毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

いつまでも戦争と平和の最前線ー沖縄

2024-06-23 20:52:56 | 反戦平和

ここ数日間、ネットで沖縄関連の記事が多くみられる。

6月23日、慰霊の日があるためだ。

メモリアルデイの時だけワーワー言うのは偽善だと若い頃の私は思っていた。

しかし、メモリアルデイにすら話題にならず、

完全に忘れられるよりはずっといいと今は思う。

「弱い人間は記憶の力によって、忘却しないことによって、権力と闘うしかない」

大江健三郎さんがミラン・クンデラの言葉を引用して私たちに示した権力との闘い方を

噛みしめる今日この頃。

You Tubeニュースチャンネルの一つ、アークタイムズ(Arc Times)が

山城博治さんへのインタビューをしていたのが心に強く残った。

辺野古の座り込み闘争は無意味だと言っていたヒロユキ氏が、最近辺野古に来たが

その時間帯は座り込みをしていなかったので

「なんだ、座り込みしてないじゃないか。闘争〇〇日の看板、ゼロ日にすべきじゃないの」

とか言って帰ったらしい。それに対して博治さんはこう言う。

「10年間毎日朝から晩まで機動隊に殴られ、逮捕されてもやっていたら反対派も機動隊も、両方身が持たない。今は朝・正午・お昼の一日3回をルーティン化して、工事の進行を確実に遅くしている。これは大衆運動として成功しつつある大切な成果だ」

実際、私が参加した時も、土砂を積んだダンプが無制限に基地に入るのを止めるために、

身体を張ってダンプの前をゆっくり横切ったり、運転手に話しかけたりしてやっていた。

ドライバーと天気や世間話をしたりして一見和やかにさえ見えた。

雨風を凌ぐテントも何度も夜の襲撃で壊されたが、またすぐに作り直してきた。

そうやって、何年も反基地闘争をやってきた。

辺野古新基地建設工事はいつ完成できるか誰も言わない。

分からないから言えないのだ。

万が一完成したとしても、

サイズ的に中途半端でオスプレイの発着ぐらいしかできないことも分かっている。

それなのに工事を止めない。無駄を途中で止められないおバカな政権。

(維新の大阪万博もそうだけど)。

 

沖縄県議会議員選挙の結果、

玉城デ二―知事への批判勢力が過半数を得たことについて聞かれた山城さんは、

「全国で自民批判の声が増しているときに沖縄がこんな結果になって忸怩たる思いだ」と言いつつ、

「今回自民党系候補者たちは辺野古基地建設について完全に沈黙して争点としなかった。デニー知事が信任を失ったと言う人もいるが、デニーさんが掲げる辺野古新基地建設反対の立場が審判を受けたのではない。今も沖縄県民の7割は辺野古基地建設に反対だ。闘いは続く」と。

忸怩たる思いは本土の私たちの方だ。

独立国である琉球王国を侵略し日本のものにしてしまった1872年の「琉球処分」からこっち、

日本人化を強いながら琉球人を差別し、結婚差別はもとより、

戦前期は「琉球・朝鮮お断り」と、住居を借りるにも差別があって、

日本社会において琉球人たちは改姓し身元を隠して生きてこざるを得なかった。

1903年大阪の、内国勧業博覧会の「学術人類館」(見世物小屋)で

朝鮮人、ジャワ人などとともに琉球女性を見世物にした人類館事件は差別の象徴だ。

日本という国が琉球をはじめ、同じアジアの国々を「遅れた国」としてここまで傲慢に蔑視していた事実、

これこそ忸怩たる思いだ。

さらに戦後は昭和天皇が「本土の代わりに沖縄を自由に使ってください」と米軍に差し出して以来、

1972年の沖縄「返還」を経てもなお、

アメリカ軍人は沖縄中を闊歩し、ビールを飲みながら車を走らせ、女性や子供をレイプしている。

挙句に南西諸島のミサイル基地化で、住民は戦闘になったら他所に避難しなさいよ、あぶないから、と

ふざけたことを言う。

どこまで沖縄を本土の犠牲にしたら気が済むのか、

恥ずかしさと申し訳なさで地中深く潜ってしまいたいほどだ。

 

