毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「さようならミズ劉&ミズ呉」 2013年10月15日(火) No.772

2013-10-15 20:15:50 | 中国事情
管理人のミズ劉とミズ呉が国慶節が終わっても戻ってこなかった。
数日前、オフィスから管理人が変わったとメールが来た。
いきなりだ。
そう言えば、国慶節前の土曜日、ミズ劉の様子がおかしかった。
プロパンのガスがなくなったので言いに行ったら、
「もう私の仕事は終わったから、月曜日にもう一度来て。」
のようなことを言った。
その時、私はその日の勤務時間が終わったことを言っていると思ったのだが、
私が行ったのはそんなに遅い時刻ではない。
(あれ、いつもならすぐに電話してくれるのに変だな)と思いつつ、
「O.K.月曜日にまた来るわ」
と、引き返したのだった。

3年間、この宿舎で一番お世話になったのは私かも知れない。
私にあてがわれた部屋は、どういうわけか水道が時々止まるし、
書庫の扉や洋服ダンスの蝶番は何回も折れるし、
トイレの水洗ボタンも壊れるし、
雷が落ちたら、パソコンも作動しなくなるし、
トイレの窓の留め金もお風呂の蛇口の栓も折れるし、
洗濯機のホースは何箇所も穴があくし、
洗濯機本体も2度壊れた。

その度にミズ劉やミズ呉が駆けつけて来て、
あーだこーだいじくり、最後には決まって、
「壊了(こわれた)」
と言って、修理屋さんに電話をかけてくれるのだった。
その掛け合いが、私は楽しかった。
部屋に入ってきて、
ミズ劉が「コーヒー飲んでるのかい」
とか「朝、何を食べた?」
とか、簡単な中国語で話しかけてくれるのも
大阪の気さくなおばちゃんのようだった。
この3年間、とてもリラックスして過ごせたのは彼女たちのおかげだ。

昨年9月から10月にかけての尖閣諸島(釣魚島)問題で反日デモが激しく、
部屋から出られなかったとき、
ミズ劉が、自分の非番の日であるにもかかわらず、
野菜を買って持ってきてくれたこと、
「変な奴が来たら、私とミズ呉がたたき出してやるから、
大丈夫、大丈夫!」
と言ってくれたこと。
私は一生忘れないだろう。

今回、突然の退職はどうも彼女たちの希望ではない。
オフィスの合理化の一環で、
今度から管理人は民間会社に委託し、
制服を着た二人の女性が着任した。

少し前、スクールバスの運転手さんも突然いなくなった。
やはり民間のバス会社に委託することになり、
専属の運転手さんたちは首になったのだ。
ミズ劉とミズ呉も同様であるようだ。
社会主義国家、人民の国の雇用は、江西省立大学において、
こうなっているのだ。
ああ、まさかこんなに突然お別れが来るとは・・・・・・。
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「やっぱり中国の女性たちも辛抱我慢を強いられている」 2013年10月14日(月) No.771

2013-10-14 18:12:28 | 中国事情
中国は社会主義国家だ。
テレビなどでは堂々と国家の声明文を読み上げる
女性スポークス・パーソンの姿もよく見かける。
日本に比べて、女性の社会進出は進み、夫婦共働きが当たり前の風潮である。

しかし、どういうわけだろう。
この国でも、やはり女性は男性よりはるかに我慢を強いられているようなのだ。
その一例は、トイレである。
10月4日の新華網によると国慶節時、観光地の公衆トイレで並ぶ時間は、
男性が2~4分であるのに比べ、女性はその5~8倍に及んだという。
一人あたりがトイレに要する時間は、
当然女性の方が男性より時間がかかる。
それなのにトイレの数は、場所によっては男性用の方が10個で、
女性は2つというように、呆れた状態であった。
私がその数に文句を言うと、学生が、
「先生、中国では男性の人口の方が女性より多いですから。」
となだめてくれた。
その学生は女の子なので、私は(女性の権利のためにもっと腹を立てんかい!)
とさらにプンプン怒ることになる。

