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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(刈萱道心と石童丸②)

2011年01月07日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(刈萱道心と石童丸②)

石童丸は泣く山を下りてみれば
麓でしきりに烏が鳴いている。

不思議に思いつゝ家に帰ってみれば
哀れや母は病の為に亡くなっていた。

止むなく一人の姉をたよりに
筑前に帰ったが、
その姉もこの世を去って
四十九日目であった。

「何たることか」

そこで石童丸は愈々無常を痛感し
遂に意を決し、
自分も父のみあとを慕って
出家しようと
母の遺骨を背に
再び高野の峰を尋ねて
登山した。

再び登山して来た我子の姿に驚き
一切を聞かされた刈萱道心は

「何、母が死に姉も死んだのか」

と思わず知らずホロ-と
一滴の涙をおとした。
この一滴の涙が
彼の十四年間の難行を
もとの木阿弥にしてしまった
という話は余りにも有名なことである。

山にこもって妻子を遠ざけ、
見ざる、聞かざる、言わざるまで
は出来ても、
思わざるだけは
どうしようもなかったのである。

刈萱道心はやむなく
親子の名のりをしないまま弟子とし、
道念と名ずけた。
 
やがて、成人した石堂丸・道念を
みとどけた刈萱道心は、
断ち切れない親子の情愛を
捨てて修行するために
石堂丸に告げず信州善光寺に赴き、
修行を続けた刈萱道心は
1214年に83歳でなくなった。
 
刈萱道心が亡くなった後、
石堂丸・道念は
善光寺に赴いている。

花びらが落ちたのを見て
仏道修行に身を投じた刈萱道心。
肉身が死んだのを縁に
仏門に入った石堂丸。

無常を観ずることが
菩提心の一(はじめ)なりと
である。


人間の実相を語る歴史人(刈萱道心と石童丸)

2011年01月06日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(刈萱道心と石童丸)

加藤左衛門繁氏が真言宗の僧となり、
刈萱道心と名のった。

彼が家を出た時、
妻の千里に一子が宿っていた。
後の石童丸である。

大きくなった石童丸が

「なぜ僕には父様がないの」

としきりに尋ねるので
千里は遂に一部始終を打ち明けた。
 
聞くより早く石童丸は
父恋しい心が燃え上り
母と共に高野山に向った。

しかし、高野山は
女人結界の地なので
母は登れなかった。

麓で別れる時

「お前の父上は人よりも背が高く
 左の眉毛にホクロのあるお方だよ」

と母は教えた。
それをたよりに石童丸は
高野山の峰や谷の寺々を
くまなく尋ね歩いたが、
父上らしい僧に出会うことは
出来なかった。

或る日一つの橋を渡ろうとした時
左手に花を持ち右手に
念珠を持って
南無遍照金剛を唱えながら
刈萱道心が下って来た。

何となく父上でなかろうかと
石童丸は駆けよって、
その名を尋ねた。

道心は不審に思ってよく見れば、
その顔は妻と生き写しではないか。

そのうえ所持する短刀は
正しく自分がかって
持っていたものではないか。

「おゝお前は我子石童丸ではないか」

とあわや名のらんとした時、
一切の恩愛を断ち切れと説く
きびしい真言宗の教を
思い出し、今、名のれば
今迄の十四年間の苦行は水の泡、
声なき声にいましまられ、

「そなたの尋ねている
 刈萱道心は去年の秋に
 亡くなられた」

と心を鬼にして言い切った。

一瞬泣きくずれた石童丸が

「せめてお墓なりとも」

とたのむので道心は
仕方なく一つの新しい墓前に
連れていった。

紅葉の様な両手を合わせ
ジッ-と墓を見つめていた石童丸は、
やがてワッと泣き伏した。
道心は張りさける思いに
堪えながら漸く下山させたが、
我子の影がみえなくなると
同時にその場に打ち倒れた。



人間の実相を語る歴史人(刈萱道心 一片の花びらが落ちたのを見て出家)

