goo blog サービス終了のお知らせ 

Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

歌、唄、詩(12)

2025年04月14日 06時30分00秒 | Weblog
 《変型エディプス・コンプレックス》というのは、「パルジファル」の場合「母」は既に亡くなっているため、ライバルとしての「父」を亡き者にするという「(原)父の殺害」という動機(エスVS.伝承(2))が登場せず、むしろ(代理)「父」(=アンフォルタス)を救済するかのようなストーリーとなっているからである。 
 とはいえ、アンフォルタスは、殺害されはしないものの、「槍」のために負った傷/罪によって死を願うほどの苦しみに苛まれている。
 これが何を象徴しているかについては、1幕にヒントが出ている。

GURNEMANZ
Drum blieb es dem, nach dem ihr fragt, verwehrt,
Klingsorn – wie hart ihn Müh auch drob beschwert.
Jenseits im Tale war er eingesiedelt;
darüber hin liegt üpp'ges Heidenland: –
unkund blieb mir, was dorten er gesündigt;
doch wollt er büssen nun, ja – heilig werden.
Ohnmächtig, in sich selbst die Sünde zu ertöten,
an sich legt er die Frevlerhand,
die nun, dem Grale zugewandt,
verachtungsvoll des Hüter von sich stiess. 
グルネマンツ
ゆえに、今お前たちが尋ねているクリングゾルは、
どんなに苦労を重ねても、その道を見い出せなかったのだ。
遠方の谷の中に、あの者は隠遁してしまった。
その谷向こうに広がるのは、花咲き乱れる異教の地。
あの男がどんな罪を犯したのか、わしには分からない。
しかし、罪を償い・・・それどころか聖者になろうとしたのは確かじゃ。だが、自らのうちの罪を押し殺すことができないので、汚れきった手で、自分自身に手を下し、
聖杯を仰ぐ一方で、
軽蔑もあらわに、その守護者を拒絶したのだ。 

 クリングゾルは、「聖杯」の奇蹟の力に与るために、an sich legt er die Frevlerhand つまり、自らの男根を切り取り、去勢した。
 これが、エディプス・コンプレックスにおける「父から去勢される」恐怖を象徴していることは明らかだろう。
 対するアンフォルタスは、クリングゾルの行為は「不自然だ」というので「聖杯」騎士団への加入を拒んだのだが、そのアンフォルタス自身、美女の誘惑に負け、「快楽」のために「槍」をクリングゾルに奪われてしまう。
 このくだりからは、「去勢する父」が「去勢された父」へと、主体と客体の逆転が起っていることが分かる。
 アンフォルタス=「父」は、「快楽」の誘惑に負けたために去勢されたが、パルジファルは「快楽」には負けなかった。
 かくして、最終的にパルジファルは「去勢された父」にとって代わる(王位に就く)ので、結論的には「オイディプス王」と同じになる(「父殺し」は回避されるのだが・・・。)
 私は、ニーチェ先生の解釈よりも、この解釈の方がスッキリするように思う。
 ・・・という風に、かなり回り道をしたが、ワーグナーにおける「歌」(ないし音楽)と「詩」の関係については、トーマス・マンが見事な指摘を行っているので、引用したいと思う。

 「ヴァーグナーは詩人でもなければ音楽家でもなく、この両者の特質が他に類例を見ないような形で融合した第三のもの、すなわち未曽有の表現過程の基礎を詩的に築き、またそれを合理化する術を心得た劇場演劇神(テアータ―デイオニゾス)なのです。しかし、それにもかかわらず彼はやはり詩人でもあるとすれば、その場合、ヴァーグナーは現代的文化的文学的な意味における詩人、つまり精神により意識によって詩人なのではなく、それよりもはるかに敬虔な、もっと深い形において詩人であります。すなわち、民族の魂が彼の口から、彼を通して詩を歌っているのです。彼は単に民族の魂の口であり道具であるに過ぎず、ニーチェがいみじくも名付けた言葉を繰り返すなら「神の腹話術人形」にほかなりません。」(p137~138)

 そう、ワーグナーは、Volksgeist(民族の魂)から溢れ出る詩を歌う、「神の腹話術人形」であり、ここにおけるシニフィエは、(ドイツ)「民族の魂」である。
 これに対し、わが国では、政権与党の有力議員の中に「神武天皇のY染色体」を”シニフィエ”と同一視するかのような人がいるという、とんでもない状況である(【FactCheck】古屋圭司議員(自民)の「神武天皇と今上天皇は全く同じY染色体であることが、立証されている」は「根拠不明」)。
 なので、過去長き(私見では約半世紀)に亘って日本の民族精神の「神の腹話術人形」が現れておらず、今後数十年も現れそうにないとしても、やむを得ないのではないだろうか?
 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。