劉思婷さんの「痴漢」についての文も、読んでちょっと切なくなった。
日本でも痴漢に遭って、頭ごなしに怒鳴りつける剛毅な女性はそんなにいない。
しかし「やめて!」と言ったり、駅員に訴えたりといういくつかの方法は取れる。
何より、女性専用車両で保護されている。
中国の女性たちは、ただ黙ってそこを離れるのだという。
中国の女性たちは「ちくしょう!」と思わないのか。
否、思わないわけはないのだ。

思えば私は小さい頃からずっと、差別に怒り続けてきた。
人を踏みつけにして上に立ちたいのではない。
ただ、ひたすら対等・平等な関係が人間同士の間にあるべきだと思ってきただけだ。
天皇誕生日が祝日なのにも、小学生の分際で文句を言ったことがある。
「天皇陛下の誕生日が休みなのに、なんで私の誕生日は休みにならんの?」
と。これは、休みがもっと増えてほしいというセコイ願いがあってのことで、
すぐ上の姉に呆れた顔をされた。
しかし、天は人の上に人を作らなかったはずである。
今でも天皇誕生日の祝日は要らないと思っている。

この国に来て、仕方なさそうに悲しそうに笑う庶民の表情をよく見かける。
ガードマンに怒鳴られたとき、
バスの運転手にドアをバシっと閉められたとき、
とにかく頭ごなしに何か言われたり、されたりした時に、
そんな顔で笑う人が多い。
それを見ると、私は泣きたくなってしまう。

日本の庶民も、我慢していることは多いだろう。
しかし、日本では役所の窓口とか、
新聞の投書とか、苦情窓口など訴えていくところがある。
まだ改善の可能性がある。
中国では庶民はどこに訴えていったらいいのだろう。





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「劉思婷日本滞在記(その3)―温泉初体験」 2013年10月13日(日) No.770

2013-10-13 15:55:59 | 日本中国比較

「飛耳長目(ひじちょうもく)」という言葉。
吉田松陰が弟子たちに常々心がけるように説いていたそうだ。
心にアンテナをピンと張って、正確な情報をキャッチし、
客観的・科学的に判断できるよう
いつもオープン・マインドでいたいものである。
異質なもの、未経験のこと、異国の人を排除したがる
狭い了見の人がウヨウヨ増えてきた気がする日本社会の昨今の風潮を見るに付け、
(なんでも見て、そこから学ぼう!)
という劉思婷さんのスタンスは清々しい。
吉田松陰さんもきっと頷くであろう。

―――――――――――――――――――――
[温泉初体験]

(写真はるり渓温泉宣伝サイトから拝借)  

28日は山田さんのお陰さまで、
るり渓温泉(京都府南丹市) で初めて温泉入浴を体験した。
(ワクワク!)ではあったが、
人前でスッポンポン(丸裸)になるのは、恥ずかしく思っていた。
故郷近くの江西省宜春市も温泉の名所であるが、料金が高くて行ったことはない。
中国では温泉はお金持ちのためのもので、一般庶民はあまり行かない。
日本のように誰でも温泉に行けるのはいいなと思う。
体にいいし、リラックスも出来る。

中国に戻ったあと、友達に、
「温泉に行ったのよ」
と言ったら、不思議そうな目で見られた。
「汚くないの?温泉って、プールのように一緒に入るでしょう。
伝染病とかあったら、大変じゃ…。」
もうあきれた。
皆は知らないものに対して、敬遠する態度をとり、
自分の世界に浸って、積極的に他を見る目がない。
温泉に入ると、実に気持ちが良かった。
その前は瑠璃渓を歩いてずいぶん疲れていたので、
空気浴室に入って、ぐうぐうと寝た。
とにかく温泉体験は大成功!!

