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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

第九のシーズンだが

2016年12月24日 10時19分58秒 | 音楽

海外ではこのシーズンはチャイコフスキーのくるみ割り人形や
モーツァルトの歌劇「魔笛」が演奏されることが多いようだが
日本では圧倒的にベートーヴェンの第九 

音楽好きの立場からすると当然演奏会には行かなくても
CD・レコードで聴くのが普通なのだろうが
これがなかなか出来ない

この音楽はそんなに気楽に対面してはいけないような気がしている
気合が入って気分的にも盛り上がったときにしか
その音楽の深いところを感じ取ることが出来ない気がしてならない

確かにベートーヴェンの音楽は多少押し付けがましいところがある
それを感覚的に拒否しているのかもしれない
が、多分こちらのほうが本当の理由だと思うが、もうひとつの理由は
「聴いて感動しなかったら怖い」ということだ

聴いて感動しなかった怖い
これは以前にいつまでも記憶に残っている圧倒的な印象をもたらした
演奏を聴いてしまったからだ
それは音楽を聴いているという言葉では収まらない、まるで人生における
直接体験した事件のように感じられたからだ
明らかに聴く前と聴いた後の自分に変化が感じられるような 
そんなことを思わせる演奏だった

その演奏とは知る人ぞ知るフルトヴェングラーの
バイロイト祝祭管弦楽団による演奏
定番中の定番だ 

これを聴いた時の印象や感動が強すぎるため
新しく聴く演奏との比較でここが物足りないとか、ここが違う とか
ついつい言ってしまいそうで、その結果楽しめなくなりうそうというわけだ

第九の演奏は、もうあの演奏を聴いて心のなかに残っているだけで
一生分の経験はしたのかもしれない

あの演奏を聞聴いたのは若いときだった
それが今でも記憶に残っている
リヒターのバッハのマタイ受難曲でも同じ様な経験があった
音楽を聴いているのだが目前でキリストの受難を見ているような錯覚を覚え、
喉がかわいて仕方なかった

あれも若いときのこと
そう言えば最近はそんなに切実な体験のような演奏は耳にしていない
それは最近の演奏者の表現するものによるものか
それとも自分の感覚の鈍化のせいか、、

後者は認めたくないが、、、かも知れない

毒にも薬にもならない話!
 

コメント
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