歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉の最期)

2011年01月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉の最期)
 
豊臣秀吉の子、秀頼がわずか4歳で
元服式を行なっている。
 
徳川家康や前田利家など宿老が
居並んでいる中で
秀吉も皆の前で威厳を誇示していたが、
話している途中で
秀吉の足元に水がしたたる。
秀吉が失禁したのである。
いまで言う、認知症が始まったのだ。

その場は、前田利家が

「秀頼様、そそうをしてはいけませんよ」

と機転を利かせて、事なきを得るが。

そこから死に至るまで、
秀吉の正気と痴呆が入り交ざった言動は
周りの目にもあわれだった。

そして、伏見城で秀吉は最期を迎える。

日本国の統一だけでは飽き足らず、
明(中国)や朝鮮まで出兵した
太閤秀吉にも、寿命が近づきつつあった。

死に臨み、秀吉の心配はひとつ、
幼い跡取りの秀頼(6歳)のことであった。

生涯をとじる13日前に書いた遺言状は
次のごとくであった。

「五人の大老たちよ。
 秀頼のことを、くれぐれも、
 たのみまいらせる。
 たのむ。たのむ。
 自分はまもなく死ぬるが、
 まことに、名残りおしいことじゃ。
 秀頼が大きくなり、
 立派に豊臣家のあるじとなるよう、
 たのみまいらせる。
 このほかに、おもいのこすことはない。
   八月五日    秀吉
 いえやす(家康)
 ちくぜん(利家)
 てるもと(輝元)
 かげかつ(景勝)
 ひでいえ(秀家)
 まいる」

その後、意識の混濁した秀吉の
耳元に淀君が囁く。

「市である茶々が産んだ子は
 豊臣の世継ぎではなく、
 織田家の世継ぎである。
 早よう逝きなされ。猿」

そして、秀吉は悶え苦しみ、
狂い、壮絶な最期をとげたのである。

「おごらざるものも久しからず、
 露と落ち露と消えぬるわが身かな
 浪花(なにわ)のことは夢のまた夢」

時は、慶長3年(1598年)8月18日。
ここに、怒涛渦巻く戦国時代を
トップまで上り詰めた豊臣秀吉が、
62年の生涯に幕を閉じたのである。





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