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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「李さん夫婦―ある中国帰国者の人生」 2013年1月28日(月) No.555

2013-01-28 19:03:07 | 中国帰国者
帰国者2世李(渡辺)達夫さん(70歳)とお連れ合いの遅素媛さんのお宅にお見舞いに行った。
もう一年半前のことになるが、遅素媛さんが北京の旅館で階段最上階から落ちて生死をさまよう大けがをした。過労死で亡くなった愛娘の葬式に参列し、悲しみの帰宅途中での二重の悲劇だった。
純粋ボランティア任意団体である「帰国者の友」メンバーは、
持てる力の全てを繋いで何とか帰国―入院の手筈を整えた。
ど素人ばかりの団体だ。NPO法人ですらない。
しかし、フル回転して頑張り、また他の団体・個人の力を大いに借りて、
人生のどん底状態の李さん・素媛さんご夫婦を何とかサポートできたことは、
「庶民だってやればできる」という証拠だと自負している。
(当時の状況については2011年8月9日、20日、22日、28日、30日のブログをご覧ください)

中国から帰省するたびに見舞いに行くのだが、
昨夏、お邪魔したときに比べて
昨日の李達夫さんの表情は柔らかかった。
毎朝6時に起きて、妻である素媛さんのために朝食と薬を用意し、
リハビリ、昼食、薬、昼寝、リハビリ、夕食という介護の一日を過ごす。
これを一年半続けている。
この事故の前までは、
達夫さんが梅田の日本語教室から自転車で帰ってくるのを
素媛さんは市営住宅団地のベランダから今か今かと待つ日々だった。
餃子を包み、お湯を沸かし、李達夫さんがドアを開けると、
ちょうど茹で上がったホカホカの水餃子で出迎えるのだった。
素媛さんは日本語学習を早々と諦めて、
終日部屋で絵を描き、言葉の分からない日本での生活を過ごしていた。

60歳まで吉林省で働き、
その後お母さんの故国への移住を決意した李達夫さんとともに人生を紡ぐ者として、
日本海を越えて大阪にやって来た素媛さん。
彼女は当時、吉林市で絵を描く仕事に従事していた。
決して生活に困っていたわけではない。
素媛さんは李達夫さんが文化大革命で12年間農村の強制労働に従事していたとき、共通の友人に伝え聞いて面会に来た。
それが二人の初めての出会いだった。
「彼は姿形が見目麗しく、心も美しい人でした。」
素媛さんは元気だったころ、帰国者の友パーティーでのろけたことがある。
何歳になっても自分の連れ合いを衆人に対して堂々と褒めちぎるのが中国式だ。
もちろん嘘はない。
素媛さんは「日本人と結婚するなどとんでもない!」
と猛反対する家族の反対を押し切って李達夫さんの妻となった。

今、素媛さんは、
「このおじさん(李達夫さんのこと)が、お菓子を食べたらだめだと言うの。」
としょんぼりする。
事故後、日本での入院、退院、自宅療養の中で、
彼女の体重は50㎏から65㎏に膨れ上がってしまったので、
李さんはダイエットに踏み切った。
それが恨めしいのだ。
今、彼女にとって李達夫さんは「世話をしてくれる好いおじさん」だという。
脳挫傷等の後遺症で記憶も戻らず、童女のような素媛さん。
しかし李さんはそんなことは意に介さない。
自分に人生を捧げてくれた素媛さんの恩を今返す時だと微笑む。
こんなふうに思うまで、李さんはどれほど涙を流したことだろう。

帰り道、一緒に行った「帰国者の友」メンバーと、
「李さん夫婦を始め、帰国者の多くがこれからさらに、
言葉の壁・年齢の壁に苦しむことだろう。
そうした事態に備え、『帰国者の友』のNPO法人化がやはり必要だ」
という話になった。
ぼちぼち、腰をあげなアカン。
身が二つ欲しい。

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