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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(風邪でこの世を去った谷風)

2011年01月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(風邪でこの世を去った谷風)

谷風は力量だけでなく
人間的にも立派で品格抜群である。

そのため、谷風は歴代横綱の第一人者とされ、
実質的な初代横綱として
横綱の模範とされる大横綱である。

また、天下無双の大横綱に
ふさわしい実績から
四股名「谷風」は止め名になっている。

連勝を止められたその後も
小野川との対戦は
興行が札止めになっても
観客が詰めかける話題の取組となった。

ちなみに対戦成績は谷風の
6勝3敗2分2預3無勝負であった。

体格は、全盛時代で身長189センチ、
体重169キロのアンコ型巨人で、
足袋の中に白米が
一升五合入ったと伝わる。

また谷風の末裔の家に保管されている
大腿骨が約48センチあり、
大腿骨は法医学的に
およそ身長の4分の1と言われ、
4倍すると192センチになり、
言い伝えられている身長が
決して誇張でない証拠である。

怪力でも知られ数々の逸話が残されている。

負けず嫌いで物言いを多く付けたという。
興行で、病気の母親を抱える相手に
わざと負け懸賞を与えるという
八百長のような相撲をやったが、
江戸っ子の喝さいを
浴びたという講談もある。

事実ではないらしいが、
当時の江戸での「人情相撲」に
対する考え方を窺わせる話である。

1789年(寛政元年)11月、
小野川(才助)とともに
吉田司家吉田追風から
横綱を免許される。

この時が実質の横綱制度の
発祥とする見方が、現在では定説である。
征夷大将軍徳川家斉観戦の
寛政3年(1791年)6月11日、
小野川喜三郎と上覧相撲をおこなう。

またこのとき将軍家より弓を賜り、
これを手に土俵上で舞って
みせたのが現在の弓取式の始まりとされる。

また天明4年(1784年)、
江戸相撲の浦風林右エ門に見出され、
江戸に来た雷電爲右エ門を預り弟子とし、
鍛え上げた。

小野川喜三郎や後続の雷電爲右エ門らとともに、
寛政に最初の相撲黄金時代を築いた。

上述の横綱制度や、
弓取式など現在までのこる
相撲界の形式の多くが
この時代に形作られた。

インフルエンザの流行のために
44歳で35連勝のまま現役死した。

このことから、風邪のことを
「タニカゼ」と
呼ぶようになったと伝えられているが、
正しくは、谷風が

「土俵上で儂を倒すことはできない。
 倒れているのを見たければ
 儂が風邪にかかった時に来い」

と語った時(天明4年頃)に
流行っていた流感を
「タニカゼ」と呼んだものである。

死因となった流感は
「御猪狩風」と呼ばれていたが、
後に「タニカゼ」と
混同されるようになった。




人間の実相を語る歴史人(谷風 「天下無敵」の大横綱)

2011年01月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(谷風 「天下無敵」の大横綱)

谷風 梶之助は、寛延3年(1750年)に
仙台市に生まれた大相撲力士である。

第4代横綱。実質的な初代横綱。
江戸時代の大横綱で、
大相撲史上屈指の強豪。
また、力量・人格の面で
後の横綱の模範とされた。

1769年(明和6年)4月場所、
看板大関として初土俵。
しかしこれをよしとせず
1770年(明和7年)11月場所、
前頭筆頭から再スタートを切る。

1778年(安永7年)3月場所初日から
1782年(天明2年)2月場所7日目まで
分・預・休をはさみながらではあるが、
江戸本場所で土つかずの63連勝。
さらにその敗北の後に43連勝を記録。

