも思える。知っていたら、中国の場合も引き合いに出して、それらしいことを付け加えてもよかったと思うのだが・・・。


肩ふりサロン(78)

2008-09-06 13:58:39 | Weblog
 臭い話の続きだが、この前の北京オリンピックの際、外国人の手前、北京市は従来の公衆トイレを壊し、新しいものを設置したようである。その従来の公衆トイレの映像が流れたが、これは圧巻というより壮観としかいいようがない眺めだった。もし、そこに人が並んでしゃがんでいたら、だが。
 つまり、小便器はともかく、仕切りも金隠しもない大便用の落とし所(どころ)が横に一列に7、8個並んでいるのである。
 まあ、慣れない日本人には、インドのトイレも中国のトイレも抵抗があって、使えないのではないだろうか。外出先で腹が下り、もうどうしようもないところまできて、そして、そこにそういう公衆トイレしかなかったら仕方ないが・・・。もっとも、これは男のトイレの話で、女性用はどうなっているのか知らない(注1)。
 
 ところで、金隠しというのは日本独自の発想なのではないだろうか。インドや中国の大便用落とし所を見るとそれがない。
 私は、船を下りてからかなりのちに、アメリカへ渡り、そこでしばらく遊んだが、アメリカの場合、どこへ行っても腰掛式トイレ以外見たことがないので、そういう金隠し的発想はなかったと思う(注2)。そのアメリカから帰る際、ヨーロッパ経由で帰国したが、フランスのアルルに立ち寄ったときだった。
駅に降りると、急に腹が下り出し、公衆トイレを探しすぐに駆け込んだ。すると、それが、インドや中国と同じような金隠しのない落とし所だったのである(注3)。

(注1)・・・中国へ旅行にいった母親の話によると、女性用も仕切りのない横並び式落とし所だったという。
(注2)・・・当時、ニューヨークなどの大都市では、公衆トイレは犯罪の温床になりやすく、ほとんど閉鎖されていた。もし、途中で催した場合、レストランやデパートやホテルなどを利用するようにいわれた。
(注3)・・・実際は、そういうことより、入ったとき紙がないのに気づき、一旦そこを出てキヨスクのような売店に行き、紙を求めたがなかなか通じない。もう我慢も限界気味だったので、またトイレに駆け込み、最終的にはハンカチで拭いた。このアルルでのトイレの話は、もっと別な興味深い話があるのだが、違う話題になってしまうので、ここでは割愛する。



肩ふりサロン(77)

2008-09-04 13:09:20 | Weblog
 斜面上に建てられた店は、先ず、道路からコンクリートの階段を上っていかなければならなかったが、少し上がると両側がテラス状になっていて、客や女たちがそれぞれのテーブルに座って商談などをしている。また、もう少し上ると、先ほどほどゆったりした広さはないが、両側にテーブル席のある場がある。そこをまた上がって行くと、今度は両側に太い柱のあるコンクリートの広いテラスに到達する。まるでちょっとした劇場にでも入っていくような気になる。そう思わせるほど、酒を手にした女たちや、トレーでそれらを運ぶボーイや客でごった返している。中のホールは、さらに人混みが激しく、今度はダンス会場にでも迷いこんだような錯覚に陥る。ただ、ここにいるのは、ほとんどインド人で、われわれ外国人は、外のテーブル席で酒を飲み、仲間同士で女の品定めをしていたり、女と交渉したりしているのだ。

 ホールの奥にはカウンターがあり、そこでも酒は飲めるが、やはりそこを占めているのは現地人だ。だいたい英語も満足に話せない外国人が、ヒンズー語が飛び交うカウンターやホールにいても疎外感を味わうだけだ。ときおり日本語で話しかけてくる者もいるが、会話にまでいたる日本語力はない。
さて、ホールの左側手前奥には、二階に上がって行く入り口があり、女と一緒でないと上がれないようになっていた。入り口付近には、用心棒らしきインド人が屯(たむろ)していたからである。
 その前に、左奥のトイレの造りを説明しておこう。なかなか見ものだからである。トイレというより、便所、昔の日本の公衆便所といったほうが、イメージが湧くと思うが、まず入り口のドアはある。しかし、中に入ると、だだっ広いのである。そして、直角に交わる壁に沿って小便が流れる溝があり、いわば壁に向かって小便をするのだ。もちろん個々の仕切りなどない。臭いが鼻について、うんざりするが、それはまあ、それでよい。かつての日本の公衆便所もそんなものが結構あった。だが、そのだだっ広い部屋の真ん中に、何の仕切りもなくポツンと一個だけ大便用の便器があるのだ。金隠しなども全くないのである。圧巻としか言いようがない。


肩ふりサロン(76)

