毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「沖縄慰霊の日 恩納岳に散った少年たち」No.2297

2018-06-24 00:01:06 | 反戦平和

昨夜遅く、

フェイスブックの友人から写真を借りて、このブログに貼り付けるため、

せっせと「マイピクチュアに保存ー明るさ調節ー縮小」作業をしているうち、

ブログが開かなくなってしまいました。

VPN接続ももちろんできません。

週末とあって、恐らく学生達がネットに殺到しているのでしょう。

以前は何かあるとすぐ(当局のせいか!)と疑心暗鬼を生じたものですが、

今となっては、全人代でもない限り、ほぼ、

大学のネットワークの問題であると思えるようになりました(笑)。

今朝は、昨夜と打って変わって快調です。

(学生諸君はまだ寝ているな


一日遅れの「沖縄慰霊の日に思う」文です。


慶良間(けらま)諸島、座間味(ざまみ)島、渡嘉敷(とかしき)島、

読谷村(よみたんそん)、伊江島(いえじま)、摩文仁(まぶに)の丘……


沖縄戦の文を読むにつれ、戦場となった沖縄各地の名前が、

沖縄の地図上でどこにあるのか少しずつ頭に入ってきた私ですが、

恩納村(おんなそん)については

那覇空港から空港リムジンバスで名護バスターミナルに向かう途中、

(読谷村と名護の間ぐらいにあったかな?)レベルのものでした。

 

沖縄戦の時この恩名村で、日本軍により、「護郷隊」少年ゲリラ兵として駆り出され、

戦わされた約1000人もの少年たちのことを、

フェイスブック友達のShigekoさんが多くの写真を掲載して書いていました。

恩名村博物館が〈恩納村史編さん事業〉として

慰霊の日に向けて企画した

「戦場となった恩納岳~少年ゲリラ兵 第二護郷隊の戦争」

見に行った際のレポートです。

(この企画展は7月8日まで開催されているそうです。写真・資料も膨大なものだと!)

「光る葉っぱ」

(国頭村 17歳)

喜瀬武原(きせんばる)で掃討戦をやっている、

米軍はいわゆる「山狩り」をやっているわけです。

小さい声で話をするのが聞こえるんです。

時には大きい声で仲間同士で話をしながら接近するんです。

そういう中を千人近くが、そろりそろりと移動して行くわけです。

またその時に、雨がすごく降っていたんですね。

夜、行動するもんだから見えないですよね。

仲間から外れたらたいへんですから。

じゃ、どうしたか。

あの、山の中のですね、木の枝が腐食したものに夜光る細菌みたいなものがあって、

それを背嚢に突き刺して、目印にして歩きました。

真っ暗ですから。

                                 

東村 17歳)

夜歩く行軍ですから、木の葉っぱは蛍みたいに光る葉っぱをつけるんですよ。

何の葉っぱかは分からないけど、光るんですよ。

それを背中につけて、その葉っぱを目印にみんなついて行くんです。

はぐれたら大変だから。

周りは真っ暗です。また、夜だから眠たいでしょ。

結局、後ろの方の肩を叩いて「行くぞ」と言うんだけど、

またそれを忘れたら、もう大変。

 

当時の沖縄には計22の中等学校と女学校があり、

護郷隊の後で編成された鉄血勤皇隊も含めると、

すべての学校の十代の生徒たちが、戦場に駆り出されました

 十代の若人たちを戦場に出すには、

先ず国会で法案を策定し、それに基づいて出すのですが、

沖縄の十代の男女生徒たちはその法的根拠もないまま、

超法規的に召集されたのです。

それまで戦闘の訓練もろくにしていなかったような若者たちは、

超法規的に、そして否応なく戦わされ、

その「過半数」が亡くなりました。


上の文字は読みづらいでしょう。ちょっと下に書き出してみました。

  ↓       ↓       ↓

Q:護郷隊とは?

護郷隊とはヤンバルに配備された少年兵のゲリラ部隊(遊撃隊)のことです。召集された少年たちの戦意高揚を図るために、「自分の郷土は自分で護れ!」ということで、「護郷隊」と呼ばれました。

Q :何の目的で?

護郷隊が作られた頃、兵士が命と引き換えに突撃する「特攻」を行うほど、日本は完全に追い詰められた状態でした。そんな中、いずれ始まる本土決戦に向けて時間稼ぎをするための持久戦を課されたのが、沖縄で作られた護郷隊でした。

Q :ゲリラ戦って?

山の奥深くなどに潜み、敵に正面から攻撃を仕掛けるのではなく、気づかれずに奇襲攻撃を繰り返す戦法です。武器も弾薬も兵員も圧倒的に劣勢に立っていた日本軍が、敵にダメージを与えるために沖縄戦で実行しました。

Q :少年兵って何歳?

15歳~18歳が多く、中には14歳もいました。

 Q:いつ頃から?