[るり渓の川歩きで中国農村の子供時代を想う]
(写真はるり渓温泉宣伝サイトから拝借)

温泉へ行く前に、るり渓に沿って歩いた。
歩きながら、川遊びをしている人達を見て、羨ましかった。
農村出身の私は、渓流や樹木などをみたら、ワクワクする。
川遊びを見たのも久しぶりであった。
小さい頃、放課後、いつも家に帰らず、カバンを持って、
牛を放牧しながら、宿題をした。
宿題が終わったら、近所の友達と一緒に川や湖に飛び込んで、
魚を取り、タニシを拾った。
水牛の上に乗って、深いところへ行き、または、勝手に誰かの小舟で湖を渡り、
農家のスイカやキュウリなどを失敬した。
夜になると、星の光を借り、渓流の側で、お祖父さん達と一緒に水を浴びた。
お爺さんたちは怖い怪談鬼談をして、私たち子供を恐れさせた。
時々、水辺の菖蒲から、水蛇が泳いできた。
そうしたら、子供たちは桶を使って、水蛇をつかみ、
何日間か飼った後、また水の中に戻した。

このような体験は多分80年代生まれの世代の農村出身の子にとって珍しくないと思う。
しかし、今の中国の子達にとって、これはただ本の中だけの話かもしれない。
社会主義市場経済発展の余波は農村にも及び、
水汚染、土砂崩れなど、環境破壊が進んでいる。
かつて村民の楽園だった林や山なども、今は荒涼として、痩せた赤土だけが目立つ。
最も残念なことは、出稼ぎ労働者がますます多くなってきたため、
お年寄りや子供だけが農村に残されているということだ。
お年寄りの介護や子供の教育など課題は緊急である。
一人暮らしのお年寄りがなくなって15日後に発見されたというようなニュースがよく聞かれる。
子供は親の傍にいられず、勉強ができなくなり、
九年間の義務教育が終わったら15、16才くらいで、また出稼ぎに行き、悪循環になる。

私は老後故郷に帰り、また子供時代のように暮らしたい。
これから、農村がどんな姿になるのかを心配している。

―――――――――――――――――――――――――
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「劉思婷さん日本滞在記(その2)ー帰国者と戦争」 2013年10月12日(土)No.769

2013-10-12 20:15:09 | 日本中国比較
浙江省旅行の話で途切れていた劉思婷さんの関西滞在記の続編。
(「その1」は9月30日に掲載しています)

――――――――――――――――――――――― 
[帰国者と戦争]
7月27日は「帰国者の友」交流会に参加して、
多くの在日中国人や中国からの帰国者に会った。
以前より何度も先生から、帰国者のことは聞いていた。

奥さんの体調回復を願う李達夫さん、
20歳の若い年に愛する夫のもとに来日した原田玲奈さん、
5年前、研修生として一人で海を渡って日本で自立している劉氷さん…。
初対面であるが、前から先生に聞いたり、
作文集『帰国者の歩んできた道』を読んだりして、
名前や話を知っているので、(やっと、お目にかかった)と思い、すぐに親しくなった。

戦争のせいで、帰国者はみな生きるために、いろいろ大変な苦労をした。
私はそういう経験がないので、戦争被害者に対して何を言ったらいいかわからない。
言葉というのは軽すぎて、何を言っても足りないと思う。
いま、帰国者の皆さんが日本で生き生きと暮らしているのを見て、
祖国中国側の私は、感謝の気持ちでいっぱいである。ありがとう、日本の方々。

先日、先生のブログで、『はだしのゲン』という映画の名前が出てきた。
そのあと、ネットでこの映画を見た。戦争の怖さがつくづくと感じられた。
一瞬にして、生と死との別れである。
もともと幸せだった生活が瞬く間に地獄に落ちる。
生活の苦しみより、家族との生離死別が一番耐えられないことである。

日本に帰国した方々は、それぞれ乗り越えた困難が違うが、
きっともがきながら、叫びながら、生き続けてきたに違いない。
今の世界でも、戦争のために家族と別れ、死に直面する人たちが多くいる。
中東やエジプトのニュースを見て、私たちは幸せすぎるとよく思う。
しかし、こんな平和な国にいるのに、毎日文句ばかり言う人がたくさんいる。
「しっかりしなさい。仕事でも、お金でも、努力すればなんとかなる。
しかし、戦乱の国では、努力しても、自分の命すら守れない人はたくさんいるのだ。」
と怒鳴りつけたい。
幸せすぎて、ちょっとぐらいの困難にも辛いと思って、すぐあきらめる。
最後の最後、何でもできないまま、文句を言いながら一生を終わるのだ。