のち昭和の時代に
双葉山が69連勝を達成するまで、
約150年にわたって
記録保持者であり続け、
平成になって白鵬が並ぶも
抜くことはできなかった。

もっとも、この63連勝は
江戸本場所のみの連勝記録であり、
京都本場所、大坂本場所での
成績も含めると98連勝となる。

幕末頃までは江戸、京都、大阪の
レベルはそれほど差がなかったものの、
一般的に連勝記録は
江戸本場所のみの63連勝を指す。

しかし江戸本場所、
京都本場所、大坂本場所まで
含めた連勝記録である98連勝は
最多連勝記録であり、
いまだに破られていない。

江戸本場所における通算成績は
49場所258勝14敗16分16預5無勝負112休で
勝率9割4分9厘。

優勝相当21回で、
現在の年6場所制で大横綱とよばれる
貴乃花(優勝22回)、北の湖(優勝24回) 等の
優勝回数に比肩する優勝回数を、
現在の3分の1しかない
年2場所制で達成した。

さらに、優勝20回以上、
50連勝以上、
通算勝率9割以上を
達成したのは
大相撲の長い歴史の中で
谷風だけである。

以上のように、
谷風は「天下無敵」の名に
ふさわしい記録を残している。


人間の実相を語る歴史人(実業家力道山の最後の哀れな姿)

2011年01月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(実業家力道山の最後の哀れな姿)

力道山の才能はプロレスの興行成功だけには
終わらなかった。

実業家としても成功し、
赤坂に自らの住居も兼ねた
高級アパートのリキ・アパート、
ナイトクラブのクラブ・リキ、
さらに「リキマンション」と名づけた
マンションの奔りである
高級賃貸住宅を建てた。

渋谷には「リキ・スポーツパレス」という
地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、
その中には「リキトルコ」やビリヤード場、
ボウリング場などを併設した
「リキレストラン」を建設した。
ボクシングジム経営にも進出している。

死の少し前には、相模湖畔に、
自動車レース場・射撃場・室内スケートリンク
モーテル等レジャー施設を併設した
大規模なゴルフ場、
「レイクサイド・カントリークラブ」
の建設を始めていた。

広大な土地を購入し、会員権を販売し、
一部工事にも取りかかったが、
死去により未完に終わった。

跡地は売却されて、現在、
さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト
となっている。

また、三浦半島の油壺にも8000坪の土地を
購入しており、
家族で楽しめるマリンリゾートの
建設を計画していた。

彼が長生きをしておれば
どんな大会社を興隆させていたか。
しかし、その栄光も一瞬で消え去った。

力道山の妻敬子さんは、
警察署長の娘で日本航空の
スチュワーデス
(キャビンアテンダント)だった。
力道山の人気絶頂のさなか、
知人の紹介で知り合い、
ホテルオータニで出席者3000人という
破格の披露宴で祝福され、結婚した。

その幸福絶頂だった束の間。
結婚して半年後、殺傷事件がおきるのだ。

敬子夫人は手術室は入る力道山の
様子を述懐している。

手術室へ運ばれる時、

「敬子、先生に言っておけ。
 どんなに金がかかっても、
 どんな薬を使ってもいいから。
 死にたくないんだ、
 最善の治療をするように
 先生にお願いしておけよ」

と言った。

麻酔が効いてきたのか、
段々うわ言になってゆく。

ストレッチャーで運ばれていく
主人力道山のの手を握りながら、
敬子夫人が

「わかりました、大丈夫ですよ」

と励ますと

グローブのような大きな手を合わせ、
大粒の涙を流しながら、慟哭した。

「おれは死にたくない」

それが力道山の最期の言葉だった。

戦後日本のスーパーヒーローとして
栄華をきわめ、
これから事業家としての
後半生の計画を練り上げている最中に、
自らを襲った不幸。

力道山の「慟哭」とは、

「俺は死にたくない」

という叫びで
あったのだろうか。



人間の実相を語る歴史人(力道山 殺傷事件)

2011年01月14日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(力道山 殺傷事件)

昭和38年、午後10時30分に、
遊興中の赤坂のナイトクラブ
「ニューラテンクォーター」で、
住吉一家傘下の大日本興業
構成員であった村田勝志が
女性と話していた力道山の
横を通り掛る際、
力道山が「足を踏まれた」と、
後ろから村田の襟首をつかんだ。

