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海鳴記

歴史一般

肩ふりサロン(90)

2008-09-19 11:32:04 | Weblog
 しかしながら、この強いボースンには勝てず、以後頭が上がらない関係になってしまったようだ。さらに運が悪いことに、このボースンと乗合わすことが多いらしく、めぐり合わせが悪いとしか言いようがない、と力弱く笑ったのには、同情するほかなかった。しかしながら、この二人の対照的な船員を見る限り、勝ち犬と負け犬という言葉を思い浮かべざるをえなかった。そして、一方は、退職後も家庭にも社会にも馴染めず、孤独な生涯を終えるような気がしたのである。

 ところで、引退後の船員の生活を想像すると、他の陸上の会社勤めで退職した人たちとは明らかに違うように思われる。一般に、甲板部の高級職員とランクづけされる士官クラスの船員たちは、船に執着せざるをえない分だけ、より孤立を感じるような気がしないでもないが、私はむしろ部員クラスの船員ほうが孤立感を味わうように思える。釣りや模型帆船でも作る趣味でもあれば別だが、見ていると、かれらのほうが人間関係を作るのに不器用なのだ。
 もっとも、かれらの出身は、漁村とか小さな港町とか、船員という職業に従事している人が多い地域なので、そこへ帰っていけばそれなりに幸福な晩年を過ごせるのだろうが。
 またたとえば、船長まで勤めて退職した人たちはどうだろうか。
あるテレビドラマで、退職した船長が、毎日港(横浜―でないとさまにならないのか山下公園辺り)に通って、海(船?)を眺める孤独な姿を設定していた。陸に上がった船乗りのある象徴として。ありえない場面ではないだろうが、どうも尋常とは思われない。頭のおかしくなった船長を描いているのならともかく、ドラマではそういう設定ではない。
 もともと、船で船長という孤独は経験しているし、そこでの孤独や孤立は退職後よりも強いのではないだろうか。だから、退職後は船長協会などに属して、仲間づきあいしたり、あるいは甲板部の最終目標である水先案内人を目指して勉強したり、となかなか忙しくしているのではないかと思えるのである。




肩ふりサロン(89)

2008-09-18 12:35:22 | Weblog
 ところで、前回登場願った大工長のことだが、内航船にはこの有名無実の職掌の甲板部員はいなかった。インド航路の船に乗って初めて知った職階だった。
 位置的には、コーターマスター(甲板手)とボースン(甲板長)の間にあって、コーターマスターとしては年をとり過ぎ、だがボースンにはなれなかった船員の職掌だった。「大工長」というのはいかにも日本的な命名だが、英語では単に「カーペンター」で、腕に技能をもった船員という意味合いが強い。
 おそらく、木造帆船時代からの職種であろう。和船時代にそういう名前の職種があったとは思えないが、木造だったのだから、大工のような腕があった舟子(かこ)は重宝されたにちがいない。
 明治以降、西洋の船を取り入れると同時に、たとえば「大工長」などと日本独特のニュアンスを交えて(注)、船の職階などもそのまま翻訳したのかもしれない。
 私が乗っていた船では、2人の大工長に顔を合わせたが、最初の一人は、度の強い眼鏡をかけた老人という感じだった。かれは、若いころから強烈な個性のボースンに頭が上がらなかったのか、ボースンがいる前ではほとんど口を開かなかった。また、仕事は、われわれと一緒にすることはなく、ボースンが命じる修理作業などをしていた。そして、仕事が終わるとほとんど部屋に閉じこもりきりだった。
 一度、かれの休暇下船前、船室に話を聴きに行ったことがあるが、胃を壊して酒も飲めず、始終静かな声で、ボースンとは若いころ出合って、喧嘩した話などをしていた。

(注)・・・Carpenterが帆船時代以来変わらぬ職掌だとしたら、最初に日本語に訳したときは、単に「大工」だったかもしれない。そして、初期のころは、まだまだその技能を必要とする船が多かったのだから、その職種としては実際性もあっただろう。だが、段々鋼鉄化し、機械化するにつれて、本来の職種の意味合いはなくなる。そこで、職階上、「長」をつけて、ボースンにはなれない永年勤続者を報いたのかもしれない。