さて、アークタイムズ尾形編集長・望月記者の山城博治さんへの質問は

本島では、石垣島、宮古島などで進む自衛隊・米軍のミサイル基地化をどうとらえているかへと続く。

山城さんの答えは、沖縄の人々について考えさせられるものだった。

「沖縄本島の人間は、人口の少ない島嶼のことを自分の事として切実に考えるに至っていない」

本土のヤマトンチューは沖縄に対して、

(沖縄さえ犠牲になれば日本は安泰だ。ごめんね沖縄、がんばってね~)と思う人が多い。

それと重なる感覚を本島の人々が島嶼に対して持っているのも仕方のないことだ。

沖縄人だって神様ではない。

自分の身に差し迫ってきたとき初めて真剣に考える人が多いのは

世界中どこでもそうなんだから。

 

動画を貼り付けることができなかったので、ぜひYou Tubeで下のArc Times動画を見てください。

  ↓    ↓    ↓    ↓    ↓

沖縄・辺野古からライブ【山城博治・辺野古、反対運動まもなく10年、沖縄の民意とメディア】6/21(金) 17:50~

 

【付録】6/23平和の詩「これから」(沖縄県立宮古高校3年仲間友佑さん)

  ★最近、「命の繋がり」をよく思います。この詩でもまた……(ブルーはーと)

短い命を知ってか知らずか 

蝉が懸命に鳴いている

冬を知らない叫びの中で 

ぼくはまた 天を仰いだ

 

あの日から79年の月日が流れたという

今年18になった僕の祖父母も戦後生まれだ

それだけの時が流れたというのに

あの日短い命を知るはずもなく 

少年少女たちは 

誰かが始めた争いで 多くの未来とともに散っていった

大切な人は突然

誰かが始めた争いで 夏の初めに居なくなった

泣く我が子を殺すしかなかった

一家で死ぬしかなかった

誰かが始めた争いで 常緑の島は色をなくした

誰のための 誰の戦争なのだろう

「会いたい!」「帰りたい!」「話したい!」「笑いたい!」

そういくら繰り返そうと

誰かが始めた戦争が そのすべてを奪い去る

心に落ちた暗い暗い闇は あの戦争の副作用だ

かすかな光さえも届かぬような

絶望すらもないような

怒りも嘆きもなくしてしまいそうな

深い深い奥底で懸命に生きてくれた人々が

今日を作った

今日をつなぎとめた

両親の命も 僕の命も 友の命も 大切な君の命も すべて

心に落ちたあの戦争の副作用は

人々の口を堅く閉ざした

まるで戦争は悪いことだと言ってはいけないのだと口止めするように

思い出したくもないほどのあの惨劇が そうさせた

 

ぼくは再び天を仰いだ

抜けるような青空を 飛行機が横切る

ぼくにとってあれは恐れおののくものではない

ぼくらは雨のように打ち付ける爆弾の怖さも

戦争のせの字も知らない

けれど常緑の平和を知っている

あの日も海は青く 同じように太陽が照り付けていた

そういう普遍の中に ただ平和がかけることの怖さを

ぼくたちは知っている

ひとは過ちを繰り返すから

ときは無情にも流れていくから

今日まで人々は恒久の平和を祈り続けた

小さな島で起きた あまりに大きすぎる悲しみを

手をつなぐように 受け継いできた

 

それでも世界は まだ、繰り返している!

79年の祈りでも まだ、足りないと言うのなら

それでも変わらないと言うのなら

もっと、もっと、これからも、

僕らが祈りをつなぎ続けよう

限りない平和のために

ぼくら自身のために紡ぐ平和がいつか

世界のためになる

 

そう信じて今年もこの6月23日を 平和のために 生きている

その素晴らしさを噛みしめながら

 

 

 

 

 

 

 

 

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1 コメント

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伝える事・・・ (こきおばさん)
2024-06-27 06:25:20
 殺し合いでしかない戦争の片鱗を、少しでも体験している私は、「戦争」を伝え続けなければいけないのに、寄る年波で動けなくなり、このところもうその使命を放棄していることに自己嫌悪を感じています。
残り少ない命をどう生きなければならないのか、どう生きたらいいのか。生きていることがむなしく思うようになっていることに情けなさを感じています。
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