魔の山 (下)
「「・・・体の表面はこごえているが、動きまわったおかげで、体のなかには熱がたくわえられている。だから、ああ循環して(umkommen)、ヒュッテからヒュッテへぐるぐる回りはしたが、動きまわったのは全然むだではなかったのだ。・・・『循環する(umkommen)』とは、なんという言葉なんだろう?・・・」(p247)
ハンス・カストルプは、ひとりで山にスキーに出かけたものの、吹雪に見舞われ、しかも道に迷ってしまい、ぐるぐる回っていることに気づく。
(ちなみに、私はスキーでこういう経験をしたことはないけれども(これはまともに滑れないのが幸いしている)、山登りのとき、道に迷ったり途中で行き止まりに気づいたりして途方に暮れる経験ならときどきしている。)。
この「第6章」の「雪」は、作者自身が「最も重要な部分」と呼んでいる。
したがって、ここのメタファーないしアレゴリーを理解できるかどうかが、この長い小説における読解のかなめと言えるだろう。
もちろん、小説の解釈に正解などあるわけないのだが、私見では、このくだりには、作者によるフロイト批判&パロディー(これは上巻の時点ではっきりと出ている)と、ニーチェに対するオマージュが秘められていると解する。
それにしても、こういう長編小説は、十代の時に読むべきではないと痛感する。
私も十代後半で「カラマーゾフの兄弟」を読んだけれど、おそらくドス(ドストエフスキーの愛称)からの重要なメッセージには、殆ど気付かないままスルーしたのではないだろうか?
かといって、これから再読するにはなかなか時間がとれないし、また、「循環する」?ようで気が進まない。
長編小説を読むのが難しいのは、学生時代に読むと誤読や空回りが多いし、社会人になると、今度は読むための時間が乏しくなってしまうからなのだ。
「「・・・体の表面はこごえているが、動きまわったおかげで、体のなかには熱がたくわえられている。だから、ああ循環して(umkommen)、ヒュッテからヒュッテへぐるぐる回りはしたが、動きまわったのは全然むだではなかったのだ。・・・『循環する(umkommen)』とは、なんという言葉なんだろう?・・・」(p247)
ハンス・カストルプは、ひとりで山にスキーに出かけたものの、吹雪に見舞われ、しかも道に迷ってしまい、ぐるぐる回っていることに気づく。
(ちなみに、私はスキーでこういう経験をしたことはないけれども(これはまともに滑れないのが幸いしている)、山登りのとき、道に迷ったり途中で行き止まりに気づいたりして途方に暮れる経験ならときどきしている。)。
この「第6章」の「雪」は、作者自身が「最も重要な部分」と呼んでいる。
したがって、ここのメタファーないしアレゴリーを理解できるかどうかが、この長い小説における読解のかなめと言えるだろう。
もちろん、小説の解釈に正解などあるわけないのだが、私見では、このくだりには、作者によるフロイト批判&パロディー(これは上巻の時点ではっきりと出ている)と、ニーチェに対するオマージュが秘められていると解する。
それにしても、こういう長編小説は、十代の時に読むべきではないと痛感する。
私も十代後半で「カラマーゾフの兄弟」を読んだけれど、おそらくドス(ドストエフスキーの愛称)からの重要なメッセージには、殆ど気付かないままスルーしたのではないだろうか?
かといって、これから再読するにはなかなか時間がとれないし、また、「循環する」?ようで気が進まない。
長編小説を読むのが難しいのは、学生時代に読むと誤読や空回りが多いし、社会人になると、今度は読むための時間が乏しくなってしまうからなのだ。