パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「ばらまき」を読んで

2022年02月13日 09時42分09秒 | 

三島由紀夫の「天人五衰」を、やはり相性が悪いなと
イライラしながら読んでいたが
気分転換に河合案里氏の買収事件を扱った「ばらまき」
(中国新聞決別金権政治取材班)に移って一気読みした



なるほどタイトル通りの「ばらまき」だ
圧巻なのは裁判の証人としてお金を受け取った側の人間の証言が
これでもか!と言われるほど登場することで
それがあまりにも同じパターンで多いので、
こうした行為のほうが世の中では当たり前なのかと錯覚しそうになる
というより、実社会は表に見えないだけで、こうなっているのではないかとさえ思えてしまう
(先の選挙では新潟県の自民党の重鎮が裏金を要求した事件を思い出す)

これは法的な制度としてザル法に近い、結果的に有効性のないままの法律を
改良をしようとしない国会議員たちの狡さを思い知らされる
また「盗人にも三分の理」という言葉があるが
裁判といった言葉の上の戦いとか、個人の説明という機会では
なんとでも言いようがあるものだと怒りと絶望感を覚えてしまう

選挙の現場では狂気に近い空気が支配すると知らされたのが
「なぜ君は総理大臣になれないのか」と「香川一区」のドキュメンタリー映画だが
それは我が市が日本で初めて市長候補者による公開討論を条例化した「公開討論条例」が
実は如何に浮世離れしたものか、、と思い起こさせるものだ

政治は面倒なことに政策部門と権力闘争の部分がある
そのどちらを優先するかが問題だが、インテリ層とか意識高い系は政策部門を過大視する
ところがその政策を実現するための然るべき地位に立つための選挙は
おそらくは理性に訴える要素よりももっと別の力が支配する
それは一種の戦いの高揚感で、白黒がつくというだけで祭りのようなものだ
勝たなければ意味はない!
それが極論化されれば、わからないところで(言い訳ができれば)なんでもやってしまう
そうした気持ちになってしまうのが人というものだ

ところでこの本を読んでて不安になったのは、我が市の自民党の市議会議員は
党からそれなりの金額を寄付してもらっているのだろうか?という点
寄付があるとすればどのタイミングで、どんな意図を持って渡されるのか?

これらが日常化していれば自民党に所属する議員と
それ以外の議員の手元のお金は差が出てきてしまう
そして個人間の損得を考えると自民党に所属している方が圧倒的に得になる

どうも世の中はあるべき姿ばかりではない!ということを思い知らされるが
それでも冷笑したり、見て見ぬふりをするのは少しも良い方に進まない

この広島県の事件はお金をもらった人たちも選挙違反だが
当初、司法取引的な意味合いで(?)で起訴されなかったが
世間(世論)が受けとった側の責任も追求したので
起訴された人、起訴相当の人などと、
世間的な価値観からすれば当然と思われる状況にいたった

やはり常識的な声はあげるべきだ
それがデモという形になろうとも

それにしてもこの事件の一番の当人以外の中心人物は
まるで他人事のようにこの事件から距離をおいている
その表現がこの本にもあった
何でも彼のせいというのは違うかもしれないが
それで昨今の様々な問題は彼の責任臭うことが多い
その彼が選挙区では圧倒的に勝ち続けるという現実

世の中は難しい
でも少しづつでも良い方に進みますように


コメント
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