肩ふりサロン(88)

2008-09-17 12:31:52 | Weblog
 前回、何か結論じみた話に移ってしまったが、そろそろ退屈な肩ふりも終わりにしようと考えていたからかもしれない。ただ、あまりにも唐突だし、まだまだ言い残したこともあるので、まだしばらくお付き合い願おう。

 7、8航海目だったかどうだか正確には忘れたが、インドを出港した直後、船の飲み水である「清水(せいすい)」が残り少なくなったので、注意して使って下さいという三等航海士の船内アナウンスがあった。
 私はこの船内放送を聞いたあと、ある大工長に、
 「もし清水がなくなったら、どうなるんですか」
 と尋ねると、
 「そりゃ、どこかで補給しなくちゃならんだろうね」
 「この航路では、どこでしょうね」
 「まあ、日本まで持たないとなりゃ、シンガポールあたりだろう」
 と応じた。
 これを聞いて、私はそう決まったわけでもないのに急にワクワクし出した。そして、翌日から風呂掃除の際は、清水蛇口を開けっ放しにし、真水を浪費した。もっともあまり大ぴらにはやれないので、軽く流す程度だが。
2,3日しても、三等航海士の船内放送がないので、翌日からはもっと勢いよく真水を流し、風呂掃除も時間をかけた。シンガポールまでもう2日ほどだったからだ。
 だが、翌日の船内放送も、sono
翌日のシンガポール沖通過の際も何のアナウンスもなかった。そして、そのまま日本まで直航したのにはかなり落胆した。何かだまされたような気にもなった。インドの一港(ビザカパトナム)と日本の港の往復だけで味気なくなった航海に、彩りを添えようと思ったのに。


肩ふりサロン(87)

2008-09-16 11:48:07 | Weblog
 考えてみれば、その点だけでも船員だったと思えたなら、私にとっては幸福なことである。というのは、他の船員たちがどう思っていたかわからないが、船に乗っていた当時は、私には船員だという意識はほとんどなかったのである。 
 つまり、他の船員たちは、職業と船員というものが同じものだということを疑いもしなかったのに、私には、船員を職業と考える意識はなかった。
 では、どういう感覚で船に乗っていたかというと、旅行者として、いわば「単独旅行者」として、である。それゆえ、ある種の疎外感をぬぐうことができなかった。

 かつて旅行者と船員が一致する幸福な時代があった。英語圏には、Once a sailor, always a sailor.(一度船乗りになったら、一生やめられない)ということわざがあるそうだが、こういう時代に生まれたフレーズだろう。日本語にも、「船乗りと乞食は3日やったらやめられない」という表現があるのを、船で何度か聞いたことがあるが、これは食べることがなかなか困難な和船の時代に生まれたある種の格言であろう。英語の翻訳とは思えないし、どうも直接的、現実的すぎるのである。
 悔しいかな。悲しいかな。だから、日本には、純粋に「ワンスァ セーラー、オールウェーズァ セーラー」という時代はなかった。ただ、それに近い時代はあった。それは、最初のころ触れた、南米で脱船したセーラーに象徴されるごく短い期間ではあったが。
 要するに、船員イコール職業だと考える船員は、脱船などしないし、できもしないが、旅行者意識があれば、そういう思い切った行動ができるのである。そして、そういう意識をもった船員が自由に船乗りになれた幸運な時期が、戦後の一時期あったと思える。私はそれに遅れて船乗りになってしまったのである。
 ただ私は、遠い過去に船を下りた現在でも、職業として、船員は最高の職業の一つだだと思っている。それゆえ冒頭で述べたように、私が乗り合わせた船員たちと一時でも意識が共有できたと思えたことは幸福なことだった。



肩ふりサロン(86)

