人間の実相を語る歴史人(風邪でこの世を去った谷風)
谷風は力量だけでなく
人間的にも立派で品格抜群である。
そのため、谷風は歴代横綱の第一人者とされ、
実質的な初代横綱として
横綱の模範とされる大横綱である。
また、天下無双の大横綱に
ふさわしい実績から
四股名「谷風」は止め名になっている。
連勝を止められたその後も
小野川との対戦は
興行が札止めになっても
観客が詰めかける話題の取組となった。
ちなみに対戦成績は谷風の
6勝3敗2分2預3無勝負であった。
体格は、全盛時代で身長189センチ、
体重169キロのアンコ型巨人で、
足袋の中に白米が
一升五合入ったと伝わる。
また谷風の末裔の家に保管されている
大腿骨が約48センチあり、
大腿骨は法医学的に
およそ身長の4分の1と言われ、
4倍すると192センチになり、
言い伝えられている身長が
決して誇張でない証拠である。
怪力でも知られ数々の逸話が残されている。
負けず嫌いで物言いを多く付けたという。
興行で、病気の母親を抱える相手に
わざと負け懸賞を与えるという
八百長のような相撲をやったが、
江戸っ子の喝さいを
浴びたという講談もある。
事実ではないらしいが、
当時の江戸での「人情相撲」に
対する考え方を窺わせる話である。
1789年(寛政元年)11月、
小野川(才助)とともに
吉田司家吉田追風から
横綱を免許される。
この時が実質の横綱制度の
発祥とする見方が、現在では定説である。
征夷大将軍徳川家斉観戦の
寛政3年(1791年)6月11日、
小野川喜三郎と上覧相撲をおこなう。
またこのとき将軍家より弓を賜り、
これを手に土俵上で舞って
みせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
また天明4年(1784年)、
江戸相撲の浦風林右エ門に見出され、
江戸に来た雷電爲右エ門を預り弟子とし、
鍛え上げた。
小野川喜三郎や後続の雷電爲右エ門らとともに、
寛政に最初の相撲黄金時代を築いた。
上述の横綱制度や、
弓取式など現在までのこる
相撲界の形式の多くが
この時代に形作られた。
インフルエンザの流行のために
44歳で35連勝のまま現役死した。
このことから、風邪のことを
「タニカゼ」と
呼ぶようになったと伝えられているが、
正しくは、谷風が
「土俵上で儂を倒すことはできない。
倒れているのを見たければ
儂が風邪にかかった時に来い」
と語った時(天明4年頃)に
流行っていた流感を
「タニカゼ」と呼んだものである。
死因となった流感は
「御猪狩風」と呼ばれていたが、
後に「タニカゼ」と
混同されるようになった。
谷風は力量だけでなく
人間的にも立派で品格抜群である。
そのため、谷風は歴代横綱の第一人者とされ、
実質的な初代横綱として
横綱の模範とされる大横綱である。
また、天下無双の大横綱に
ふさわしい実績から
四股名「谷風」は止め名になっている。
連勝を止められたその後も
小野川との対戦は
興行が札止めになっても
観客が詰めかける話題の取組となった。
ちなみに対戦成績は谷風の
6勝3敗2分2預3無勝負であった。
体格は、全盛時代で身長189センチ、
体重169キロのアンコ型巨人で、
足袋の中に白米が
一升五合入ったと伝わる。
また谷風の末裔の家に保管されている
大腿骨が約48センチあり、
大腿骨は法医学的に
およそ身長の4分の1と言われ、
4倍すると192センチになり、
言い伝えられている身長が
決して誇張でない証拠である。
怪力でも知られ数々の逸話が残されている。
負けず嫌いで物言いを多く付けたという。
興行で、病気の母親を抱える相手に
わざと負け懸賞を与えるという
八百長のような相撲をやったが、
江戸っ子の喝さいを
浴びたという講談もある。
事実ではないらしいが、
当時の江戸での「人情相撲」に
対する考え方を窺わせる話である。
1789年(寛政元年)11月、
小野川(才助)とともに
吉田司家吉田追風から
横綱を免許される。
この時が実質の横綱制度の
発祥とする見方が、現在では定説である。
征夷大将軍徳川家斉観戦の
寛政3年(1791年)6月11日、
小野川喜三郎と上覧相撲をおこなう。
またこのとき将軍家より弓を賜り、
これを手に土俵上で舞って
みせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
また天明4年(1784年)、
江戸相撲の浦風林右エ門に見出され、
江戸に来た雷電爲右エ門を預り弟子とし、
鍛え上げた。
小野川喜三郎や後続の雷電爲右エ門らとともに、
寛政に最初の相撲黄金時代を築いた。
上述の横綱制度や、
弓取式など現在までのこる
相撲界の形式の多くが
この時代に形作られた。
インフルエンザの流行のために
44歳で35連勝のまま現役死した。
このことから、風邪のことを
「タニカゼ」と
呼ぶようになったと伝えられているが、
正しくは、谷風が
「土俵上で儂を倒すことはできない。
倒れているのを見たければ
儂が風邪にかかった時に来い」
と語った時(天明4年頃)に
流行っていた流感を
「タニカゼ」と呼んだものである。
死因となった流感は
「御猪狩風」と呼ばれていたが、
後に「タニカゼ」と
混同されるようになった。