2011年01月05日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(刈萱道心 一片の花びらが落ちたのを見て出家)

浪曲で有名な刈萱道心。
彼がなぜ、仏法を聞くようになったのか。
我々も学ぶところがある。

彼は加藤左衛門繁氏といって
筑前、筑後、肥前、大隅、薩摩の
六ケ国の探題であった。
今の大宰府に住んでいた。

或日、箱崎の桜見物に出かけた。
箱崎は九州では有名は桜の名所である。
桜花爛漫と咲き誇っている下で
酒と踊りに興じた。
この世の春を感じていたのだ。

ところが酒宴中、風が吹き、
桜花の一片が並々と
酒がつがれた盃の中に落ちた。

彼は血の引く思いがした。
一片の花びらが自分の将来を
予言しているように
感じたからである。

今は若く、金や財産、地位や名誉にも
恵まれている。
満開の桜のようだ。

しかし、三日見ぬ間の桜かなで
今晩、無常の嵐が吹いてきたらどうなるのか。
そう思うと、今の幸せが色あせてしまう。
酒宴も興ざめしてしまった繁氏は
途中で切り上げ帰宅した。、

家来達は急に主人が機嫌を悪くした理由が
見当たらなかった。
そこで妻の千里と妾の須磨に頼み
琴を弾いて、慰めてもらおうとしたのだ。

桜の散りゆく姿を見て
痛く無常を感じて帰還した繁氏。

妻の千里と妾の須磨は
琴を合奏して慰めた。

繁氏が用をたしに部屋を出た時、
表面は仲良さそうにしている二人だが、
障子に映った彼女達の頭髪が
大蛇となって噛み合っている
すさまじさを見て、
このように人を大蛇にする
原因は皆自分にあると
罪悪深重に驚いた。

「こんな罪悪をつくりどうしの私が、
 一息切れたその後生はどうなるのか。
 一大事に違いない」

そう思うともうジッとしては
おれなかった。

その夜、そっと家を出て、
遂に高野山に入り真言宗の僧となり
刈萱道心と名のったのだ。





人間の実相を語る歴史人(四馬の譬喩)

2011年01月04日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(四馬の譬喩)

死の影に感動する人々を
区別して釈尊は
四馬の譬喩を説かれている。

1:鞭影を見て驚く馬。
2:鞭、毛にふれて驚く馬。
3:鞭、肉にあたって驚く馬。
4:鞭骨にこたえて驚く馬。

の四種である。

第一の鞭影を見て驚く馬とは、
落花や火葬場より
立ち登る煙を眺めて、
やがて我身にも
襲いかかって来るであろう
死に驚く人をいい

「鳥辺山、昨日の煙、
   今日も立つ
    眺めて通る人も何時まで」

と感じとる人である。

第二の毛に鞭があたって驚く馬とは
葬式の行列や霊柩車を見て
我身の一大事に驚く人。 

第三の鞭が肉にあたって驚く馬とは
隣家の葬式や眼前の無常を
見て驚く人をいう。
 
第四の骨にこたえて驚く馬とは
肉親を失って自分の一大事に
驚く人を喩えられた。

我々の周囲には
如何に多くの白骨が
散らばっていることだろう。

否々我々は、ただ独り
白骨の昿野にポツネンと
立っているのではないか。

見渡す限りこれ白骨の原ではないか。

しかるに麻痺し切った
我々の奴根性は
一向に驚く気配もないのは
一体どうしたことであろうか。




人間の実相を語る歴史人(白骨を発見して驚く)

2011年01月03日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(白骨を発見して驚く)

白骨を発見して驚いたというのは
我々が日常生活に於いて
他人の死を見たり
聞いたりしたときの
感動を喩えたものである。

死ということは我々の驚きである。
だから四十円というのを嫌って
ヨン十円という。

道で葬式や霊柩車に出遇うと
引き返す神経質な人がある。

死というとゾーとする人がある。
葬式を見ると頭痛がする
という人もある。
死をおそれるのは生物の本能である。

仏教は死ぬことばかりを
説くから嫌いだという人があるが
それは完全な誤解だ。
我々は本当に死を嫌い
死にたくないからこそ
仏法を聞き求めるのだ
ということを知らない人だ。

