ノーベル賞作家川端康成の作品『伊豆の踊子』は
多くの日本語学科の学生が授業で学びます。
菏澤学院3年生の「日本文学選読」の科目で使う
『日本文学』(北京大学出版社)という教科書にも載っています。
私自身はいつ読んだか遥か昔のことで定かではありませんが、
(なに、この手前勝手な終わり方は?)と
全くしっくりこなかったことだけは覚えています。
この作品ゆえに川端康成の次の作品を読みたいという気持ちは100%失せたという、
記念碑的作品が私にとっての『伊豆の踊子』でした。
3年生はまず、吉永小百合と高橋英樹主演の同名映画を見ました。
中国で人気が高い山口百恵じゃなく、吉永小百合のを選んだのは、
活動に行くことを断念した直後の宴会のシーンのためです。
吉永小百合演ずる踊り子の表情に、
その後の自分の人生を悟った絶望感が溢れていて、
すごい演技力だと思ったのです。
そうした下準備(?)の後、小説を紐解きました。
“わたし”という旧制一高生が孤児根性に歪んでいると思い悩み、
伊豆の旅の道中で旅芸人に近づき、踊り子に性的妄想を抱きつつも、
心が洗われたり癒されたりして、爽やかな満足感を持って東京に帰る
というストーリーを確認した後、
文中に表現された“わたし”という人間の心の様を探りました。
何人かの女子学生が昔の私のように、
「踊り子とさっき別れたばかりで何故甘い感傷に浸れるのか?」
という読後感想を書き、
「“わたし”は、本当は踊り子を愛してなんかいなかった」
という極めつけの意見もありました。
私は面白がって、早速それをディベートの命題にすることにしたのです。
7人が「いえいえ、“私”は心から踊り子を愛していましたよ」派、
6人が「なわけねーだろ」派に分かれて、
このクラス初めてながら面白いディベートを展開しました。
(意図的に男子学生には全員「心から愛していた」派になってもらいました)。
「愛していた」派の主張は、
①私が二十歳の若者であることを考えれば、峠の茶店の婆さんに吹き込まれて性的妄想を抱いても、それは男性として自然なことで、女性差別ではない。
②踊り子が他の客に寝取られる夢を見る程、“私”は嫉妬の感情を持っていた。愛していなければ嫉妬もしないだろう。
③踊り子に魅かれている描写「古風の不思議な髪を結って」「卵型の凛々しい顔」「美しく調和」などが何行にも渡って綴られているのも、踊り子を愛している証拠だ。
「愛していなかった」派の主張は、
①まず愛しているなら「踊り子」とか呼ばずに「薫」いう立派な名前があるんだから、名前を呼ぶべきだ。踊り子を軽く見ていた証拠だ。
②踊り子と別れた直後だというのに、“私”は「すがすがしい満足」を覚えたり、「何も残らない甘い空虚さ」に浸ったりしているのはどうしてか。もし、本当に愛していたら、別れた踊り子のことばかり考えて、胸がいっぱいになるはずだろう。この“私”は自分しか見えない自己中心主義者ではないか。彼は自分以外の誰をも愛していない。踊り子がその後の人生をどう生きていくのか、関心がない。踊り子は「唇をきっと閉じたまま一方を見つめて」生きていくのだろう。差別社会の中で。
③踊り子を「愛している」なら他の客同様のことをしていいのか。踊り子の見かけの美しさに魅かれただけですぐに性的な空想をするのは、踊り子をバカにしている。旅芸人だからお金で踊り子を買えると思う他の客と“わたし”の違いはどこにあるのか。ありません。
と、丁々発止の意見をたたかわせることになり、私は聞いていて、楽しくてたまりませんでした。
〈愛してる〉派の男子学生は、しまいに
「若い男性なら、好きな女性に妄想を抱くのは自然です。
お前たち女性には分かりません!」と、
とんでもない言葉を発して、たいへん顰蹙を買いました。
授業後、彼が女性たちによって階段から突き落とされなかったか心配です。
また、〈愛してねーよ〉派が、〈愛してる〉派の③の主張「愛しているから踊り子の美しさを何行も割いて詳しく描写しているのだ」という意見に対し、
「じゃあ、下田の港で身寄りのない婆さんを何行にも渡って描写しているのも、踊り子同様に愛している証拠と言えるだろう。“私”は婆さんをも愛していたのか。」というツッコミをしたので、「そ、それは詭弁です!」と場が紛糾しましたよ。
しかし、最後まで、〈愛してなかった〉派の②の主張「別れてすぐにすがすがしい満足はないだろう」には、誰も反論できませんでした。
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わたしは、川端康成という人は面白い人だったかもしれないけれど、
今も彼の作品は読みたいとは思えません。