彼は踏んでいなかったので、

「踏んだ覚えはない」

と反論するが、
口論となり、

「あんたみたいな図体の男が
 そんなところに立っていたら
 ぶつかって当然」

と言い放つ。

この時、村田は懐中に手をやる。
それを見て力道山が

「わかった。仲直りしよう」

と言い出すが、
それに対し彼は

「こんな事されて俺の立場がない」

と仲直りを拒否。

和解を諦めた力道山が
彼の顎を拳で突き飛ばす。
彼は吹き飛んで壁に激突し、
顎がガクガクになった。

さらに力道山は彼の上に馬乗りになり
激しく殴打する。
彼は

「殺される」

と思い、
ナイフを抜いて下から
左下腹部を刺した。
ナイフの刃は根元まで刺さったが、
出血は衣服の上に
染み出ていなかったという。

1日目は応急手当を受け帰宅。
村田とは内内の話にするため
手打ちの契約を行う。

2日目に症状が悪化したため入院、
外科医に山王病院へ来てもらい
30針縫う手術を受け成功。

山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、
力道山がここを選んだのは、
話を大きくしないため
親しい医者のいる病院にしたという。

7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に
午後2時30分再手術。

これも成功したと報告するが、
その約6時間後、
午後の9時過ぎに死亡した。

なお、死因は筋弛緩剤注射した後に
気管内チューブの気管挿管を失敗し
窒息したという医療事故のためと
言われている。

不死身の強靭な肉体を持った力道山も
無常の嵐には勝てなかった。

彼の死因には色々な憶測がでた。

腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで
回復していたが、
元々が力士出身であるため、
食欲が非常に旺盛であった。
腹膜炎を患っている期間は
食事は勿論のこと、
水の服用も厳しく制限される。

大量の酒を毎日当たり前のように
飲んでいた彼は、空腹に耐えきれず、
付き人に行きつけの寿司屋に
寿司を注文するように命令し、
ついでに酒も買わせた。

届けられた寿司と酒を飲食して
空腹感のを抑えた彼であったが、
寿司は生ものである。
飲食した生ものやアルコールが
完全に完治しきっていなかった患部に障り、
これを以って病状が急変、
急死したという説もある。

力道山を含めたプロレスラーの
強靱な肉体に過信があったことは事実である。

客人の前で、ジャイアント馬場に
度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、
アントニオ猪木を走行中の自動車から
突き落としたりして、
強靱な肉体があるからプロレスラーは
「ケロっ」としているという
アピールを好んで行った。

梶原一騎原作の劇画
「プロレススーパースター列伝」等で、
手術後に飲酒をし、
友達も持ってきた江戸前寿司を喰べ、
花瓶の水を飲んだめに
腸閉塞を起こしたという話が
まことしやかに出回ったのも
納得できる。

この付き人がアントニオ猪木だったので
一時、猪木は世間から叩かれることになる。



人間の実相を語る歴史人(戦後の国民的英雄 力道山)

2011年01月13日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(戦後の国民的英雄 力道山)

昭和28年NHKと日本テレビが開局。
昭和29年には力道山と
木村雅彦対シャープ兄弟の
プロレスの世界タッグ選手権大会が
放映され、一機に
プロレスブームが到来した。

その主役は力道山であった。
空手チョップで奮闘する姿は
戦後の日本人に生きる活力を与えた。

大正13年生まれの
力道山は元相撲の力士であった。
二所ノ関部屋に入門し、
昭和15年、16歳で初土俵、
2年後には前頭8枚目で
9勝1敗の星をあげ、
横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら
3人と相星となり、この場所から
設けられた優勝決定戦に出場した。
優勝は羽黒山であった。
昭和24年に関脇に昇進するが、
明けて25年に突然、
自らマゲを切り廃業。
相撲界から引退した。

その後、ナイトクラブでの
喧嘩が元でハワイ出身の
日系人レスラー・トシ東郷と
知り合い意気投合した。

力道山は坂田の勧めで
プロレス練習を見に行き、
プロレス転向を決意した。

そして、昭和27年に渡米し、
ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で
猛特訓を受けた。
翌年帰国して日本プロレス協会を
設立するのだった。

シャープ兄弟をはじめとする
外人レスラーを
空手チョップでばったばったと
なぎ倒す痛快さで、
昭和28年からテレビ放送が
開始された事も重なり
日本中のヒーローとなるのであった。