死ぬのがおそろしくない
ようになれば気狂いである。
仏法を聞きたいと思う心は
命が欲しい、死にたくない
という願いである。

越後の良寛のところへ
ある時八十才になる老人が
命請いにやって来た。

「私は今年八十才になりましたが、
 まだやってゆきたい仕事もあり
 色々と心残りがございますので、
 もう少し長命が致したい。
 そこで和尚さんは非常な
御高徳な御方ですから
 一つ長命の御祈祷を
 お願いしたいと思って
 参上しました」

すると良寛

「ハイハイさようか、
 一体何才位まで
 長生きしたいのじゃナー
 それが判らぬと
 御祈祷したくても出来ない」

「実は私はまだ長命が
 したいだけで別に
 何才迄とは考えていませんが
 九十才ではあと十年しか
 ございませんから
 百才までお願いできないでしょうか」

「百才ですか、あと二十年ですよ。
 百一才になればお迎えが
 来ますがそれで御得心か」

「じゃもっとお願い出来ましょうか」

「遠慮せずに一体何才まで
 長命したいのか言うてみなさい」

「ハイでは百五十才の
 ところをお願いします」

「じゃ百五十才でよろしいかな」

と良寛和尚、
念を押されると老人狼狽して
次第に長命祈祷をせり上げてきた。

良寛さん可笑しさを忍えて

「どうじゃ一層のこと
 無量寿の祈祷してはどうじゃナー」

「えー死なぬ御祈祷がございますか、
 じゃ左様お願い致します」

と言ったそうだ
がこれが我々の本音であろう。




人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉の最期)

2011年01月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉の最期)
 
豊臣秀吉の子、秀頼がわずか4歳で
元服式を行なっている。
 
徳川家康や前田利家など宿老が
居並んでいる中で
秀吉も皆の前で威厳を誇示していたが、
話している途中で
秀吉の足元に水がしたたる。
秀吉が失禁したのである。
いまで言う、認知症が始まったのだ。

その場は、前田利家が

「秀頼様、そそうをしてはいけませんよ」

と機転を利かせて、事なきを得るが。

そこから死に至るまで、
秀吉の正気と痴呆が入り交ざった言動は
周りの目にもあわれだった。

そして、伏見城で秀吉は最期を迎える。

日本国の統一だけでは飽き足らず、
明(中国)や朝鮮まで出兵した
太閤秀吉にも、寿命が近づきつつあった。

死に臨み、秀吉の心配はひとつ、
幼い跡取りの秀頼(6歳)のことであった。

生涯をとじる13日前に書いた遺言状は
次のごとくであった。

「五人の大老たちよ。
 秀頼のことを、くれぐれも、
 たのみまいらせる。
 たのむ。たのむ。
 自分はまもなく死ぬるが、
 まことに、名残りおしいことじゃ。
 秀頼が大きくなり、
 立派に豊臣家のあるじとなるよう、
 たのみまいらせる。
 このほかに、おもいのこすことはない。
   八月五日    秀吉
 いえやす(家康)
 ちくぜん(利家)
 てるもと(輝元)
 かげかつ(景勝)
 ひでいえ(秀家)
 まいる」

その後、意識の混濁した秀吉の
耳元に淀君が囁く。

「市である茶々が産んだ子は
 豊臣の世継ぎではなく、
 織田家の世継ぎである。
 早よう逝きなされ。猿」

そして、秀吉は悶え苦しみ、
狂い、壮絶な最期をとげたのである。

「おごらざるものも久しからず、
 露と落ち露と消えぬるわが身かな
 浪花(なにわ)のことは夢のまた夢」

時は、慶長3年(1598年)8月18日。
ここに、怒涛渦巻く戦国時代を
トップまで上り詰めた豊臣秀吉が、
62年の生涯に幕を閉じたのである。