2008-09-03 11:21:47 | Weblog
 とにかく、日曜日かボースンの許可がなければ、日中の外出はできなかったが、夕食を終えて外出すると、埠頭の税関を出たところにリキ車(或いは輪タクと呼んでいたか忘れた)と呼ばれる、人力車と自転車を合体させた乗り物が待っているのだ。
 そして、どこへ行くかといえば、たいていは外海に面した海岸の小高い丘の上にある、酒場兼淫売宿(今では落語の世界でしか聞けなくなったが女郎屋と呼んでいた)に出掛けるのだった。二軒並んでいたが、一軒は地元のインド人が利用し、もう一軒はわれわれ外国人船員が通った。おそらく金額体系が違っていたのだろう。
 われわれが利用した店の名前は忘れたが、確か「アメリカ」或いは「アメリカーナ」という国名が付いていたように思う。イギリス統治の長いインドでも、当時は「アメリカ」とつけたほうが流行ったのかもしれない。いや、イギリス 統治が長かったからこそ、「イギリス」何とかとつけるのを嫌ったのかもしれないが。
 誰と一緒に行ったかすっかり忘れたが、一度、車である格式の高い瀟洒なホテルに食事に連れて行ってもらったことがある。玄関の門から、車寄せのある玄関までかなりの距離を走ったから、誰かの大邸宅をホテルに改造したのだろうか。中はそれほど広くはなかったが、その造りの重厚さには気おくれがしたほどだった。イギリス統治時代のイギリス人たちだけのための家かホテルだったのだろう。独立後もそれを利用しているインド人はともかく、大多数のインド人にとっては無縁の世界だっただろう。
 それに比べれば、海の見える酒場兼淫売宿は、アメリカ式というのか、雑多で混沌としており、言葉など通じなくとも気楽に遊べる場所だった。


肩ふりサロン(75)

2008-09-02 13:46:52 | Weblog
 船倉の上まで伸ばされたローダーのコンベヤーベルトが動き出すと、荷積みが始まるが、われわれセーラーは特に何もすることがなかった。だからといって、外に遊びに出掛けられるかというとそうはいかなかった。日課のトイレ、風呂掃除はもちろん、航海中できなかった箇所の補修やその他細々とした用を言いつけられた。もっともそれがどんなことだったかあまり憶い出せないところをみると、大した仕事はしていなかったと思う。
 仕事といえば、航海中も仕事らしい仕事はなかった。私のトイレ、風呂掃除はきまっていたから、朝食を終えた8時ごろから、部員用のトイレ掃除をし、それから今度は風呂場を流す。ゆっくりやっても30分ぐらいで終わるが、当直を終えた部員が使用していると中断したりするので、ほぼ4~50分かけるようになった。それらを終えてデッキや船首ストアに向かうと、ボースンやヘッドセーラーや大工長らが、切れたホーサーの修繕などをしているのだった。それも私が行って30分もすると、ボースンがお茶にするかと言って中断する。ハウスに戻ると9時半にもならないときがあった。それから、めいめいコーヒーや日本茶を飲みながら、約一時間「肩ふり」にいそしむのである。それから、またデッキに出て一時間もすると、今度は昼食だといってハウスに戻る。12時までまだ30分もあるというのに。
午後も同じように2時半から一時間ほど休んで、また一時間デッキやストアで過ごし(という言い方しか思い浮かばない)、夕食が始まる30分前にはハウスに戻るという日課だった。
 こういう仕事らしい仕事もない高給取りの船員を雇っている会社側は、これではたまったものではないだろう。だが、船員側からすれば、自動化や専用船化でセーラーを削られ、おまけに本船は計画造船の消耗品なのだから、ペンキなど塗らなくていいし、余分な修理は造船所でする、といわれれば、何もするなといわれたことと同じことだろう。



肩ふりさろん(74)

2008-09-01 10:33:29 | Weblog
 荷役が始まる前、雨でも降っていない限り、ハッチはすでに開けられているので、われわれは特に何もすることがなかった。ハッチ開閉の作業は、ハッチ蓋の両側についている止め金の楔を外せば、あとは自動で開閉できるので、仕事というほどの仕事でもなかった。内航船とちょっと違っていたのは、ラットガード(注1)というねずみよけの丸いブリキの鍔(つば)のようなものをホーサーに取り付けることぐらいだった。係船索をよじ登って船に潜入するねずみがいるからということだったが、私は途中までもねずみが登ってきたのをみたことがない。もっとも何航海目のインドであったか忘れたが、船首ストアに泥棒が入って荒らされたことがあった。どうやらあの長いホーサーをよじ登って潜入してきたらしい。ラットガードが外されていたのである。
 中には見つかって追い詰められた場合のことを考えて、ラットガードを外しておいたのだろうという者もいたが、誰も見た者はいなかったのだから、真相はわからず終いだった。