昭和29年12月29日、
蔵前国技館で開催された
プロレス日本ヘビー級王座の決定戦で
力道山は柔道王者の木村政彦に勝利し、
日本のプロレス界を統一した。

昭和33年には、ルー・テーズを破って
インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。
翌年には第1回ワールドリーグ戦を
開催し優勝する。
昭和37年には、フレッド・ブラッシーを
破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。

ブラッシーは日本では「銀髪鬼」と呼ばれ、
得意技はヤスリで尖らせた歯による
噛みつきであった。
王座奪回の為に来日し、
力道山、グレート・東郷らとのタッグ戦で
ブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、
カラーテレビが高価であったため、
多くの一般家庭ではグレート・東郷の額から
滴る黒光りするグロテスクな流血を
モノクロテレビで視聴することになった。

このシーンは論議をかもした。
カラーテレビでブラッシーの試合を
視聴した老人4名が流血シーンを見て
ショック死する事件が起きている。

しかし、プロレスブームは
衰えを知らなかった。

昭和38年5月24日
東京体育館で行われたWWA世界選手権
ザ・デストロイヤー戦は
平均視聴率で実に64%を記録、
これは今日においても歴代視聴率4位に
ランクされている。

現代に例えると2002年の
日韓サッカーW杯の
日本―ロシア戦の66%に
匹敵するものであり、
いかに力道山の人気が絶大で
あったかがうかがえる。



人間の実相を語る歴史人(明恵 親鸞聖人の肉食妻帯)

2011年01月12日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(明恵 親鸞聖人の肉食妻帯)

一生不犯を貫いた明恵、
それに対して親鸞聖人は
どうであったか。

親鸞聖人のお師匠様の
法然上人は生涯、結婚もなされず、
清廉潔白で一生を全うされた方であった。

しかし、その法然上人が
弟子親鸞聖人にだけは
違っておられた。
法然上人71歳、
親鸞聖人31歳のことである。

関白九条兼実公のたっての
願いということで
娘玉日姫を親鸞聖人に
嫁がせたいとの
申し出があった。

法然上人は親鸞聖人が
結婚することを勧め
親鸞聖人も喜んで
受けられたのだ。

法然上人が仰言る。
「よいか、親鸞。
 弥陀の本願には、
 出家も、在家も、差別はないが、
 天台や真言などの、聖道自力
 の仏教では、肉食妻帯は、
 固く禁じられているのは、承知の通りじゃ。
 彼らや、そして世間から、
 どんな非難攻撃の嵐が起きるか、
 わからぬぞ」

親鸞聖人の決意は固かった。
「はい。それは、覚悟しております。
 すべての人が、ありのままの姿で
 救われるのが、真実の仏法で
 あることを、分かっていただく
 御縁になれば。
 親鸞、決して厭いは致しません」

法然上人は親鸞聖人の決意を知り、
満足そうに仰言る。
「その覚悟、忘れるでないぞ」

親鸞聖人の肉食妻帯への
世間からの非難は
凄まじいものであった。

親鸞聖人と玉日姫は
玉日姫の父である関白九条兼実公から
送られた牛車で、仲良く
法然上人のご法話へと向われる。

大路を通られる聖人に
町人たちがはやしたてる。
「おい、堕落坊主」
「気でも狂ったか。色坊主」
町人が石を投げはじめる。

「怖くて顔がみせられんのか。
 腐れ坊主」

「仏敵、親鸞。出てこい」

「み仏にかわって、オレが、
 成敗してくれるわ」

と僧兵までが聖人を襲う。

しかし、親鸞聖人は少しも動ぜず、
玉日に声を掛けられた。

「よいか、玉日。今こそ、そなたに、
 言っておこう。
 僧侶も、在家の人も、男も、女も、
 ありのままで、等しく救いたまうのが、
 阿弥陀如来の本願。その真実の仏法を、
 今こそ、明らかにせねばならんのだ。
 阿弥陀如来の、広大なご恩徳を思えば
 どんな非難も、物の数ではない」

