(3)屋島(第57回花影会)
「源氏と平氏は互いに弓を構え、船を組んで駒(馬)を並べて攻め合っていたところ、義経は何かの拍子で自身の弓を落としてしまい、弓は平氏側に流れてしまいます。義経は弓を取られまいと敵船の近くまで馬に乗りながら進んでいきます。平氏は好機と思い義経に熊手をひっかけて落馬させようとし、危機一髪な状態になりますが、なんとか熊手を切り払って弓を取り返して引き下がります。
家来の増尾十郎兼房は義経に対して、たとえ千金を延べて作った弓であったとしても命を危険にさらす行為は感心しない、と涙を流して諫めます。しかし義経は「弓が惜しかったのではない。私の武名はまだまだ知られておらず、弓を取られて義経は強弓を引けない弱い将だと思われることは無念なことだ。だからこそ取り返しにいったのだが、そこで討ち取られたら運が無かったということ。運が尽きていないなら敵に渡すまいと弓を取りに行った。この名は末代まで語られるのではないだろうか」というと、増尾十郎兼房やその他の武士たちは感涙を流すのでした。」
本曲は、観世流のみ「屋島」と題し、他流は全て「八島」と表記するらしい。
イヤホンガイドによれば、見どころは、
① 佐藤継信の最期、② 景清しころ引き、③ 那須与一、④ 義経弓流し、ということだが、社会学的・法学的観点から重要なのは、①と④だろう。
但し、①の「犠牲死」は既に「千本桜」などで取り上げたので、今回は④にフォーカスしてみる。
義経が落としたのは数十センチの「小弓」らしく、これが扇で表現される。
「そんなの取りに行って討ち取られたらダメじゃん」というのは現代人(及び増尾十郎兼房ら家来たち)の発想であり、義経はそのような発想とは無縁である。
「弓が惜しかったのではない。私の武名はまだまだ知られておらず、弓を取られて義経は強弓を引けない弱い将だと思われることは無念なことだ。だからこそ取り返しにいったのだが、そこで討ち取られたら運が無かったということ。運が尽きていないなら敵に渡すまいと弓を取りに行った。この名は末代まで語られるのではないだろうか」
と述べるとおり、義経は、「命」より「名」を重んじる思考に立つ。
「名」において「結果」は問われないので、殺されて負けても構わないことになる。
「智者は惑はず、勇者は恐れず」
「惜しむは名のため、惜しまぬは一命」
という義経のセリフは、「幡随院長兵衛」(5月のポトラッチ・カウント(2))の、
「俺が行かなきゃ男が立たねえ」
「恐れて逃げたと言われれば、仲間の恥」
「人は一代、名は末代」
「恐れて逃げたと言われれば、仲間の恥」
「人は一代、名は末代」
と共通の思考をあらわしたものである。
つまり、義経の「命」は絶えるとも、智者/勇者として弓を取りに行った彼の果敢さは、「名」として、「時間」を超越して残るというのである。
日本政治思想史 十七~十九世紀 渡辺 浩 著
「誇り、すなわち「名」の意識は、武士たちの士気と組織を支えるのにも有効だった。命を賭けて戦う者には、富や地位の約束だけでは足りない。死んでしまえば、それらに意味はないから。」(p35)
「誇り、すなわち「名」の意識は、武士たちの士気と組織を支えるのにも有効だった。命を賭けて戦う者には、富や地位の約束だけでは足りない。死んでしまえば、それらに意味はないから。」(p35)
ここで義経が、自身のイエの存続のことを考えているかどうかは分からない。
自分ではなく頼朝の子孫が残れば、「源氏」が自分の「名」を承継してくれると考えていたのかもしれない(「名は末代」)。
だが、能の中で、彼は結局「修羅道」に落ちてしまうのだが、作者は、「『名』に執着したこと」がその原因であることを示唆しているようだ。
数百年後、「徳川御静謐の世」になると、合戦そのものが殆ど無くなり、個人として「名」(武勲)を挙げる機会は激減してしまい、武士としては、せいぜい「イエ」がその名を維持する程度のことしか出来なくなってしまう。
つまり、ネガティヴな「名」である。
こうなると各藩(イエ)は、イエの「名」が傷つくことを恐れる余り、徳川家に唯々諾々として従うほかないこととなる。
まるで、「転勤・懲戒に怯えながら毎日を過ごすサラリーマン」のようだ。
・・・かくして、明治維新を迎えるまで、徳川家以外の全ての藩(イエ)が、義経とは違った意味で、「修羅道」に落ちてしまうのである。