パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

リコール署名中、気になる2冊

2016年02月01日 08時30分31秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市長リコールの署名活動をしていて
とても不思議な事がある
それは、署名していただけなかった方から
「頑張ってください」と声をかけていただけること
それも少ない数ではなく、心底感情を込めて言っていただける
(それがなぜかは、今は突き詰めないことにする) 

ところで、残念ながらバタついた精神状態なので
気張って購入した「新カラマーゾフの兄弟」の読書は
途中でストップしたままになっている
そのかわり、拾い読みしているのが写真の2冊

2冊とも観念的な抽象的な内容だが、最近の自分の周り状況を踏まえて読んでいくと
それは観念的なことではなく、すごく実情を反映しているように感じる

「権力と支配」 マックス・ウェーバー
まずはそれぞれの言葉の定義を明らかにする
そしてその形態をものすごく緻密な考察によって明らかにしていく
正直なところ難解な言葉が多くて閉口する部分も少なくない
でも今自分が一番関心のある
「何故、市の職員や、その関係者は
権力者の言葉に寄り添ってしまうのか?」
と言う疑問に置き換えると、何か答えがあるのではないかと思って読んでいる
権力者の言葉を信じる正統性(?)はどこから来るのか

こんなことを考えたところで、どうなるものでもないかもしれない
しかし、現実にこのようなことを真剣に考えた人がいた
と言う事実は重い

「ハンナ・アーレント」
本の帯にあるように彼女の一番危険視するのは思考停止
彼女の著作の熱心な読者ではないので、本当に意図することを
理解しているか?と言えば少し自信がないが
彼女はナチの壮絶な行為について、何故起きてしまったのか
と考えぬいている

この新書の著者(矢野久美子さん)から一部抜粋

アーレントの叙述を注意深く読むと、そこには行為者かつ受苦者としての
人間の選択のあり方、動き方が描かれている。別の可能性もありえた。
それなのにどうしてこの様な事態に至ってしまったのか
ということを考えさせる物語なのである(物語とは「全体主義の起源」のこと)
それは要素を明らかにすることによって、それらの要素が再び何らかの形で
全体主義への結晶化をしようとする時点で、人びとに思考と抵抗を促すような
理解の試みでもあった

権力による支配(支配されていると感じていないとしても)
そしてその中の個人としての判断
それが人としてあるべき形で行われているのか
人はどのように自分自身の判断を行うべきか
考えても仕方ない事かもしれないが、これが気になって仕方ない 

 

 



 

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