パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「熱情・敬意・言葉」

2022年02月05日 09時27分08秒 | あれこれ考えること

まだ頭に中にくすぶっているので、相性の良くない三島由紀夫関連の話題を

先日見た「三島由紀夫vs東大全共闘」の中で印象に残ったシーンがある
敵対する集団の中に乗り込んだ三島由紀夫
予想に反して言葉のバトルはお互いに敬意を払う形で行われた
だが会場の全員がそうばかりとは言えない
「三島をぶん殴れると思ったからここ(会場)に来た」
そう声をあげた人物もいた
確かに、そう思うのは無理もない
自分もいつか混乱を招くことになるのではないか
そんな不安を覚えながら見ていた

ところが、そこからの展開が意外だったというか感心した
壇上の全共闘のスタッフがそうした声を咎めたのだ
それは一歩間違えば内輪もめにもなりそうな、怒り方だった
瞬間的であったが極めてテンションの高い怒り方で
その後、その手の馬鹿な声は出なくなるようにさせるものだった

学歴社会を肯定するわけではないが、やはり東大に来るような人は頭がいい
(知り合いに東大出身の人がいるが、彼もどこか違う)
抽象的な概念を理解し言語化できるし、読んでいる本も普通とは違っていそう
「鉛筆はそこにあるだけでは形を持った物体に過ぎない
鉛筆はその機能をもって、名付けられて初めて役割をはたす」
と言ったような、そんなことを知って実世界にどう関係するのか?
と思われるような抽象的な話が、真面目に語られた
(それは社会との関係の中で語られたが)
そしてそのバトルは両陣営の頭のいい人の間では充実感をもたらすもののように思えた

このバトルの映像で明らかに今と異なるのはタバコだ
三島由紀夫も全共闘の連中もタバコを吸っている
まるでそれが自由の証のように
持参したタバコが切れて、どちらかが相手にタバコを融通したシーンがあったが
これはいいシーンだった

このドキュメンタリー映像を見て、不意に
「両陣営は共通の敵と戦っているのではないか」
との思いが頭に浮かんだ
ただ表現方法とか打開策の違いだけで、実際は同じ敵に向かっている
そんな根拠もない思いが頭に浮かんだ
その共通の敵とは、もしかしたら今の世界にも、
いや今の世界にこそ多く存在しそうな「無関心」に対する焦り
何かを感じること、意識されること、そしてそこにとどまらず行動につながること
うまく言えないが、そうしたものに対する怒りとか焦りがそこにあるのではないか

三島由紀夫の場合、彼の意識の中に天皇という存在は大きな意味を持つ
個人としての天皇と機構としてのそれは彼自身の中で消化できたのか
かれは学業が主席だった褒賞として高校時代に天皇から時計を受け取ることになった
その式の間、3時間も天皇はじっと動かず座っていたことが彼の記憶の中に深く刻まれた
これは当事者とか、そこにいた人しか実感できない内的な出来事だ

本を読むと印象は事断片的になるが、映像も同じだ
印象に残ったのはタバコ、身内に対する怒り、三島の時計のエピソード
そして共通の敵、、といった印象だ

このドキュメンタリーの最後に「熱情、敬意、言葉」の必要性が語られる
確かにあの会場に存在していたのはその3つだった

だが今の社会、それらが果たされる場所が存在するのだろうか
議論はまるで裁判のように白黒、勝ちか負けかだけを競うようになり
相手の言い分を少しでも認めることは、まるで即負けのように思ってしまう風潮
自分と同じ様に真面目に考えたり悩んでいるかもしれない他人に対する敬意の不足
それを生み出している文化の衰退
それは、ある人にとっては絶望に結びついてしまうかもしれない

不意に、昔よくわからなかった三島由紀夫の豊穣の海の最終本
「天人五衰」を読んでみようか、という気になった
今なら少し分かるかもしれない!と思いつつも
相変わらず相性が悪くて同意できないかもしれない
だが、読んで見る価値はありそうだ
今、「天人五衰」は本棚にひっそりと隠れている

ところで、アマゾンのAI機能を使っても最近の自分の購入歴から
「天人五衰」をお勧め本として提示されることは無いだろう
なんだか、それも嬉しいような気がしている


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする