人間の実相を語る歴史人(吾当安此 六道出離)
「天上天下、唯我独尊、
三界皆苦、吾当安此」
「吾(釈尊)当に此に安んずべし」
その苦しみの中にありながら
安らかな楽しい世界がある。
一切の人々は、この無碍の世界に
出るために生まれてきたのだ。
万人共通唯一の、出世の本懐を
教示なされた釈尊のご金言である。
では、何の為に我々は生まれてきたのか。
それは釈尊が御生誕の際、
東西南北に七歩、歩かれたことが
教えている。
七歩とは六歩を一歩出る。
六とは六道、迷いの世界のこと
だから、迷いの世界を出て離れる
というこである。
七歩とはこの迷いの世界
六道(三界)を出て離れる
というこである。
だから六道出離、六道出世といわれる。
出世といえば、世間では
「世に出る」
という意味で使われている。
選挙で当選し、議員になれば
世間の人からは「出世したな」と
いわれる。
一社員が大抜擢で社長になれば
「あいつは若いのに社長になったぞ。
出世頭だな」
と持てはやされる。
ところが世に名前が出たからといって
幸せな人生を送れたかというと
そうではない。
織田信長は本能寺の変で最期を
遂げた時、能「敦盛」の一節を
舞って自害したと言われている。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、
夢幻の如くなり。
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
「人間の一生は所詮五十年に過ぎない。
天上世界の時間の流れてくれべたら
まるで夢や幻のようなものであり、
命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ」
豊臣秀吉の辞世の句も有名だ。
「おごらざる者も久しからず、
露とおち 露と消えにし わが身かな
難波のことも 夢のまた夢」
栄華栄誉に極めた秀吉も
その最後の言葉は、
夢の中で夢を見ているような、
はかない一生だった、
との告白である。
徳川家康は徳川300年の礎を
築きあげならがも、その遺訓には
「人の一生は、
重荷を負うて遠き道を
行くが如し」
と人生は苦なりと残している。
戦国時代の立身出世した者達の
異口同音の言葉が、
「人生は苦なり」である。
仏教で出世とは
「世を出る」という意味である。
迷いの世から出ること
これこそが人生の目的であり、
仏教を聞く目的である。
迷いの世を六道というので
七歩歩かれたとは六道を
出て離れるということだ。
その六道出離は
阿弥陀仏の本願によらなければ
できないのである。
浄土真宗の勤行で拝読する『正信偈』は、
親鸞聖人が一字一涙の御心で
書き遺されたものである。
「即横超截五悪趣」
遠い過去からの苦悩の元凶を
断ち切られ、
永の迷いの打ち止めを
させて頂くにはどうしたらよいのか。
「即ち横に五悪趣を超截す」
と仰言っている。
「横」とは、他力を表す。
「『他力』と言うは如来の本願力なり」
(教行信証)
と親鸞聖人仰せのとおり、
阿弥陀如来の本願力のみを他力という。
世間では、他力とは「他人まかせ」
のことであり、
"他力信心の人"と聞くと、
他人に依存する弱々しい人間像を
思い浮かべる。
これは本当の他力を全く知らないからだ。
他力とは、私たちの苦悩の根元である
無明の闇を打ち破って、
日本晴れの大安心にするお力であり、
「人間に生まれてよかった」
と大満足の身にしてくだされる
如来の威神力不思議をいう。
「超截」とは、迷いのきずなを断ち切り、
苦しみの絶えぬ世界を超越することであり、
その苦悩の境界を「五悪趣」といわれている。
すなわち、地獄、餓鬼、畜生、
人間、天上の五つの世界をいい、
修羅を加えて六道(六界)ともいわれる。
地獄とは、最も苦しみの激しい世界。
業火に焼かれる苦痛は、
この世の溶鉱炉の火を
地獄に持っていくと
霜か雪になってしまうと
例えられるほどだ。
餓鬼は、やせこけて
腹だけ膨れた姿をし、
のどが針のように細く、
しかも食べ物を口にしようとすると、
たちまち炎に変わり、
常に飢えと渇きに苦しむ世界。
畜生界は、私たちも目にする
獣や鳥、魚や虫などの世界。
淫欲満々とし、また弱肉強食の
世界ですから常に不安が
付きまとっている。
眠っている犬に、足音を忍ばせ
近づいても気づかれてしまう。
それだけ神経をピリピリさせている。
これら地獄・餓鬼・畜生は、
特に苦悩の激しい境界だから、
「三悪道」とか「三塗」といわれる。
修羅界は、憎しみ合い、
争いの絶えない世界。
世間でも、テロや殺し合いなどの
悲惨な場所を修羅場といわれるのは、
ここから来ている。
人間界は、常に善悪を問題に
している私たち人間の世界。
三悪道や修羅界よりもましだが、
苦悩は絶えない。
天上界は六界の中で、
最も楽しみの多い世界だが、
天人の五衰があり、
歓楽尽きて転落する苦しみは
何ものにも増して激しく、
やはり迷いの世界だ。
これら六道を車輪が回るように、
果てしなく生死生死を
繰り返しているのが、
我々の生命のすがたである。
これらの世界は、死後にのみ
存在するのではなく、
現在の私たちの心の中にも
うごめいている。
「どうして私だけ、こんなひどい目に
遭わねばならぬのか」
泣くに泣かれぬ逆境に立ち、
他人をのろい恨んでいるのが地獄の心。
有っても欲しい、無ければなお欲しい。
食欲・色欲・名誉欲、
常に満たされぬのが餓鬼の心。
恐怖心が強く淫欲満々、
日夜、他人を自由に
犯しているのが畜生の心。
自分の意思に背く者を心の中で、
たたき合い殺し合っているのが修羅の心。
因果の道理を信じて、
人に迷惑をかけず、
正しく生きようとするのが人間の心。
健康や物質に恵まれて花見遊山、
一時、我を忘れているのが天上の心。
このように私たちの現在の心の中に、
地獄・餓鬼・畜生その他の世界があり、
もちろん死後にもこの世界が続く。
「天上天下、唯我独尊、
三界皆苦、吾当安此」
「吾(釈尊)当に此に安んずべし」
その苦しみの中にありながら
安らかな楽しい世界がある。
一切の人々は、この無碍の世界に
出るために生まれてきたのだ。
万人共通唯一の、出世の本懐を
教示なされた釈尊のご金言である。
では、何の為に我々は生まれてきたのか。
それは釈尊が御生誕の際、
東西南北に七歩、歩かれたことが
教えている。
七歩とは六歩を一歩出る。
六とは六道、迷いの世界のこと
だから、迷いの世界を出て離れる
というこである。
七歩とはこの迷いの世界
六道(三界)を出て離れる
というこである。
だから六道出離、六道出世といわれる。
出世といえば、世間では
「世に出る」
という意味で使われている。
選挙で当選し、議員になれば
世間の人からは「出世したな」と
いわれる。
一社員が大抜擢で社長になれば
「あいつは若いのに社長になったぞ。
出世頭だな」
と持てはやされる。
ところが世に名前が出たからといって
幸せな人生を送れたかというと
そうではない。
織田信長は本能寺の変で最期を
遂げた時、能「敦盛」の一節を
舞って自害したと言われている。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、
夢幻の如くなり。
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
「人間の一生は所詮五十年に過ぎない。
天上世界の時間の流れてくれべたら
まるで夢や幻のようなものであり、
命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ」
豊臣秀吉の辞世の句も有名だ。
「おごらざる者も久しからず、
露とおち 露と消えにし わが身かな
難波のことも 夢のまた夢」
栄華栄誉に極めた秀吉も
その最後の言葉は、
夢の中で夢を見ているような、
