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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(吾当安此 六道出離)

2011年06月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(吾当安此 六道出離)

「天上天下、唯我独尊、
 三界皆苦、吾当安此」

「吾(釈尊)当に此に安んずべし」

その苦しみの中にありながら
安らかな楽しい世界がある。

一切の人々は、この無碍の世界に
出るために生まれてきたのだ。

万人共通唯一の、出世の本懐を
教示なされた釈尊のご金言である。

では、何の為に我々は生まれてきたのか。
それは釈尊が御生誕の際、
東西南北に七歩、歩かれたことが
教えている。

七歩とは六歩を一歩出る。
六とは六道、迷いの世界のこと
だから、迷いの世界を出て離れる
というこである。

七歩とはこの迷いの世界
六道(三界)を出て離れる
というこである。
だから六道出離、六道出世といわれる。

出世といえば、世間では
「世に出る」
という意味で使われている。
選挙で当選し、議員になれば
世間の人からは「出世したな」と
いわれる。

一社員が大抜擢で社長になれば
「あいつは若いのに社長になったぞ。
 出世頭だな」
と持てはやされる。

ところが世に名前が出たからといって
幸せな人生を送れたかというと
そうではない。

織田信長は本能寺の変で最期を
遂げた時、能「敦盛」の一節を
舞って自害したと言われている。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、
 夢幻の如くなり。
 ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
 
「人間の一生は所詮五十年に過ぎない。
 天上世界の時間の流れてくれべたら
 まるで夢や幻のようなものであり、
 命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ」

豊臣秀吉の辞世の句も有名だ。

「おごらざる者も久しからず、
 露とおち 露と消えにし わが身かな 
 難波のことも 夢のまた夢」

栄華栄誉に極めた秀吉も
その最後の言葉は、
夢の中で夢を見ているような、
はかない一生だった、
との告白である。


徳川家康は徳川300年の礎を
築きあげならがも、その遺訓には

「人の一生は、
 重荷を負うて遠き道を
 行くが如し」

と人生は苦なりと残している。

戦国時代の立身出世した者達の
異口同音の言葉が、
「人生は苦なり」である。

仏教で出世とは
「世を出る」という意味である。

迷いの世から出ること
これこそが人生の目的であり、
仏教を聞く目的である。

迷いの世を六道というので
七歩歩かれたとは六道を
出て離れるということだ。

その六道出離は
阿弥陀仏の本願によらなければ
できないのである。

浄土真宗の勤行で拝読する『正信偈』は、
親鸞聖人が一字一涙の御心で
書き遺されたものである。

「即横超截五悪趣」

遠い過去からの苦悩の元凶を
断ち切られ、
永の迷いの打ち止めを
させて頂くにはどうしたらよいのか。

「即ち横に五悪趣を超截す」
と仰言っている。

「横」とは、他力を表す。

「『他力』と言うは如来の本願力なり」
   (教行信証)

と親鸞聖人仰せのとおり、
阿弥陀如来の本願力のみを他力という。

世間では、他力とは「他人まかせ」
のことであり、
"他力信心の人"と聞くと、
他人に依存する弱々しい人間像を
思い浮かべる。

これは本当の他力を全く知らないからだ。
他力とは、私たちの苦悩の根元である
無明の闇を打ち破って、
日本晴れの大安心にするお力であり、
「人間に生まれてよかった」
と大満足の身にしてくだされる
如来の威神力不思議をいう。

「超截」とは、迷いのきずなを断ち切り、
苦しみの絶えぬ世界を超越することであり、
その苦悩の境界を「五悪趣」といわれている。

すなわち、地獄、餓鬼、畜生、
人間、天上の五つの世界をいい、
修羅を加えて六道(六界)ともいわれる。

地獄とは、最も苦しみの激しい世界。
業火に焼かれる苦痛は、
この世の溶鉱炉の火を
地獄に持っていくと
霜か雪になってしまうと
例えられるほどだ。

餓鬼は、やせこけて
腹だけ膨れた姿をし、
のどが針のように細く、
しかも食べ物を口にしようとすると、
たちまち炎に変わり、
常に飢えと渇きに苦しむ世界。

畜生界は、私たちも目にする
獣や鳥、魚や虫などの世界。
淫欲満々とし、また弱肉強食の
世界ですから常に不安が
付きまとっている。
眠っている犬に、足音を忍ばせ
近づいても気づかれてしまう。
それだけ神経をピリピリさせている。

