水曜日の朝、いつもの勉強に入る前、ブラジルにいる9歳の男の子に聞いてみた
「今オリンピックをやってるのを知ってる?」
「知らない!」
朝から晩まで、ずっとテレビ放送があって大騒ぎしている日本とは
随分違うようだ(お姉ちゃんは知ってるだろうけど)
「オリンピックには魔物がいる」
つくづくそう実感する
それはあたかも運に振り回される勝負とか報われない努力とか
4年に一度という時間経過の残酷さとかの選手に関することではなくて
それ以外の点においてだ
今のオリンピックの姿(あるいは報道)は個人的には異常だと思う
メディアは「パンとサーカス」を連想とさせるような世間の空気づくりをしている
いくら自分が偏屈な人間でも、日本人選手がいい成績を収めれば
それなりの理由のはっきりしない高揚感は覚える
それはどうしようもない事実だ
その時は明らかに国という存在を自覚する
多分、これは個人的な思いではなく、どの国も人もそうだと想像できる
だからこそ国家は国威高揚にオリンピックを利用する
開会式で使われたジョン・レノンのイマジンが実現されないのは
皮肉だがオリンピックの現場だ
かつてはヒトラーのドイツがベルリンオリンピックを利用した
今話題となっているドーピング違反も一時期は
良い成績を得るために東ドイツが頻繁に行った
国は(ある組織は)目的のためにお金も悪知恵も絞り出す
自分にとっての「オリンピックの魔物」とはこのことだ
その被害者にフィギュアスケートのワリエワがいる
禁止薬物がどの様に使われたか、なぜ使われたのかの事実はまだわからない
だが使われたという現実は歴然と存在する
この15歳の少女は、そのために世界中の注目が注がれ
この数日精神的にしんどい時間を過ごした
(どんなに落ち込んだことだろう)
スポーツの成績にメンタルがどのくらい影響するか?
を今回ほど明らかにされたことはないかもしれない
少し変な言い方になるが、ワリエワがその精神状態を反映して
上手く演技できなかったということは、良かったと思う(というかホッとした)
もし彼女が何事もなかったかのようにいつもの完璧な演技ができたなら
その精神力に感嘆しても共感は覚えなかっただろう
人の心とか感情をもっていた、、と思わせる不出来は
「それでいいのだ!」とむしろ応援したくなる
スポーツの世界ではリベンジとか復活をテーマにドキュメンタリーが作られる
もし自分がドキュメンタリーをつくる立場にいたら、この選手ワリエワの
その後を追いかけてみたいと思う
最近の女子フィギュアスケートは競技生活のピークが低年齢化していて
15歳の彼女も直ぐに過去の人になってしまうかもしれない
だが成績として復活する姿ではなく、彼女がこの困難を自分の内面として
どう乗り切るか、、を知りたいと思う
高木さんのお姉ちゃんもパシュートでの転倒は
何時までもフラッシュバックのように頭によぎってくるだろう
残酷だが過去は変えられない
変えるのは自分の心、気の持ち方、、
時という不思議な存在がいつか、あの出来事も必然だった
と思えるような気持ちになれるかもしれない
それは自分を正当化する単なる都合の良い考え方かもしれないが
それでいいのだ、、と思う
ところで競技以外のオリンピックの魔物は、東京でも見られた
東京オリンピックは本当にいろんなケチがついた
まずは招致について賄賂が使われたのではないか?という疑い
国立競技場の建設がザハさんの案から変わらざるを得なくなったこと
大会運営費がとんでもなく膨張したこと
大会ポスターのパクリ疑惑
一番矛盾を覚えたのが「スポーツに最適の気候」と世界各国に嘘をついたこと
選手村の膨大な弁当破棄は、前大会から検討事項になっていたが
何も改善されなかったこと
コロナ禍で外出を控え、団体で行動しない様に求めらたにもかかわらず
聖火リレーではオリンピックスポンサーの喧しい宣伝カーとスタッフが先導して
「この時期にそうするか?」と思われたが、ニュースではそこは映さず
何もなかったかのように報道されたこと
媒体がオリンピックスポンサーになっているので、オリンピックの意義とか高揚感を
伝えることがあっても、反対する人々の声を伝えられなかったこと
そして最近の出来事としてはNHKの番組で「お金をもらってオリンピック反対のデモをしている」
と捏造された字幕を入れたこと
オリンピックは実態は一民間団体の主催するイベントに過ぎないが
その経済的影響力が余りにも肥大化したために
もはやコントロールできない様になっているのではないか
個人的にはオリンピックというよりアスリート同士の戦いは
その厳しさ故に、努力も含めて尊いと思う
だがそれがオリンピックという形でしかできないか?
といえば、今は一旦じっくりと考える時期になっていると思う
それにしても朝から晩までのオリンピック報道
これで本当にいいのだろうか?