こうして、この酒場兼娼婦館で過ごすのが、インドでの日課のようになったが、こういうことができるのも、当時の日本とインドの貨幣価値の違いによった。以前も触れたが、当時の私の月収が、平均的インド人の30倍ほどであったのだから、インド人たちより多少高い酒を飲まされていたとしても、ほとんど気になる金額ではなかった。女たちへの支払いも記憶にないほどの金額といえば、だいたいのことはおわかりいただけるだろう。
それでは、インドは、船員にとっては天国(ハーレム)のようなところではないか、と思われるかもしれない。確かに最初はそんな感覚もあった。
だが、女と親しくなったといっても、やはり言葉が通じないということは、何か決定的なものが足りないという感じをぬぐえなかった。他の船員たちも、おそらく同様だっただろう。性的な処理をするという以外、他に何か引きつけるものがあったとは思えない。航海中もインドのことが話題になることはなかったのだから。
ただ、船員の中には、言葉が通じないから、というだけではない別の理由を匂わす者がいた。かれらは、さまざまな港に入り、さまざまな女たちと交わっているので、比較して話をするのだった。たとえば、どこどこの港ではよかった、どこどこの港では最低だった、とか。そして、それらの港を知っている船員たちは、示し合わせたように同じ港の名前をあげるのだった。
ということは、船員たちが言っているのは、言葉の問題だけでなく、女たちに何か決定的な違いがあったということだろうか。
当時はそんなことを深く考えたことはなかったが、今考えると、それはどうも女たちのサービスの問題だったのではないかと思う。つまり、女たちの娼婦としてのプロ意識が、インドの港の場合、希薄だったのではないか、と。
それでは、インドは、船員にとっては天国(ハーレム)のようなところではないか、と思われるかもしれない。確かに最初はそんな感覚もあった。
だが、女と親しくなったといっても、やはり言葉が通じないということは、何か決定的なものが足りないという感じをぬぐえなかった。他の船員たちも、おそらく同様だっただろう。性的な処理をするという以外、他に何か引きつけるものがあったとは思えない。航海中もインドのことが話題になることはなかったのだから。
ただ、船員の中には、言葉が通じないから、というだけではない別の理由を匂わす者がいた。かれらは、さまざまな港に入り、さまざまな女たちと交わっているので、比較して話をするのだった。たとえば、どこどこの港ではよかった、どこどこの港では最低だった、とか。そして、それらの港を知っている船員たちは、示し合わせたように同じ港の名前をあげるのだった。
ということは、船員たちが言っているのは、言葉の問題だけでなく、女たちに何か決定的な違いがあったということだろうか。
当時はそんなことを深く考えたことはなかったが、今考えると、それはどうも女たちのサービスの問題だったのではないかと思う。つまり、女たちの娼婦としてのプロ意識が、インドの港の場合、希薄だったのではないか、と。