これら地獄・餓鬼・畜生は、
特に苦悩の激しい境界だから、
「三悪道」とか「三塗」といわれる。

修羅界は、憎しみ合い、
争いの絶えない世界。
世間でも、テロや殺し合いなどの
悲惨な場所を修羅場といわれるのは、
ここから来ている。

人間界は、常に善悪を問題に
している私たち人間の世界。
三悪道や修羅界よりもましだが、
苦悩は絶えない。

天上界は六界の中で、
最も楽しみの多い世界だが、
天人の五衰があり、
歓楽尽きて転落する苦しみは
何ものにも増して激しく、
やはり迷いの世界だ。

これら六道を車輪が回るように、
果てしなく生死生死を
繰り返しているのが、
我々の生命のすがたである。

これらの世界は、死後にのみ
存在するのではなく、
現在の私たちの心の中にも
うごめいている。

「どうして私だけ、こんなひどい目に
 遭わねばならぬのか」
泣くに泣かれぬ逆境に立ち、
他人をのろい恨んでいるのが地獄の心。

有っても欲しい、無ければなお欲しい。
食欲・色欲・名誉欲、
常に満たされぬのが餓鬼の心。

恐怖心が強く淫欲満々、
日夜、他人を自由に
犯しているのが畜生の心。

自分の意思に背く者を心の中で、
たたき合い殺し合っているのが修羅の心。

因果の道理を信じて、
人に迷惑をかけず、
正しく生きようとするのが人間の心。

健康や物質に恵まれて花見遊山、
一時、我を忘れているのが天上の心。

このように私たちの現在の心の中に、
地獄・餓鬼・畜生その他の世界があり、
もちろん死後にもこの世界が続く。





人間の実相を語る歴史人(三界皆苦)

2011年06月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(三界皆苦)

釈尊ご生誕の時、仰有た
「天上天下 唯我独尊」
の続きの言葉がある。

「天上天下、唯我独尊、
 三界皆苦、吾当安此」
   (釈尊)

「天上にも地上にも、
 人間(我)のみの独尊あり」

他の動物には、
因果の道理を弁えることも、
無上仏の本願を聞くこともできぬ。

人間のみ、仏法を聞くことができるから、
人命が尊いのである。

「人生(三界)はみな苦なり」

釈尊がご生誕なされ、仏陀のなられた
第一声がこのお言葉なのである。

凡夫が生死を繰り返しながら
輪廻する世界を3つに分け
三界という。
欲界・色界・無色界の三つ境界である。

欲界とは五欲のみで生きている世界だ。
欲の本性は我利我利亡者である。
自分さえ幸せであれば、
他人などどうなってもいい。
俺の欲望が満足できれば、
他人が不幸になっても構わない。
特に色欲・食欲の2つの欲望に
とらわれた有情の住む処である。

色界とは2つ欲望を満足しても幸せはないと
美しい音楽や綺麗な絵などを
鑑賞することに喜びを感ずる者達の世界。
芸術や音楽の世界のようなものである。

無色界とは形あるものに快楽を
求めても本当の幸福はないと
ただ精神作用にのみ住む世界である。
思想や宗教の世界のようなものである。

釈尊は
「三界は安きことなく、
 なお、火宅のごとし」
といわれるのは、迷いと苦しみのこの世界を、
燃えさかる家にたとえられたのだ。

その三界を6つの世界にわけられ、
六道と教えられた。

地獄・餓鬼・畜生・修羅
人間界と天上界の六つの世界。

欲界=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間界
   天上界の一部

色界・無色界=天上界の一部

三界でも、殆どが欲界で苦しんでいる者ばかり。

たとえ、色界・無色界にいても
迷いの苦界に変わりはないのだ。

人間に生まれても
地震、雷、火事、洪水、噴火、
境界争い、裁判沙汰、交通事故、
嫌な人間関係など衆苦充満しているから
三界の獄ともいい、

人生は四苦八苦ともいわれる。

悩み絶えなく終わる一生なら
哀れというも愚かなり、である。





人間の実相を語る歴史人(天上天下 唯我独尊)

2011年06月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(天上天下 唯我独尊)

仏教で「まつり」と言えば、
四月八日の「はなまつり」
だけである。

釈尊の誕生日として、
知られている。

明治時代東本願寺で
真宗改革に尽力をつくした人に
近角常観がいた。
本山は彼の功績を認め、
明治33年、彼を、
欧米の宗教制度視察旅行に派遣した。
キリスト教の何を学ぶのか、
はなはだ疑問であるが、
ドイツで一つのエピソードを残している。