玉日姫は頼もしそうに親鸞聖人を
見つめられながら言う。
「はい。私も、お従い致します」

世間の人々の非難を、
一身に浴びられた親鸞聖人で
あったが、その、
不退の決意は固かった。

その後、親鸞聖人はどうなされたか。
こんな非難を受けるのならと
人目のつかない道を
ゆかれたのではない。
同じように大路を
進まれたのである。

その内に罵声を浴びせていた人達の中に

「あれだけ悪口雑言を浴びせられても
 親鸞聖人のご夫妻は仲良く、
 法然上人のご法話に通っておられる。
 ワシ等もあのご夫婦のようになりたい。
 法然上人のご法話を
 一緒に聞かせてもらおう」

と親鸞聖人の牛車に伴って、
法然上人の元に参詣される方が
多く現れていったのである。

一生不犯を貫いた明恵。
法然上人も一生、結婚もされず、
一代の聖僧を貫かれた。

その法然上人が弟子親鸞聖人に
なぜ公然と肉食妻帯をすることを
許されたのか。

両聖人は、仏意を開顕して、
肉食妻帯して男女平等に
救われる真実の仏教、
阿弥陀仏の本願を
教えて下されたのである。

肉食妻帯は法然上人、親鸞聖人が
身体を張っての真実開顕であり、
正法宣布であったのだ。








人間の実相を語る歴史人(明恵 一生不犯を貫く)

2011年01月11日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(明恵 一生不犯を貫く)
 
明恵は23歳の時に
神護寺を出て故郷へ帰り、
まず西の峰に草庵を
建てて修行の場とした。

24歳のころ、明恵は
東の峰の草庵で右耳を
切り落とした。
そしてその翌日、
文殊菩薩を感得したという。

「こうでもしなければ
 心弱き身だから、
 人の尊敬を受けたり、
 出世をしたりして
 道を誤るかも知れない。
 身をやつせば人の目に
 とまることもなく、
 自分でも人目をはばかって
 人前に出ることもないだろう」

と決意したのが、
耳を切った理由であった。

耳を選んだのは、
「目をつぶすと
 聖教が見れなくなる。
 鼻をきると鼻水が落ちて
 聖教を汚すおそれがある。
 手を切ると印が結べなくなる。
 その点、耳は切っても
 聞こえなくなる訳ではないし、
 ただ見ばえが悪くなるだけだ」

と考えたからで、
それからは自分のことを
「耳無し法師」とか
「耳切り法師」と
呼ぶようになった。

このような傾向は
子供の頃からすでにあった。

4歳の時、父親がたわむれに
烏帽子(えぼし)を着せて、

「立派な男だ。
 大きくなったら御所へ
 連れて行こう」
というのを聞いて、

「自分は出家するつもりでいるのに、
 そんなことになったら大変だ」

と、わざと縁から落ちて
体を傷つけようとしたことがあった。

明恵はかなりの美男子だったらしく、
女難の相があるのを
自覚していたのかもしれないが、
こうした身をやつす行為が
功を奏したのか、
一生不犯で通している。

「幼少の時より貴き僧に
 ならん事をこいねがい、
 一生不犯にて清浄
 ならんことを思いき。
 しかるに、いかなる魔の
 託するにかありけん、
 たびたび婬事を犯さんと
 する便りありしに、
 不思議の妨げありて、
 打ちさまし打ちさましして、
 ついに志を遂げざりき」





人間の実相を語る歴史人(明恵 華厳宗の中興の祖)

2011年01月10日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(明恵 華厳宗の中興の祖)

華厳宗中興の祖といわれる
明恵は、1173年に
和歌山県有田郡有田川町で生まれた。

その19年後の1192年には
源頼朝が鎌倉幕府を開いているから、
平安時代末期の生まれた。

この同じ年に親鸞聖人がお生まれに
なっておられる。
この明恵と親鸞聖人とはこれから
全く正反対と思える人生を
送ることになる。

京都市北部の栂尾(とがのお)に、
紅葉が美しいことで有名な高山寺がある。
ここは明恵が再興し、
その後半生を過ごした寺である。
そのため明恵は、「栂尾の明恵」
と呼ばれるようになった。