また、今日ネットでニュースを読んだとき、「東瀛慘案」の写真集を見た。
それは、1923年関東大地震が起こったとき、
日本軍国主義下で暴徒と化した人々は世の混乱に乗じて、
当時東京大島町に住んでいた中国温州、青田市出身の中国労働者750人を虐殺した。
朝鮮人に対しても同じである。
軍隊や警察は「保護」という名目で、数多くの朝鮮人を集め、逮捕した。
また、日本の民衆は“自警団”を組織し、逮捕された人たちに対して暴行を加え、
約6000人の朝鮮人が殺された。
2013年9月8日、“関東大震災時に虐殺された中国遇難者追悼会”が東京で行われた。
しかし、90年も経ったし、日本政府もこのことを隠したり、
責任を庶民に押しつけたり、教科書を改竄したりして、世の中にはあまり知らさず、
ちゃんと責任を取って来なかった。
日本で関東大地震で亡くなった人たちを憶う際、
在日朝鮮人と在日中国人は同時に惨死した先人を想っていることを、
日本の人々は知ってほしい。
世界で再び同じことが起こらないように祈る。
PS: http://news.qq.com/a/20130912/011089.htm#p=1 
『図話集―忘れられた「東瀛慘案」』

―――――――――――――――――――――――

参考:関東大震災 中国人犠牲者を追悼  
   虐殺事件 国家責任問う;ネット版赤旗2013年9月10日(火)
   http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-10/2013091014_01_1.html
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「浙江省紹興市の街角で」 2013年10月11日(金) No.768

2013-10-11 23:23:12 | 中国事情
若き女性の植物細工やさん。
以前広州市でも女性の細工師が見ている先からどんどん作っていた。
この仕事、中国では女性向きなのかな。
彼女の姿を見ていると何か物語ができそう・・・。



それにしても何故こういう細工ばかり作るのか。
一体誰がこんなのを買うのだろう。





ということで、ちょっと別のものを見たくなり、
空を見上げると、あら、文旦(中国では「柚子」という)。
樹木にも歴史が感じられる落ち着いた街、紹興市だ。

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「紹興で人力車に乗ったのだが」 2013年10月10日(木)No.767

2013-10-11 00:12:43 | 中国事情


↑魯迅旧宅の見学後、お土産屋さんを覗き、厚かましく写真を撮らせていただいた。
店員さんが快くO.K.してくれたので嬉しくなり、「気は心」で安い土産品(この写真のものではない)を買ってしまった。




↑ 魯迅の小説「孔乙己」の舞台になった居酒屋。孔乙己は長年科挙試験に合格できない知識人で、毎日ここにお酒を飲みに来たという設定。この小説、恥ずかしながら私は初耳だったが、3人の学生たちは当たり前のように知っていた。魯迅は自分の作品の中で、特にこの作品を気に入っていたのだそうだ。




↑孔乙己はまだこの店に借金があるそうな(*´∀`*)


↑本場の紹興酒がズラリ。



街には自転車の人力車がたくさん走っていた。
バスがいつ来るか分からないので、これに乗って宿に戻ることにした。
「国慶節値段で13元」と言うのを、余さんが交渉してくれて、10元に。
しかし、運転手さんは私たちを乗せて自転車を立ち漕ぎしながら、
「毎日朝から晩まで腰が痛いのに、こんな過酷な肉体労働をして、
月にたった3千元~4千元だ。
国慶節の時くらい13元にしてもいいじゃないか!
と、さんざん文句を言う。(私のようなズッシリ重量の人間に乗られたのでは、
怒りも倍増するだろう)と、
立ち漕ぎしつつ、車がビュンビュン走る路上を何とか前進している
骨皮筋エモンさんの背中を見ながら身を縮めた。
(そんなことでは体重は減らない)
余さんが、「ごめんなさい。私は学生でお金がないんです」
と言って、運転手さんの腹立ちを上手に鎮めてくれたが、
私は学生でもないので、いっそう身を縮めるしかなかった。