ドイツでは親鸞聖人と言っても
誰も知る人がいない。
しかし、釈迦の名声は
ドイツにも届いていた。

そこで、近角らが中心となって、
明治34年4月8日、ベルリンで、
釈尊降誕祝賀会を開催し、
初めて「花まつり」と名づけた。

この行事の成功をきっかけに、
以来、「花まつり」の名称が、
一般 に使われるように
なったのである。

約二千六百年前、
ルンビニーという花園で
お生まれになった釈尊は、
誕生なされてすぐ、
東西南北に七歩ずつ歩かれて、
右の手で天を、左の手で地を差し、

「天上天下 唯我独尊」

と仰有ったと伝えられている。

いくら釈尊が地球上で一番偉い方でも、
お生まれになってすぐに歩いて話を
されたとは信じられない。

このお言葉を通して、
何を明らかにされているのか、
その御心を聞かせて頂かねばならない。

多くの人は、
「この世で一番偉くて尊いのは、
 この釈迦である」
と、釈尊が威張られた言葉の
ように思っている。

他人の意見にあまり耳を貸さない人を見て、
「あいつは唯我独尊的な男だ」と使っている。

しかし、世界の偉人の中でも
一番に挙げられる釈尊が、
そのような傲慢なことを仰有るだろうか。

「実るほど
   頭を下げる稲穂かな」

「下がるほど
   人の見上ぐる藤の花」

とも歌われるように、
尊敬される人は腰が低いもの。

「我」とは、釈尊ご自身ではなく、
「私たち」一人一人のことである。

「独尊」とは、
「たった一つの尊い使命がある」
という意味である。

「天上天下 唯我独尊」
とは、
「天の上にも天の下にも、
 大宇宙広しといえども、
 人間に生まれなければできない、
 たった一つの尊い使命がある」
と教えられたお言葉なのだ。

万人共通唯一の人生の目的があるぞ、
との釈尊の一大宣言なのだ。



人間の実相を語る歴史人(釈迦の誕生・マーヤー夫人の見られた夢)

2011年06月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(釈迦の誕生・マーヤー夫人の見られた夢)

仏陀とは、仏教の最高人格者に
対する敬称であるが
地球上では釈尊のことである。
 
釈尊とは「釈迦族の尊者」
という意味である。

釈尊とは大聖釈迦牟尼世尊を
縮めて言われたものである。
大聖とは世界に多くの
偉人が現れ、三大聖人、
二大聖人といわれても
常にトップに上げられるのが
お釈迦様である。
世界で一番の偉人であるから
大聖と呼ばれたのである。

牟尼は無二ともいい
二人とないお方ということ。

世尊とは世の中で
最も尊いお方で
世尊と当時の人は
お呼びしていたのである。

釈迦族というのは、
今を去ること約2500年前、
北印度ヒマラヤ山麓に居住して
血統の尊貴なることを誇っていた
一民族である。

その首府をカピラ城といい
十人の長を選んで
更にその中から一人の
王者を選定して政治を
行わしめていた貴族的共和国である。
 
仏陀釈尊はこのカピラ城の城主、
浄飯王を父とし、
その妃マーヤー夫人を母として
誕生せられたお方である。

この王様夫妻は久しく
子供に恵まれなかったが、
或る夜、マーヤー夫人が
白象が胎内に入った夢を見て
懐妊せられたという。

古来印度では、
白象は縁起のよいものと
されていたからであろう。

何しろ初産なので
月満ちてから生家である
隣国、クリ城へ赴かんとして
カピラ城を出られたが、
その行列がルンビニー園という
花園にさしかかったところ、
突然産気を感じ、
白象の背より降り、
無憂樹の下で右脇より
玉のような男子を出生せられた。
 
印度では右を尊ぶと
いわれているから右脇と
いったのであろう。

然し今日産婦人科の医説によれば
男子は右方から生まれ、
女子は左方から生まれる
そうであるから
「男らしき生まれ方」と
思ってもよかろう。

しかもその日は4月8日で
時あたかもルンビニー園の
花は満開で、その中で
誕生されたことから
「花祭り」と称して
今日釈迦の御生誕を
お祝いするのである。





人間の実相を語る歴史人(夢の種類)