2008-09-15 14:23:28 | Weblog
ともかく、日本への復路は、パーティーラッシュというか、皆、日本で購入した免税酒の消費に忙しかった。とはいえ、私は、酒浸りになることはなかった。むしろ、毎日半ダースのビールとダルマのボトル1本を軽く空ける機関員などを見ていると、俺はあんなふうにはならないぞ、とパーティーのあとの2、3日は、他から誘いがあっても出掛けることはなかった。というより、まだまだ酒など旨いと思ったこともなかったので、4,5日全く飲まなくとも何ともなかった。だから、酒浸りになっている船員などをみると、意志の弱い奴らだと馬鹿にしていた。
ところが、私がこの船を降り、一ヶ月ほど尾道で遊んでいたときのことだった。最初はそこにあった海技学院にでも通って船の知識でも入れようと考えていたのだが、そんなことより、若い船員たちが集まるスナックに通うのが忙しく、競争でもするかのようにほぼ毎日1本のダルマを消費し、一年間の航海で稼いだ金の大半を使ってしまったのだ。他の船員とは違うぞと考えていた自分が恥ずかしかった。情けなかった。また、金のなくなり方の早さにもひどく落胆した。
船員用語で、何軒もはしご酒などをすることを、船がなかなか簡単に止まらないことにかけて、「行き脚(あし)が止まらない」というが、まさにそんな状態になっていたのである。この点では、全く、嘘偽りのない船乗りになっていたのかもしれない。



肩ふりさろん(85)

2008-09-14 11:05:23 | Weblog
 それと同時に、集まる年代もばらつき出し、また職階も上の船員が多くなると、最初はともかく、われわれ若い者には面白い集まりではなくなりつつあった。おまけに、私に対して、伊勢エビの相場を上げたといって、非難がましく言う者も現れるようになったのだ。それに私は、今までがひどすぎたと抗弁したかったが、それを言うと、私が船内秩序を乱したとして、会社側に報告され、強制下船させられることもありえたので止めた。
 というのは、2航海目あたりから、私の素性が妙な噂となって流れ出していたのだ。たとえば、前にも紹介した、皆から恐れられていたボースンが、休憩の肩ふりの席で、
 「おい、棒を振っていたんだってな」
 と私に話しかけてきたのである。
 最初、何のことかわからなかったので、は?と怪訝な顔をしていると、
 「学生運動をやっていたって、船長が会社から聞いたって言ってたぞ」
 と言い出したのである。
 私は驚いてしまった。私は、当然のことながら、会社側に一切そんな話はしていなかったし、会社側もそのことを一切訊き出しもしなかったからだ。事実、新聞などで話題になっていた学生運動など関わったこともないし、ゲバ棒を振るったことなどは一度もなかったから、どうしてそういう話になってしまったのかわからなかった。また、たとえ学生運動に関心があったとしても、そういう話題がでたときは、無関心を装っていたから、そんな噂が出たこと自体に驚いたのである。
 しかしながら、私は、ボースンのこの問いかけに曖昧な返事をした。否定しても流れ出した噂は止めようもないし、逆に否定すればするほど疑われてしまう雰囲気だったからである。
 その後ボースンは、私のことを「ゲバルト学生」とか「おい、革マル」とか「おい、中革」とか、当時ニュースで話題になった学生運動の流派の名前を挙げて呼んだりした。が、それも一時のことで、しばらくして、普通の呼び方になった。そして、代替わりのボースンなどは話題にもしなかったが、船長や一等航海士のほうでは代替わりごとに私の「話」や「噂」を伝えているようだった。

肩ふりサロン(85)

