Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

生活と文化・文化財

2019年04月17日 08時20分29秒 | Weblog
ノートルダム「5年以内に再建」と仏大統領 各界から寄付880億円
日本文化私観 坂口安吾
 「見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々ごうごうと駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞はじることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

 これは、私が高校に入りたてのころ読んで、強烈な印象を抱いた文章だが、ノートルダム寺院の火事で思い出した。
 安吾の見解は、生活に根差していない文化財的なものは空虚であり、「焼けてしまって一向に困らぬ」というものである。
 安吾は、文化財そのものではなく、文化の源であり文化財を作り出す力を持った「生活」に重きを置いているからだ。

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