はかない一生だった、
との告白である。
徳川家康は徳川300年の礎を
築きあげならがも、その遺訓には
「人の一生は、
重荷を負うて遠き道を
行くが如し」
と人生は苦なりと残している。
戦国時代の立身出世した者達の
異口同音の言葉が、
「人生は苦なり」である。
仏教で出世とは
「世を出る」という意味である。
迷いの世から出ること
これこそが人生の目的であり、
仏教を聞く目的である。
迷いの世を六道というので
七歩歩かれたとは六道を
出て離れるということだ。
その六道出離は
阿弥陀仏の本願によらなければ
できないのである。
浄土真宗の勤行で拝読する『正信偈』は、
親鸞聖人が一字一涙の御心で
書き遺されたものである。
「即横超截五悪趣」
遠い過去からの苦悩の元凶を
断ち切られ、
永の迷いの打ち止めを
させて頂くにはどうしたらよいのか。
「即ち横に五悪趣を超截す」
と仰言っている。
「横」とは、他力を表す。
「『他力』と言うは如来の本願力なり」
(教行信証)
と親鸞聖人仰せのとおり、
阿弥陀如来の本願力のみを他力という。
世間では、他力とは「他人まかせ」
のことであり、
"他力信心の人"と聞くと、
他人に依存する弱々しい人間像を
思い浮かべる。
これは本当の他力を全く知らないからだ。
他力とは、私たちの苦悩の根元である
無明の闇を打ち破って、
日本晴れの大安心にするお力であり、
「人間に生まれてよかった」
と大満足の身にしてくだされる
如来の威神力不思議をいう。
「超截」とは、迷いのきずなを断ち切り、
苦しみの絶えぬ世界を超越することであり、
その苦悩の境界を「五悪趣」といわれている。
すなわち、地獄、餓鬼、畜生、
人間、天上の五つの世界をいい、
修羅を加えて六道(六界)ともいわれる。
地獄とは、最も苦しみの激しい世界。
業火に焼かれる苦痛は、
この世の溶鉱炉の火を
地獄に持っていくと
霜か雪になってしまうと
例えられるほどだ。
餓鬼は、やせこけて
腹だけ膨れた姿をし、
のどが針のように細く、
しかも食べ物を口にしようとすると、
たちまち炎に変わり、
常に飢えと渇きに苦しむ世界。
畜生界は、私たちも目にする
獣や鳥、魚や虫などの世界。
淫欲満々とし、また弱肉強食の
世界ですから常に不安が
付きまとっている。
眠っている犬に、足音を忍ばせ
近づいても気づかれてしまう。
それだけ神経をピリピリさせている。
これら地獄・餓鬼・畜生は、
特に苦悩の激しい境界だから、
「三悪道」とか「三塗」といわれる。
修羅界は、憎しみ合い、
争いの絶えない世界。
世間でも、テロや殺し合いなどの
悲惨な場所を修羅場といわれるのは、
ここから来ている。
人間界は、常に善悪を問題に
している私たち人間の世界。
三悪道や修羅界よりもましだが、
苦悩は絶えない。
天上界は六界の中で、
最も楽しみの多い世界だが、
天人の五衰があり、
歓楽尽きて転落する苦しみは
何ものにも増して激しく、
やはり迷いの世界だ。
これら六道を車輪が回るように、
果てしなく生死生死を
繰り返しているのが、
我々の生命のすがたである。
これらの世界は、死後にのみ
存在するのではなく、
現在の私たちの心の中にも
うごめいている。
「どうして私だけ、こんなひどい目に
遭わねばならぬのか」
泣くに泣かれぬ逆境に立ち、
他人をのろい恨んでいるのが地獄の心。
有っても欲しい、無ければなお欲しい。
食欲・色欲・名誉欲、
常に満たされぬのが餓鬼の心。
恐怖心が強く淫欲満々、
日夜、他人を自由に
犯しているのが畜生の心。
自分の意思に背く者を心の中で、
たたき合い殺し合っているのが修羅の心。
因果の道理を信じて、
人に迷惑をかけず、
正しく生きようとするのが人間の心。
健康や物質に恵まれて花見遊山、
一時、我を忘れているのが天上の心。
このように私たちの現在の心の中に、
地獄・餓鬼・畜生その他の世界があり、
もちろん死後にもこの世界が続く。