毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「どっこい、それでも生きてきた」2015年4月27日(月)No.1346

2015-04-27 19:33:53 | 歴史

 

佐野洋子風の書き出しに引かれて一気に読んだ。

三重県戦争資料館の  体験文集 > 戦後の耐乏生活

のページで見つけたエッセイである。


戦後すぐの日本の人々はとても元気だったらしい。

映画『三丁目の夕日」での東京下町の画面にも、

(これから日本はよくなる!)といった希望が溢れていた。

もう、戦争をしなくてもいいこと、

何もかもなくなってしまい、

自分の本来持っている力の全てを出さざるを得ない環境だったこと、

個々の創意工夫による新たな経験が生きる道を切り開いたこと、

そんな状況が人々の顔に生気をみなぎらせたのかも知れない。

当時の元気な日本の庶民の顔が浮かんで、自分も元気になる。

そう言えば、去年までいた中国(江西省南昌)の街も、

そんな元気な人たちで満ち溢れていたなあ。


―――「櫓を漕ぐ“かいな”は甲種合格」

(1995年に書かれたもの;作者不詳)―――


終戦をタイ国で迎えた父が、抑留、残務整理と数々の任務を終え、 

帰ってきたのが昭和二十一年八月の事。

父の帰りをせつない程に待ちこがれていた母は、

「あんた遅かったやないか、いままで何しとったんや。

よその人は早うに帰ってきたのに。」

父は、母の傍にいた汗疹だらけの私を抱き上げて、

「女の子が生まれた言うてたが、汚い子やないか。」

これが無事再会できた夫婦の言葉だったそうです。

この時の私は二歳でした。


父は出征前に働いていた愛知県の工場が戦災で焼失したのを知りましたが、

途方に暮れることなく、

 故郷である志摩半島の先端である鳥羽で漁師をしようと決心をし、

再起に奮闘しました。

夏場は鯛などの一本釣り、冬はボラ、コノシロの揚繰り漁が盛んで

漁獲量のよいところです。

気の強い父は、早く立派な漁師になって家族が安楽に暮らせるようにと、

人一倍頑張りました。

さっそく知人から譲り受けた小舟を海に出し、

しばらくは鳥羽湾内で小物釣りをしていました。

装備など何もないちょろ舟を、海に向かって櫓一丁であやつり、力一杯漕ぎ、

自分で探りあてた漁場に夜明け前にはたどり着くのです。

舟が流されないように、左手で櫓を漕ぎながら、

右手には希望を託した釣り糸のテグスを海に垂れる。

釣り始めるころには空は白み、

他の漁師がエンヤエンヤと、櫓を漕いでるのが見える。

小さなちょろ舟で広い海を行くのは、根気のいる仕事、

そのうえ足腰の踏んばり、腕、肩の強さが必要です。
 

父のこの頃の口癖は、

「俺の体は甲種合格。

お国の折り紙付きじゃよって、ちょっこらちょっとではへこたれんわい。」

苦しい時、自分自身の体を励ましながら、

初めて挑戦する漁師の仕事に打ち込んでいきました。

三か月がまたたく間に過ぎ、漁師たちがボラ漁の準備に追われる頃、

漁業組合に入ることができました。

網を二隻の船に乗せて海にでる揚繰り漁は、一本釣りとは違い、

大勢の人数で一致団結をし、またそれぞれの役割があります。

漁見小屋では常に潮のようす、魚群の確認をしながら、漁に出るチャンスをみる。

父は先輩の漁師から、男らしく勇壮な揚繰り漁のありさまを聞くたびに、

胸を躍らせたそうです。

 

ゴム長靴にかっぱ姿で合図が町中を駆け巡ったのは、師走に入りすぐのこと、

「ヤーイ、みんな出てきてくれ-、ボラやぞ-、ボラ獲りや-、ヤーイ。」

父も身じたくを急ぎ、河岸まで叫びながら走った。

二隻の船にはそれぞれ八丁の櫓が据えられ、ベテランの漁師たちが役割についていた。

いまにも出漁というその時、櫓をかまえていた漁業組合長が、ひときわ大声で父を呼び、

「お-い、かわって櫓を漕いでくれ。」

父はそんな大役をと感激し、急いで船に飛び乗り、

初めての大きな櫓に″かいな”をまわした。

「若いおまえの力で頑張ってくれ、頼むぞ。」

組合長に背を押されたときに、何と答えたのか覚えがなく、とにかく必死で漕いだ。

やがて鳥羽の平穏だった海は、父たち男の豪快なかけ声と、歓喜に満ちた叫びが響き、

夜半に出漁したボラ獲りは、東の空が暁に輝くころまで続いた。

漁師だけでは人手不足なので、町中のおばあちゃん、子供まで河岸に集まり、

捕獲されたボラの整理に追われ、一段と活気溢れてどの顔も、どの顔も皆、笑っていた。


恐ろしく、忌まわしい戦争が終り、何もかも無くし、不安な生活の中での事でしたが、

父や母にとっては、かけがえのない幸せな時だったと申します。

あれから、幾たびも季節を越えて、歳月がすぎました。

赤ん坊だった私も五十一歳になりました。

今は亡き父の墓前に母と参り、母の語るつれづれ話に、

まぶしさを味わいながらゆっくりと相槌を打っています。

 

現在、文明文化の発展は、とどまることなく進みますが、

あの戦争を過去の一瞬の出来事ですませられません。

戦争で苦しみ、その後は復興に努力惜しまず頑張り続けてきた人々のことを忘れないで、

今の世に感謝したいと思います。

―――三重県戦争資料館

http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/bunsyuu_09.htm

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