matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

新潟から青森へその2-弘前城

2017-10-09 11:48:31 | 日本100名城



 (二の丸南門)

 現存12天守巡りは、姫路城・松江城
・彦根城・松本城・松山城(伊予)・
丸岡城に続いて弘前城です。

 弘前
 
 新潟から弘前へ向かいました。
雨はあがり、気持ち良い秋の空が広がっ
ています。

弘前城は弘前藩4万7千石の居城として
廃藩に至るまでの260年間、津軽地方
の政治経済の中心地でした。

創建当初の総面積は38万5千平方メー
トル。

司馬遼太郎は「街道をゆくー北のまほろ
ば」で「日本7名城の一つ」と紹介して
います。


 (下乗橋から)

1590年、南部氏に臣従していた大浦
為信(のち津軽に改姓)は、小田原征伐
の際に秀吉より4万5千石の所領安堵の
朱印状を受けました。
南部氏も小田原に急行しましたが、時す
でに遅く、津軽は為信が獲得しました。

津軽氏は伊達・南部・戸沢・佐竹などの
諸氏と肩を並べる近世大名として発足す
ることになりました。


 (津軽為信公の像)

1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍
につき、2千石の加増を受け4万7千石
の弘前藩が成立しました。

弘前城は為信が計画し、2代藩主信枚が
着手し、1616年に完成しました。


 (現存天守)

当初の天守は1627年落雷で焼失しま
したが、現存天守は1810年天守櫓造
営の目的で幕府の許可を得て建てられた
ものです。

地元では天守と呼ばず、「御三階」櫓と
呼んでおり、本当の天守は消失した五層
天守であったとしているそうです。



現在は100年ぶりの石垣修理のため、
天守は本丸の内側に約70m移動して
います。

本丸は四方に石垣が築かれ、藩政時代
には御殿や能舞台が建てられていまし
た。

ここから望む岩木山(標高1625m)
は絶景です。



弘前は「東北の京都」ともいわれ、太宰
治は自伝的小説「津軽」(1944年)
のなかで、弘前の悪口もいいつつ、「こ
こは津軽人の魂の拠りどころである」と
もいっています。

「あれは春の夕暮だったと記憶している
が、弘前高等学校の文科生だった私は、
ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一
隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふ
と脚下に、夢の町がひっそりと展開して
いるのに気づき、ぞっとしたことがある
。(中略)お城のすぐ下に、私のいまま
で見た事もない古雅な町が、何百年も昔
のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそ
めてひっそりうずくまっていたのだ。・
・・・・・」
 (「津軽」より一部引用させてもらい
  ました)