 さて、ベルトコンベヤーの付いたローダーを船倉の上にもってきて鉄鉱石を落としこめば、荷役開始なのだが、これがなかなか始まらない。ときどき、いや場合によってはしょっちゅう停電になってコンベヤーが止まってしまったり、ローダーが故障したりして、何でもなければ通常3日ぐらいで荷役が終わるのが長くて5、6日かかることがあった。日本の荷揚げがほぼ1日で終わるのに、のんびりしたものである。会社側やその代理店の者はともかく、私は停電や故障で荷役が延びれば延びるほど喜んだ。それだけ長く外国を体験できたのだから。

(注1)・・・ねずみは赤痢やコレラのような菌を運ぶということだろうか。最近、日本の港でこれを付けた外国船を見たことがない。日本の港にはねずみがいないというより、そういう菌を撒き散らすねずみがいないからだろう。帆船時代、船に猫を飼っていたというが、これはむしろねずみに穀物を食べられないようにするためだろう。


肩ふりサロン(73)

2008-08-31 13:24:07 | Weblog
 こうして、無事着岸してからタラップを降ろし、パイロットも帰る(注)と、今度は荷役関係者が船内にやってきて、荷役準備に入る。これらは、日本でも同じ行程だろう。ただ、違う点があるとすれば、ときどきかれらに紛れて物売りがやってくることである。もっとも、かれらを自由に船内に入れるのは禁じられていたから、かれらもそれを知っていて、ややゲリラ的にやってくるのが普通だった。つまり、タラップの船側に誰もいないときとかを見計らって、3~4房ついた幹ごとのモンキーバナナや籠いっぱいのマンゴーやパパイヤを売りに来るのだった。ときには、オームや猿を売りに来るインド人もいたが、動物を飼う者は誰もいなかった。当時、日本には簡単には持ち込めないようになっていたのだと思う。だから、休暇で船を下りたら、処置しようがなかったのだろう。

 バナナやマンゴウは航海中にほどよく熟し、酒を飲まないボースンやコーターマスターは、それらを買って備品室などに入れておいたが、量が多いので、適当に失敬しても気づかれることはなかったし、文句をいわれることもなかった。物々交換の伊勢エビと違って、金を払っていたが、モンキーバナナの4、5房がいくらだったか、籠いっぱいのマンゴーがいくらぐらいだったかは覚えていない。私も何度か買ったことがあるが、誰が食べようが全く気にならない金額だったことだけは確かだ。

(注)・・・パイロットはやって来たときと同じく、ジャコップス(縄ばしご)を伝わって反対側から下り、待機していたパイロットボートで帰っていたように思う。

肩ふりサロン(72)

2008-08-30 14:20:35 | Weblog
 船は、外海からは港が隠れる程度の小高い丘を右手にみて、ゆっくり港の入り口部に入って行き、右へ右へと舵を取る。しばらくすると、左手に軍艦が着岸している埠頭が見えてくる。もっとも、これは現在の港内地図を見て言っているので、当時もインド海軍の基地だったかは定かではない。ただ、その辺りかその奥には奇妙な形状の船を造っている造船所があったことだけは確かだ。だとすると、あれは、特殊な軍艦を造っていた造船所だったのだろうか。

 それから二手に分かれる右手の奥には、赤茶けた石ころ、つまり野積みの鉄鉱石の堆積場が見えてくる。それは、かなり奥の方まで続いていて、室蘭港の石炭堆積場とは比較にならないほど広い。どうやら、その手前の左側の埠頭が着岸予定の岸壁のようだ。そこまで鉄鉱石を運ぶ、ベルトコンベヤーの付いたローダーが付いているからである。
 タグボートに導かれた船は、ゆっくりと投錨地点まで至ると、錨を止めていたストッパーを外して、それを勢いよく海中に落としこむ。とぐろを巻くように錨鎖庫に納まっていた錨が、一旦甲板に上がり、また錨穴を通して海中に落ちていく。その際、鉄と鉄がぶつかり合う凄まじい音とともに、鉄の分子が飛び散り、その匂いが鼻につき、一瞬、血の匂いを嗅いだような気になる。
 その後、錨が海底に到達したころを見計らって、一旦錨が落ちていくのを止め、今度は前後に張り付いていたタグボートに押してもらって岸壁に横付け態勢に入る。それから、船からホーサー(係船索)の先に取り付けた錘を振り投げて届く距離になると、錨を落とし込むのは完全に止め、あとは岸壁に届いたホーサーをたぐり寄せるようにして着岸するのである。
 私は、今でもこの作業を見守るのが好きだ。普段は落ち着いて威厳あるように見える内航船の船長が、一度で着岸できず、何度も失敗していたのを憶い出したり、また、一度ホーサーを繋いだのにもかかわらず、岸壁から離れ出し、あの太い係船索を切ってしまったインド人パイロットなどを憶い出したりしながら。