明恵の両親は、
ともに紀州では勢力のある
豪族の出で、父は領主の平重国、
母は湯浅宗重の四女であった。

しかし8歳になったばかりの
正月に母が亡くなり、
同年9月に父が亡くなった。
父は挙兵した源頼朝と
戦って戦死したのであった。

明恵は9歳で京都市高尾の
神護寺に入山し、
出家するための勉強をはじめた。
父母の遺命であったというが、
本人の希望も大きかった。

貴き僧となって親をも
すべての衆生をも救おうと
いう願を起こしたという。
武士の生まれだけに
思いきりのいい子供であった。

明恵は13歳にして考えた。

「今は、はや十三になりぬ。
 すでに年老いたり。
 死なんこと近づきぬらん。
 老少不定の習いに、
 今まで生きたるこそ不思議なれ。
 古人も学道は火を鑚る
 (きる。木をこすり
  合わせて火をおこす)
 が如くなれとこそ言うに、
 悠々として過ぐべきに非ず」

そして自らを鞭打ち、
昼夜不退に道行に励んだという。


また、
「この体があるから
 煩いや苦しみがある。
 いっそ狼や山犬にでも
 食われて死んでしまおう」

と考えて、死体を処分する
原っぱへ行って横に
なったこともあった。

夜中に犬がたくさん集まってきて、
死体を食う音がすぐ近くでも聞こえ、
ついには横たわっていた明恵の
体も嗅ぎまわしたので、
怖ろしいこと限りなかったが、
犬は上人を食わずに行ってしまった。

そのため、死にたくても
定業でなければ死ぬことも
できないと納得した。

親鸞聖人も4歳で父君を亡くされ、
8歳で母君を亡くされた。
9歳で世の無常を知らされ、
比叡山で出家をされた。

両親を亡くされ、同じ年に
出家されるところなど、
明恵と親鸞聖人の深い因縁を感じる。




人間の実相を語る歴史人(妙好人お軽 夫の死を縁に命がけの聞法)

2011年01月10日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(妙好人お軽 夫の死を縁に命がけの聞法)

夫の放蕩が縁となり、
お軽の聞法求道が始まった。
法話があれば、
船に乗り北九州や下関にも
足を運んでいる。

だが聞法はいばらの道。
聴聞を重ねれば重ねるほど、
お軽は、まことを聞く
耳のない自己の姿に
あきれるのであった。

その信前(阿弥陀如来に救われる前)
の胸中を、後にこのように歌っている。

「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか
 聞かにゃ苦労はせまいといえど
 聞かにゃ堕ちるし、聞きゃ苦労
 今の苦労が先での楽と
 気休めいえども気が済まぬ
 済まぬまんまとすましにかかりゃ
 雑修自力とはねだされ
 どうして他力になるのじゃろ
 まこと聞くのがお前はいやか
 何が望みであるぞいな」

屍のような心をたたいて、
お軽は泣いた。

そして、ある日、
お軽の求道に拍車を
かける事件が起きる。

夫の幸七が畑仕事の最中に
バッタリ倒れ、
そのまま帰らぬ人となったのである。

「出息入息不待命終」

仏説そのままの激しい無常を
眼前にしたお軽は、
居ても立ってもおれない。

聞法心に火がついた。

夫の葬式をすべて親類に任せ、
京の町を善知識を求めて
駆けずり回ったのである。

だが、どれだけ血眼に
なって訪ね歩いても、
ついに善知識に
巡り会うことはできなかった。

よくよく仏縁のないわが身に絶望し、
その場に泣き崩れるのであった。

自力間に合わなかったと、
助かる望みが断ち切られ、
無間のドン底へ
たたき堕とされたその時、
十劫以来、呼び続けて
くだされていた阿弥陀仏の御声が、
お軽の五臓六腑を貫いた。