降りて、一人10元払うのだと思ったら、なんと二人で10元だった。
値切るんじゃなかった・・・・・・。
この旅行でたった一つ後悔したのがこのことである。


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「浙江省の食を楽しむお嬢さんたち」 2013年10月9日(水) No.766

2013-10-09 19:21:10 | 中国事情
浙江省の味は日本人に馴染みやすいと言われる。
確かに江西省南昌のとんでもなく辛く、とんでもなく油っこいのに比べると、
慣れ親しんだ味に近く、いくらでも食べられる。
しかし、食材となるとさすが中国、独特のいろいろなものがあり、
今回の紹興でも新しい出会いがあった。

↓余立君さんが食べているのは「臭豆腐」。各地にあるが、ここも本場の一つだという。
 そんなに「臭」ではなく、日本の揚げ豆腐を想起させるとても美味しいものだった。
 ケチャップがかかっている。






↓これは全く初めて。珍しいのでジロジロ見ていると、
 サッと楼晨けつさんが買ってくれた。ホントにもう、我ながら赤ちゃんみたい(^_^;)
 水の中で育つ植物だそうだ。食べるとホコホコして栗のような味だった。




↓夜、宿の近くにある中国東北地方の料理店でタニシを注文した。
 私と余さんがあまり食べないので(だって、一個ずつほじくるのが面倒でえ~)
 滕さんと施さん二人が必死で食べている。



↑二人は既にかなり立腹している。一個一個ほじくるのは大変な作業ですから(~_~;)


↓翌朝は宿を出たそばの路上の屋台で、
お粥、マントウ(具なし)、各種バオズ(肉まん)、大豆スープをいただいた。
写真左下の大豆スープは、どこか味噌汁に似た味がした。これも中国に来て初めての味。


↓近所の人も食べている。お店の人がマスクをしているのが新鮮だった。


↓前日昼の残り物のマントウ&ナン(インド風)を
大切に持ち歩いているうちに固くなり、どうしたものか思案する三人。
余さんは「どこかのレストランでシェフに頼んで蒸してもらおう」
と言う。中国ならではのアイディアである。
(最後はカンカチコになって、終に捨てました。もったいなかったです)
コメント (4)
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「紹興・・・魯迅の故郷」 2013年10月8日(火) No.765

2013-10-08 19:24:08 | 中国事情
泊まったユースホステルからバスで3つ目のところに魯迅の旧宅があった。
しかし・・・・・・。

やはり人、人、人、で南昌駅よりちょっとマシぐらいの感触。
朝から財経大学大学院生の楼晨けつさんが私たちのために並んで、
入場チケットを買ってくれていた。
楼さんは、国慶節で紹興市付近の故郷に帰省していたのだった。
本当に、みんなの世話になりっぱなしのこの旅である。

魯迅旧宅をじっくり見ていたら、やたら部屋数が多く、
中にはお詣りの部屋、刺繍室や琴の演奏室などまである。
(魯迅はブルジョワだったのか!当時日本に留学したんだもの、そりゃそうだわな)
と少々見飽きて外に出たら、今まで見たのは魯迅の祖母の家だと指摘された。
魯迅の父は病気持ちで身代を持ち崩し、財産を失った。
魯迅の作品「故郷」は、家を手放さざるを得なくなるというストーリー展開だったが、
その家はたいへんな豪邸だったということがよおく分かった。

↓小説「故郷」の土台になった衝撃的出会いを描いた絵画。
左は世間知らずのお坊ちゃんの魯迅、右は世界が何たるかを魯迅に見せてくれた
農民の子供。


↓記念館の外に出て脇をふと見たら、高校の教科書で習った
「藤野先生」が像になっていた。


↓魯迅は畑で野菜を栽培していたのである。これはヒジョーに嬉しい。
(自分で畑仕事をしていたかどうかは分からないが・・・)