1944年9月から翌年3月までに、約1000名の少年が召集されました。

Q:なぜ少年たちが?

1944年8月29日、陸軍大臣が遊撃戦(ゲリラ戦)を行う舞台編成の命令を出しました。そこには

隊員は『少壮』(若くて元気いっぱい)で、『積極果敢な者』、

さらに『徴兵終決処分未了者』(徴兵検査以前の年齢の者)にするように】

と命令が出されていました。この命令により、条件を満たし直ぐ戦力になるような10代の少年達が召集されることとなりました。

       註)沖縄市の年表資料に下の記載があります。

        実際に子供達を戦場に駆り出したのは、

        残置諜報部隊軍(現地住民を組織して、

        ゲリラ戦を指揮するために陸軍中野学校から

        派遣された工作員)と、

        沖縄の子どもの教育を司る県の学務課だったと。

        戦争になれば、子どもを弾除けにでも使うのが

        当時の軍人・役人たちだったのです。

        (ブルーはーと)

       1944年10月

      ・防衛召集(21歳から45歳の男子)。

      ・護郷隊(遊撃隊)の編成→残置諜報部隊軍県学務課

       中等学校生の 戦場動員を打合わせる。 

         okinawasinosennsekitokiti.pdf

こんな歌作った菅江敬三とはどんな人や!?

と思ったら、やはり地元沖縄の人ではなく、

 大津商業・拓殖大学39 期 出身の菅江敬三少尉(陸軍中野学校6丙出身) だと。

彼もまた、戦死しました。

歌詞だけを見れば、ここまで「死所」を得て喜んでいる彼は、

おそらく、本当に信じていたのでしょう、

あるいは、自分に言い聞かせていたのでしょう、

死ぬことが郷土や国を守ることだと。

菅江敬三さんはたくさんの詞を書き、

野球が上手なスポーツマンだったとのこと、

彼もまた、この時代の軍国主義教育の中で生かされ、殺された一人です。


護郷隊(遊撃隊)編成から少し後の1945年3月、

鉄血勤皇隊編成の命令が出て、

大田昌秀さん(元沖縄県知事・昨年逝去)が召集されました。

当時沖縄師範学校2年生で19歳の大田さんは、

最高司令部だった大本営から派遣された航空参謀の少佐から、

こんな声をかけられたと記しています。

「たとい沖縄におる者が全員玉砕しても、日本は絶対に参ることはない。すでに本土決戦に備えて万全の用意もしてある。沖縄でのこれくらいの犠牲は、日本にとって何でもない。」

「沖縄は日本本土決戦の時間稼ぎ、捨て石の意味しかない」

そう言っているに等しい言葉です。


ところで、

中央政府が沖縄を見るこの差別に満ちた目は当時から現在まで、

少しでも変化しているのでしょうか。

日本全国土の0.6%の広さしかない沖縄に、

日本にある米軍基地の70%以上が集中しているその理由は、

少し前、アベ首相がポロッと言ったように、

「(本土に)米軍基地を置くことは(本土の)理解が得られない」

からです。

ちょっと待ってよ、その発言!ですよね。

沖縄県民は沖縄に米軍基地を置いていることに対して、

理解を示したことも、ましてや承認したことなど、

ただの一度もありません。

あのアベ政権挙げてのごり押し・無理やりの新基地建設工事に対して、

辺野古で何年にもわたって粘り強く座り込み、

大浦湾に小さなカヌーを漕ぎ出し、

海保に怪我させられても、

ネットで嘘の中傷を山ほど浴びせられても、

機動隊に「豚!」「土人!」と貶められても、

それでも、

毎日、毎日、粘り強く、我慢強く、

反対し続けています。

この強権的な基地建設のごり押しは、

アベ首相が口先で

「沖縄県民の負担を軽減することに全力を挙げて、精神誠意ぺらぺらぺら」

と唱えようとも、

彼の真意は真逆であることを示しています。

事実を見れば一目瞭然で、

アベ首相にとって沖縄県民は、

郷土(くに)を守るために死所を見つけて、

喜び勇んで死ぬべき存在でしかありません。

沖縄県民はもちろん、そのことを受け入れられないから闘っています。

では、本土の人は?

自分の町じゃないから、沖縄だからいいんですかね。

もし、(申し訳ない)の気持ちがあったら、

一歩、歩き出して、行動して、

沖縄県民に友情を示すべきではないか、と私は思います。

沖縄に行かなくても、自分の町でも、それは、いくらでもできます。


沖縄県民は、戦争で4人に一人が亡くなってしまいました。

6人家族だと1.5人が殺されたのです・・・・・・。

だから、「もう、戦争に繋がる基地は要らない」

とずっと、訴えているのですよね。

        

 

 写真はShigekoさんはじめ、フェイスブックの何人もの友達からお借りしました。

 


 

コメント
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