2008-09-13 12:22:21 | Weblog
 その後は、往路と同じパターンを繰り返すだけだったが、この単調な航海に耐えるのは、やはり酒だった。これは酒の飲めるどの船員も例外ではなく、それでほとんどの船員は、体を壊す結果になっていた。以前触れた、「腹切り」の痕(あと)がない者はなかった。
 私の1、2航海目は、船内の様子もよくわからず、免税の酒もあまり購入しなかったので、他の船員たちと一緒に飲むことはあまりなかったが、ヘッドセーラーの中山さんの部屋にはよく遊びに行った。中山さんは、夕食後、ハッチ蓋の上で、ゴルフボールの打ち込みを終え、一風呂浴びて船室に戻ると、冷えたビールで喉を潤すのが日課だったが、それを知っていた仲のいいサロンボーイなどは、つまみを持ってかれの部屋にやってくる。私もそのお相伴に与るという具合だったが、かれらはビールを2、3本飲む程度で、あとは雑談に耽ることが多く、宴会というほどではなかった。
 そのかれらも、私の3航海目あたりで休暇がおり下船して行ったが、もうその頃になると、私も船内の様子や仕組みにも慣れ、また、インドで伊勢エビを取得できるようにもなり、それらを材料に、同年代の機関員やメスロンボーイなどと「伊勢エビパーティー」を開くようになった。これも最初のころは、1週間に一度くらいだったが、入手量が多いときは3日を空けずパーティーを開く有様だった。  
 そしてそうなると、伊勢エビの白身の肉の部分などにはもう食指が動かず、脳ミソの部分だけを我さきに摘むという食い方になっていた。今考えると、もったいない、罰当たりな食べ方だったと反省しているが、ものが豊富にあるということは、それがよそでどんなに珍重されていようと、さほどの価値をもたなくなるということを実感した。
 だが、こういうことはすぐばれるもので、伊勢エビパーティーが始まるとそれを聞きつけた他の船員たちも顔を出すようになり、場所を提供していた機関員の部屋は、まるで内航船の船室のように手狭に感じるようになった。


肩ふりサロン(84)

2008-09-12 12:20:36 | Weblog
 インドの港の話はまだまだ尽きないが、断片的な記憶ばかりになってしまい、話としてなかなかうまく接(つなが)らないので、一旦この辺で筆をおくことにする。
 次に日本への復路についても書いておかねば片手落ちになるので、それを述べておこう。
 前にも述べたように、積み荷に普通3、4日、長くなると5、6日かかったが、それが終了するといよいよ日本へ向けて出港である。この時点で、日本のどこの港に入るかすでにわかっているが、それがどこの港であろうと、ほぼ2週間、海上生活を余儀なくさせられるのだ。だから、ハッチ閉めが終わり、満潮の時間調整でポッカリ時間が空いたりすると、しばらく静かな、やや気だるい時間が流れた。私の場合、最初のころはもっとインドに滞在したかったから、何かやるせない思いに駆られたものだが、他の年配の船員たちには、むしろインドの喧騒から逃れられ、やっと自分たちの時間がやってきたというような安堵感が支配していたように思われる。その証拠に、船がインドという異国と接っていたタラップが船に取り込まれると、コーターマスターらは皆一様に、これで日本に帰れるのだ、というほっとした表情を浮かべるのだった。

 さて、満潮時間に合わせて離岸し、錨を揚げ終わると、またもと来た狭い航路を辿り外海に出る。そこでパイロットを降ろせば、満載喫水でいよいよ全速前進(フルアヘッド)、ようそろ、である。
 そして、インド洋に出た翌日、私はようやく仕事らしい仕事をすることになる。ローダーから甲板にこぼれた鉄鉱石を一人で、海に捨てるのである。もっとも、ほとんど半日仕事(約二時間)で終わったから、大した量ではないのだが、純度70パーセントという石ころだから、それはそれで結構な肉体労働なのである。貴重な天然資源を海中深く沈めるということを考えると、やや複雑な気持ちにもなったが、こういう仕事が一週間も続いて欲しいと考えることのほうが多かった。1日、4時間ぐらいなら、いい体づくりにはなっただろうから。


肩ふりサロン(83)