ところで、魯迅さんと周恩来さんはご先祖様が同じだった、つまり二人は親類だそうだ。
そう言えば、二人の顔は似ていなくもない。

↓魯迅


↓周恩来(16歳のころ)




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「新幹線で杭州から紹興へ」  2013年10月7日(月)No.764

2013-10-07 22:17:52 | 中国事情

10月2日、新幹線で杭州から紹興に向かった。
朝7時半、郊外の霊山洞からバスで市内に行き、
地下鉄で新幹線の駅である杭州東駅に移動。
市内道路は行楽の車で溢れ、朝から大変な渋滞状況だった。
新幹線は午前9時9分出発だ。
バスの中で私たちはヤキモキしていたが、どうしようもない。
8時40分頃地下鉄の駅につき、そこから乗り場まで走り、
9時2分に地下鉄を降りてから思い切り走って3階まで駆け上り、
下の写真の東駅になだれ込んだ。
入口で全ての荷物チェックを受けるのが中国式。空港並みだ。
そこから1番改札口、2番改札口と奥まっていく。
なんと我々の改札は遥か遠い21番だった。
人々の間を縫うように走り続けた。
21番改札口に着いたときは1分前の9時8分。
改札口は3分前に閉まる。
当然すでに閉ざされた改札口脇にいた女性の係員にすがりつくように頼んだ。
すると、どうでしょう。
その人はチラッと時計を見て、親切にも入れと言うではないですか。
最近私は中国でこういうことによく遭遇する。
以前なら
「決まりは決まりだ!このたわけ者!」
と怒鳴りつけられてオシマイになるところなのだ。
「謝謝~~!!!」
と叫びつつ私たちは、長い長いエスカレーターを駆け上った。
と、ちょうどその時、音もなく新幹線がホームに入ってきたのだった。
ふい~~(´Д`;)


↑杭州東駅 空港並みの規模・設備を持つ。
中国国家のプライドを感じさせる駅だった。(「百度」で見つけた杭州東駅写真)



新幹線は15分で紹興北駅に着いた。
紹興北駅もまた、だだっ広い土地にバーンと建てられた広大な面積を誇る駅だった。
人もまばらなので一層広々と感じた。

↑ガランとした紹興北駅(「百度」で見つけた紹興北駅写真)


在来線の紹興駅までバスで30分ほど。

↑紹興駅。市内の中心にあり、ここは賑やかだ。

さらにバスでちょっと行ったところにその日宿泊する唐皇街旅店があった。
早い話がユースホステルだ。
2シングルベッド、シャワー、トイレ、パソコン付きで1室140元。
シングルベッドに2人ずつ寝るので一人35元である。

↓部屋はとても清潔。白壁もきれいに塗られていた。


↓キュートなロビー

↓玄関口。間口は狭く奥行きがある。



前日の農家楽は、朝夕の食事、
広い部屋に4シングルベッド、テレビ、シャワー、トイレ付きで、一人80元。
国慶節に物価が跳ね上がる中国としては、どちらも大変安い宿舎である。
そしてどちらでも親切この上ない応対を受けた。
農家楽は博堅先生、唐皇街旅店は余さん、滕さんのお世話で泊めてもらえた。
謝謝!

↓杭州郊外「霊山洞」の農家楽の宿泊部屋

↓朝6時すぎ、農家楽の外は朝餉のためか煙が。

↓反対側の窓からは、となりの豪邸が見える。
この農村ではどの家も新しい立派な家ばかりだった。
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「どこに行っても桂花(金木犀)の香りが」 2013年10月6日(日) No.763

2013-10-06 17:12:16 | 中国事情
人も多かったが、杭州でも紹興でもほのかに漂う桂花の香りが
とても心地よい今回の旅だった。
丹桂はオレンジ色、金桂はクリーム色の花を咲かせ、
爽やかな風に乗って街中にいい匂いを振りまいていた。

