だいありぃ。

くろねこのつれづれなるにちじょう。

老人と、孤独と、心細さと。

2015-01-09 19:03:45 | 日常。
あんま楽しい話題でもない上に、長くなっちゃった。
でも、メモとして残しておくことにします。


両親が正月、祖母のお見舞いに行ってきたらしい。

元々しっかりしたばーさんではあるが、もう90も越え、だいぶ我儘放題の模様。(笑)

目覚まし時計の電池が切れたからすぐ持って来い!とか。(そしてすぐ届けに行く介護者の伯父夫妻)
あそこが痛いここが苦しい、なんか大病じゃないのか!!と大騒ぎするとか。

なんかなー、なんであんな風になっちゃうのかなぁ、、、と、結構ショックだったらしい。
寂しくて不安で(さらに言えば暇で)なんか足掻いている感じが、美しくないなー、と。


私がドイツに来て、周りの言語もあまり分からない中で生活していて、
目が見えない、耳が遠い人ってこうなのかもしれないなーと思ったりね。ニュースにしろ掲示にしろ、何なのかぱっと理解できないので、なんか見つけるのも面倒になって。最低限の資料は読むけど、それくらいで、テレビとか見てても、まぁだいたいわかるんだけど、頭使う上に100%わかるわけじゃないから面倒になってしまってみなくなっちゃうし。

となると、ばーさんの「目が悪くなって本読む気もしない、テレビもよくわからんし音も聞こえないから見る気もしない、することなんて何もない」っていうのは全くわからんではない。(笑)
↑あぁ私にはインターネットがあってよかった!!!(・・・勉強しろ。)

ついでにいうと、そうなるとすごくすごく寂しくて、世の中に置いてかれた気がしてどうしようもなく孤独を感じて、、っていう気持ちも分かる。
まぁ私の場合、まだ若くてエネルギーもあるので、色々興味あることを探したり、いろんな人と出会ったり、旅行に行ったり色々出来ているのだけど、、、

どうしようもないとき、ってあってね。
それってね、一人じゃ解消しにくいんだよね。

やっぱね、人間、誰からも必要とされないってすごく苦しいのよね。
求められるからやろうと思う。
ごはんは、美味しいって言ってくれる人がいるから作ろうと思う。(あ、一人で飲むために作るときもあるけど、、、(笑))
一人暮らしの家事なんて手抜きばっかりですよ。
仕事もそうだけど、嬉しいね、楽しいね、できたねやったね!って一緒に笑いあう相手がいるからほんとに楽しいし、つまんないことがほとんどでもやっていける。(仕事については、その内容がきっと世の中に役に立つから!という思いがあるからこそ、って面もあるよ、もちろん)

ばーちゃんが心細くてわがまま言うのは、本人の心構えの問題もあるのかもしれないけど、そういう心のハリが作れないこと、だと思うんだよね。

別に仕事しろと言ってるわけではなく
いっしょに笑いあえる人がいたら、結構そういうハリって生まれてくると思うんだよね。

それなしで、三食与えて衣食住の世話だけしてりゃいいってものじゃないのではないでしょー、って思うわけですよ。


介護って、真っ暗な中、被介護者とあの世の入口まで一緒に歩くことだ、と聞くのだけど。

途中で道が分からなくなって、怖いよ一人で行くの寂しいよ、って思うのが普通だと思うさね。
そのときに、おんぶするんじゃなくて、提灯ですこし先を照らしながら一緒に歩くだけで、救われると思うのね。

そして、そういうところこそ、家族や介護者の出番なんだとおもう。
そういう意味でちゃんと「頼らせる」存在。一緒に歩いてるよ、と。

施設に入るなら入るで、施設に丸投げ!ではなくて、きちんと職員の対応や被介護者当人の扱いなんかをこまめに確認し。
施設にはもちろんある面で「お世話になる」のだけど、「施設の流儀に従ってお世話していただく」のではなく、こちらの手が足りないから、お金を払って補ってもらっている。○○さん介護チームのトップは施設ではなく、主介護者である、ということを被介護者を含めてみんなが理解している、という状況。

逆に、そういう介護者と被介護者の信頼関係がちゃんとしてれば、あとの具体的な枝葉の部分というのはあんま関係ないと思うんだよね。
目覚まし時計が壊れた、どうしようって言いたいだけなんだもん。本人にとっては大事件で、誰かに聞いてほしいんだもん。バスに飛び乗って持ってくのが正解じゃないし、なんというかそういう細かいところの積み重ねで被介護者がどんどん心細くなっていっている気がする。頼りがいがなくて、寂しくて。提灯があっちにふらふら、こっちにふらふら。もしかしたら私を置いて離れて行ってしまうかも。そう思って。


まぁ、言うのは簡単で実行するのは相手がいることだから難しいんだけども(笑)


「もう頼りがいのない生身の人間に頼らない」というのも、一つの解答。
宗教っていうのは、要は「神仏はすべてご存じである」「すべてのことは神仏のおぼしめし」そして「神仏にすがれば救われる」ということで、その辺の心細さ、頼りたいけど頼る相手がいない、という部分をカバーする、人間の素晴らしい発明品だと思うわけですが。
(人の心細さにつけこんで金品を回収する、頭のいい人が作り出した商売であるともいうかもしれない。ものの見方に依るな。

芯の強い人は、「誰にも頼らない」ことができるかもしれない。
でも、だんだん体が弱っていって、介護が必要になった時、精神的に誰にも頼りかからずにいられる人ってそんなに多くないと思うのね。
そういうときに、そっと寄り添う誰かがそばにいれば、「やばいねー道わかんないねー」って顔を見合わせることができるのであれば、それでいいんじゃないだろうか。

被介護者が「ねえ」といえば、介護者が「ん?」と必ず答える。そういう関係があれば、被介護者は自分を主張する必要が無いわけで。

間違っても、求めてるのは
被介護者「(黙ってたら居なくなっちゃうかも、、、)頭痛い、足痛い、つかれた、喉乾いた」
介護者「喉、のど、えっとあの、こ、コンビニ探してきますどこにあるかわかりませんけど(ダッシュ)!!」
被介護者「ちょ、おい、なんか一緒に居たくなさそうだったけど、逃げたんじゃないだろうか???」
って関係じゃないだろ、ってことだ。(笑)


まとまってない気もするけど、今の私の正直な気持ち。
コメント
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