2008-09-11 12:48:48 | Weblog
 以前、本船が入港する港を紹介するところで、現在もっとも先端的武器であるネットの地図検索機能(注1)を使って、それを確認し、また、往時の記憶を頼りにこの港町を案内した。そして、その地図を見ているとき、おそらく、当時はありえなかったこの港町周辺の変化が読み取れた。それは、現在のインドをも象徴する変化でもある。先ず、入り江奥の西側に飛行場(ここではVisakhatnam Airportとなっている)ができたこと。それから、港から少し離れているが、西南部に巨大な敷地を占める製鉄所(ここの名称はVishakhatnam Steel Plantとなっている)ができていること、である。
 この製鉄所は、当時の港の鉄鉱石蓄積所から直接道路で結ばれているところを見ると、いつごろからかはわからないが、インド政府は原料を輸出するばかりでは大した利益にはならないから、それを日本のように加工して売ろうと方向転換したのだろう。もっとも、かつての勢いがないとはいえ、日本も鉄鉱石を加工して製品にし、それを国内で消費したり、輸出したりしているのだから、この港からもいまだに鉄鉱石を運んでいるのだろう。

 学生時代、私が入れ込んでいた詩人・田村隆一は、インド旅行の印象を、「B.C.とA.D.(注2)が交差する地点」と形容したが、当時はまさにそういう印象だった。しかし現在は、中国と並んで、A.D.の先端を目指そうとしている。今、私があの港町に踏み込んだとしたら、確実に浦島太郎的気分にさせられるだろう。

 かつて、日中の暑いとき、肩に荷を背負い、全身裸で、その大きな一物をぶらぶらさせながら歩いている男に出合ったり、夜、酒場兼娼婦館からの帰り道、路地を曲がったところに寝そべっている牛にぶつかりそうになったり、あるいは、真夜中、道路の端の縁台のようなベッドで抱き合って寝ているカップルを見たり、そういう光景はまだありうるのだろうか。

(注1)・・・グーグルで、マドラスいや現在のチェンナイを検索し、そこの地図から海岸沿いに北へ北へと上がっていくと、目的の地に至る。
(注2)・・・紀元前と紀元後のこと。



肩ふりサロン(82)

2008-09-10 11:58:29 | Weblog
 とにかく、インドの港では、この酒場兼娼婦館が基点だった。しかしながら、日中、停電やローダーの故障で荷役が中止になった場合や、また、午後からは外出してもいいなどという鷹揚なボースンもいたので、そのときは、輪タクでこの港町のあらゆる場所を探索した。
 入港前、最近コレラが流行っているので、外出の際は、気をつけるようにとの船内放送があっても、さほど気にすることなく動き回った。予防接種をしていて罹患したら、それまでのことと思いながら。
 あるとき、市場を見てみたいと輪タクのインド人に告げると、かれはどこか入り組んだ路地を通ってそこに向かったが、あきらかにライ病患者たちが住んでいると思われる地区があった。当時、ライ病は伝染するといわれていたので、街中で混在して住んでいるのが不思議な気がした。やや恐ろしい光景をみたようにも感じたが、物乞いに寄って来る子供たちに小銭をばら撒いて逃げるのが精一杯で、深く考えている間もなかった。
 そして、人でごった返す市場に着き、色鮮やかな香料の入った籠の山々を見ると、それが期待通りだったので嬉しくなったり、また、太陽に晒されたマグロの腹が黒いのでよく見ると、ハエが群がっていて驚かされたり、まさに異国の風景に圧倒されっぱなしだった。

 それからまたあるとき、カレーライスを食べたいから巷の食堂へ案内してくれ、と輪タクの運ちゃんに言うと、中国人が経営する小さな店に連れて行ったのである。最初、インド人がやっている店を期待したが、どうもそれらしき店も見つからなかったので、仕方なくそこへ入り、何とかカレーライスを注文した。
 しかし、食べてみると、確かに口の中は度を越した辛さだったが、喉もとを過ぎればさわやかで、日本では決して味わえないおいしいものだった。さすが、どこにでも居ついてしまう中国人だと感心したが、二度目に行こうとしたとき、もうその場所がわからずがっかりした。インド人たちが食べているカレーの味とも違っていたので、再度味わいたかったのだが・・・。