下の写真は杭州郊外の村(霊山洞)の農家楽(つまり民宿)近くの動植物たち。

↓これは丹桂。多くの家の傍に金木犀があり、香りでそれと分かった。


↓農家楽のベランダから下を見ると、アヒルが散歩中というか右往左往していた。


↓塀を覆うのは南瓜。町の子の余立君さんはぶら下がっている小さい南瓜を
初めて見て、興奮していた。町の子はね~~┐(´∀`)┌ヤレヤレ


↓村の犬。じっと家の前に座り、門を凝視していたが、
ふと振り返ってこっちを見た。
ちょっと忠犬の哀しさのようなものを感じません?
本人は何も考えていないんだろうけどね。


↓村は随所に空き地あり。野生の朝顔が蔓延っていた。
空き地の向こうに国慶節の赤い国旗が見える。
中国の津々浦々で、この五星紅旗がたなびいているそうだ。
もし、日本中に日の丸がたなびくようになったら・・・と、想像しただけで冷や汗が出る。
今更日の丸を国旗と言われてもね~。
嫌だね、わたしゃ。はいはい、非国民ですから。ヽ(*´∀`)ノ


塀の脇にカンナ。あと鶏頭とかもあった。
施芳芳さんは鶏頭を見るたびに「鶏の頭」と口に出していた。
正岡子規の俳句も紹介したかったが、
まだそこまで勉強は進んでいない(のでやめた)。
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「国慶節に旅行するということは」 2013年10月5日(土) No.762

2013-10-05 23:12:37 | 中国事情
下は9月30日夜9時前の南昌駅構内。
1万人はいたのではなかろうか。
国慶節前夜とあって人々は(さあ、行くぞ~!)と、
気合がみなぎっている。




かくして、3年生の3人と私は無謀とも言える国慶節旅行に出発した。
私と余立君さんは寝台車、滕碧霞さんと施芳芳さんは椅子席に別れて8時間。
向かうは浙江省の省都杭州市である。
「人間天堂」(地上の楽園)と言われる杭州には、世界自然遺産の西湖がある。
自宅が西湖の傍にある博堅先生からお声が掛かり、今回の旅行が実現したのだが……。




↑とまあ、人、人、人でした。この日は西湖に68万人が詰めかけたとのこと。
博堅先生も、国慶節に西湖を案内するのは初めてで、
思わず「あいや~」という嘆息が先生の口から…。


↑これは最初の頃撮ったので、まだ4人とも余裕たっぷり。
(左から博堅先生、余立君、滕碧霞、施芳芳)


↑石碑の前で記念撮影の順番待ち。
(と言っても順番などなく、ただ早い者勝ちなので、滕碧霞さんの表情にウンザリ感が…)


↑ふい~、ようやく撮れた。遠慮深い人はこういうところでは損しちゃうな~。

ネットのニュースで西湖の人込みや、マナーの悪さなどが話題になり、
証拠写真も数々載っていたが、確かにその通り。
しかし、その中に身を置くと、もはやマナーの基準が変化して、
私はほとんど何も思わなくなっていた。慣れるとはそういうことである。
下の写真は革命軍兵士の像に左下の青年が、今まさによじ登ろうとしているところ。
(この写真を撮った後、彼は成功のうちによじ登り、
兵士と肩を組むポーズを写真に撮ってもらっていた。
見とがめた余さんが「あの人悪い…」と眉をしかめていた)


↓野生のリスが餌付けされて、超大勢の人々の前でも全く平気。


↓湖上は陸に比べて空いている。さすが西湖。


↓でも、こんなお花畑もあってホッと一息。


昼前、這う這うの体で何とか西湖周辺から脱出できた。
博堅先生は心臓の薬を飲んで、呼吸を整えていた。
私たちは私たちで足が棒のようになり、寝不足でフラフラしていた。
この日(1日)の夜は、杭州市郊外「霊山洞」の農家楽に泊まった。
そこに行くまでにも、杭州市内のバス停が変わっていて散々探し歩いた。
博堅先生は「こんなに歩いたのは1年半ぶりだ」と、
たいへんお疲れのご様子だった。
私たちも非常に「お疲れ」だった。
(紹興市-魯迅・周恩来・蔡元培故居、王羲之記念館訪問へと続く)
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