「第1幕】裕福な独身老人ドン・パスクワーレは主治医マラテスタに花嫁探しを依頼した。実はパスクワーレの甥エルネストの親友でもあるマラテスタは、妹を薦める。エルネストの恋人ノリーナを自分の妹と偽ってパスクワーレと結婚させ辟易させて、逆にエルネストとの結婚を認めさせようという魂胆だ。エルネストが伯父の勧める結婚話を断ると、パスクワーレは自分が結婚して子を設けると宣言。エルネストは財産を相続してノリーナを迎える夢が破れ嘆く。」
ドニゼッティのオペラ・ブッファ。
「愛の妙薬」と同様、ドタバタ喜劇なので、歌舞伎や文楽と違って安心して観られる。
びっくりしたのは、歌手のパフォーマンスがハイレベルなこと。
声量も十分だし、演技力が抜群である。
マラテスタ役の上江隼人さんが、海外から招へいした歌手と互角以上の活躍を見せ、大きな拍手を受けていた。
さて、第一幕のあらすじから分かるように、ドン・パスクワーレは裕福な独身老人であり、70歳になるまで”結婚”という通過儀礼を経験せずに生きてきた。
これには、商人・手工業者の同業組合において結婚可能な地位に上り詰めるには相当長期を要するために男性の結婚年齢が高く、他方で女性側は持参金が要求されたという、当時の社会状況がある。
つまり、通過儀礼を経験すること自体が容易ではないのである。
そのドン・パスクワーレが、70歳になって「結婚して子どもをつくる」と宣言した。
推定相続人の甥:エルネストが、貧乏な未亡人:ノリーナと結婚しようとしているのを知って、エルネストには相続させたくないと思ったのである。
ドン・パスクワーレはエルネストらの計略に引っ掛かり、最終的にはエルネストの結婚を許すとともに、自身の結婚話は立ち消えとなる。
ちなみに、演出者のステファノ・ヴィツィオーリ氏は、ドン・パスクワーレを「このオペラの真の道徳的勝利者」だとしているが、全くそのとおりである。
「ジークフリート王子の誕生日を祝う宴の場、女王は翌日に催す舞踏会で花嫁を選び結婚するよう王子に命じる。王子は物思いに沈み、現実逃れのために夢に憩いを求める。そんな王子の前にロットバルトの邪悪な呪いにより白鳥に姿を変えられた娘オデットが現れる。すっかりとりこになり、呪いを解くには男性が彼女に永遠の愛を誓うしかないと知った王子はオデットを助ける約束をするのだが、花嫁選びの舞踏会に現れた白鳥に瓜ふたつのロットバルトの娘、オディールに心を奪われてしまい結婚を申し込んでしまう。自分の過ちに気づき深い絶望に苛まれる王子は湖の幻影で嘆くオデットに許しを求めるのだが...。」
ヌレエフ版「白鳥の湖」を通しで観るのは初めてだが、第一幕から唖然とするシーンの連続である。
まず、ジークフリート王子が椅子に座って夢想にふけっている姿で登場するのが意表を突く。
華やかな饗宴が催されているというのに、王子はひたすら憂愁に沈んでおり、ときどき「プイッ」と舞台の外に姿を消したりする(殆ど踊りもしない)。
王子が唯一関心を示しているのは、家庭教師:ヴォルフガングであり、王子が動くのは、だいたい彼の近くに行くときである。
ここまでの設定で分かるのは、この王室には「王」(ジークフリートの父)が存在しないこと=「父の不在」である。
王子がやたらとヴォルフガングに纏わり付くのは、精神分析的に言えば、「ヴォルフガングを父親にしたい=自分はその息子になりたい」という願望の現れと解することが出来る。
こう解釈すると、王子が、通過儀礼=「王」(父)になることに対して頑強に抵抗する理由が分かる。
また、ヴォルフガングの真の姿であるロットバルトの”娘”(実際は娘ではない)であるオデット=オディールに王子が惹かれる理由も容易に理解できる。
オデット=オディールと結婚することは、ヴォルフガング=ロットバルトの「息子」になることを意味するからである。
・・・こんな風に、王子は、通過儀礼=「父たる地位」に就くことを、「息子たる地位に就く」ことによって拒絶するのだが、これが失敗することは言うまでもない。
オデット=オディールは、実際はヴォルフガング=ロットバルトの娘ではないからである。