阿弥陀如来に救い摂られ、
心も言葉も絶えた世界に
躍り上がったのである。
その驚天動地の世界を
このように表している。

「自力さらばといとまをやって
 ワシが心と手たたきで
 たった一声聞いたのが
 その一声が千人力
 四の五の言うたは昔のことよ
 何にも言わぬがこっちの儲け
 そのまま来いの勅命に
 いかなるお軽も頭が下がる
 聞いてみなんせまことの道を
 無理な教えじゃないわいな」

"こうまでしてくださらなければ、
仏法を聞く私ではなかった"

と、お軽はそれまでの一切の境遇を、
如来のご方便と感謝するようになった。

そして生涯、村人たちに
真実信心を説き続けたのである。

夫の死を縁として、
お軽の求道心に火がついた。

しかし、世間には肉身の死に
幾度もあいながら、
少しも後生の一大事に
驚きをたてない人が
如何に多いことか。


人間の実相を語る歴史人(妙好人お軽の求道の始まり)

2011年01月08日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(妙好人お軽の求道の始まり)

江戸時代末期、山口県六連島に
お軽という妙好人があった。

勝ち気な性格で、なかなか仏法を
聞こうとしなかったお軽が、
どのようにして弥陀の本願を
喜ぶ身に生まれ変わったのだろう。

男勝りの性格で、
村の若者たちから
煙たがられていたお軽も、
十九歳の時、幸七という青年を
婿養子に迎えると、
別人のようにかいがいしく
夫に仕えた。

だが、幸せな時期は長くは続かない。

夫の幸七は、芋やごぼうを舟に積み、
たびたび九州筑前に
行商に出掛けていたが、
いつしか家を出たっきり、
なかなか戻らなくなったのだ。

「さては、ほかに女が……」

事情を察知したお軽の
怒りはすさまじかった。

「一緒に作った野菜を売って、
 別の女に入れ揚げるなんて、
 許せない、絶対に許せない」
 
ひょっこり帰ってきた夫を
船着き場で激しく罵倒することも
たびたびだった。

だが、幸七の放蕩は止まらない。
あまりの苦しみからお軽は、
ついぞ足を運んだことのない
手次の寺の門をたたいた。

思いのままに怒りを
ぶちまけるお軽を、
和尚はこんこんと諭す。

「お軽!おまえの怒るのも
 無理はない。だがな、
 それが浮世というものなのじゃ。
 しかし妻を捨て、
 わが子を顧みない幸七に、
 本当の楽しみなどあると思うか。
 今おまえの夫は、
 色欲で、もだえ苦しみ、
 生きながら地獄に堕ちているのじゃ」

「確かにそうかもしれませんが……」

落ち着きを見せ始めたお軽の
様子を見た住職は、
ここだとばかりひざをたたき、

「お軽。考えてみると今回のことは、
 おまえを仏法に導くための
 仏さまのご方便だったのかもしれんぞ。
 こんなことがなければ、
 あんたは仏法を聞くような人では
 ないじゃろう」

さらに和尚は、

「"火宅無常の世界は、
 万のこと皆もって空事・たわごと
 ・真実あること無し"と
 祖師聖人もおおせになっている。
 苦しいだろうがなあ、お軽、
 今のおまえの苦しみを
 一滴の水とすれば、
 後生の苦は、大海のごとしと
 教えられるのじゃ。
 大慈大悲の阿弥陀如来の救いに
 あずかって、未来永劫の幸福を
 頂きたいとは思わぬか」。

「しかし、和尚さん。
 私のような愚痴いっぱいの
 悪い女が、助けてもらえる
 道理がないでしょう」

「いやいや、大宇宙の諸仏にも
 見捨てられたわれら凡夫を、
 阿弥陀如来だけが、
 『かわいい』と言われ、
 命を懸けて、『必ず助ける』と
 誓っておられるのじゃぞ。
 欲や怒り、愚痴のかたまりの、
 助かる縁の尽きた者こそ、
 もったいなくも
 阿弥陀如来のお目当てじゃ」
 
お軽は、思わず和尚の前に
すり寄ってきた。

「和尚さん、よく分かりました。
 もっと詳しく尊い阿弥陀如来の
 ご本願をお聞かせください」
 
かくて、お軽の聞法求道が
始まったのである。