2011年06月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(夢の種類)

昔から聖人に夢なしといわれるが、
親鸞聖人には、
夢の記録が多い。

親鸞聖人は最も多く夢を
みられたお方のようだ。

夢は観念の作用であり、
疲れた意識の乱舞であって、
何の実在性も真実性もない幻だと
簡単に言い切る人もある。

しかし、それはあくまでも、
夢覚めた後の反省であって、
夢の中では忽然として
森羅万象があらわれ、
交通事故に遭ってもだえ苦しみ、
宝クジに当たって跳び上がって
喜んでいるなどは
現実生活そのものであり、
まったく変わったところはない。

観念の作用といわれたり、
意識の乱舞だといわれると、
なんの実在性もないように
思わるが、事実としても
厳然たる実在性をもって、
夢の中の私たちを
苦しめ、悩ませ、驚かせ、
悲しませ、ややもすれば
覚めたあとの私たちの生活までに、
大きな影響を与える。

たとえば、生々しい
恐ろしい交通事故に
遭った夢をみて、
とび起きた朝などは、
今まで参ったことのない
仏壇に三拝九拝して、
神経質なほどの
ビクビク運転をする
ドライバーのいることも、
否定できない。

現今の心理学などでも、
夢はいまだ解明されて
いないようだが、
夢の不可思議とも思える
神秘性を認めざるをえない。

そこで昔から夢は
種々に分類され
語り伝えられている。

仏や神、祖先から
授かるといわれている霊夢。

一般に正夢といわれている実夢。

思い続けていることを夢みる心夢。

とりとめのないことを夢みる虚夢。

種々雑多な雑夢。

恐れをなしていることを夢みる懼夢

などの大体6種がある。

だから夢というものは、
必ずしも正夢であるとか、
逆夢であるとは限らないが、
情けないことには
私たち凡愚のみる夢は、
明けても暮れても
借金とりに追い回される実夢ばかり。

「思いつつ  ぬればや人の みえつらん
 夢と知りせば さめざらましを」

夢と分かっていたならば、
さますのではなかったにと、
消えてしまった夢の世界を
惜しむ切ない虚夢も時にはある。

しかし、

「斬られたる  夢のまことか ノミのあと」

夢か、うつつか戸惑うような
懼夢が圧倒的に多いのは、
あわれというも愚かなりと
いわねばならない。





人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑰法然上人の仇討ちの断念)

2011年06月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑰法然上人の仇討ちの断念)

法然上人は長承二年(1133年)に
美作国(今の岡山県)稲岡庄の武士、
漆間時国(うるまときくに)の子と
して生まれられた。

幼名は勢至丸と名づけられたが、
それは阿弥陀仏の脇士の二菩薩、
観音菩薩(慈悲の象徴)
勢至菩薩(智慧の象徴)
のうちの勢至菩薩から
名づけられたものであった。

勢至丸はその名のごとく、
幼少のころより極めて賢い子供で
あったと伝えられていた。

勢至丸9才の時、その生涯を
決する大事件が起こった。

このころ、時国の所領にほど近い所に、
源定明(みなもとのさだあき)
という武者があった。
ふとしたことから時国に
大層の恨みを抱き、
ある夜半、大勢の手下とともに、
時国の館を襲ったのだ。

不意の出来事に時国は一人、奮戦したが、
何といっても多勢に無勢、
たちまち斬り伏せられてしまった。
騒ぎに目を覚ました勢至丸が
時国の寝所に行ってみると、
既に賊どもの姿はなく、
体の各所に致命傷を受けた時国が
虫の息で横たわっていたのである。

「おとうさん、さぞかし
 無念でございましょう。
武士が互いに一騎討ちをして
武芸つたなく敗れたのであればともかく、
 寝首をかきに来るとは
 何たる卑怯な賊どもでしょう。
 しかし、お父さん、
敵は勢至丸が成長した暁には
 必ず取ってご覧に入れます。」

勢至丸はけなげに、
臨終の父に敵討ちを誓った。

聞いた時国、

「勢至丸よ、敵討ちの志は嬉しいが、
 それは父の望むところではない。
 私の死は、私自身の
 前世の業縁によるのだ。
 もし、そなたの敵討ちが
 成就したとしても、
 敵の子は次に、
 そなたを敵と狙って、
 幾世代にもわたり、
 争いは絶えないであろう。
 愚かなことだ。
 もし、父のことを思ってくれるのなら、
 出家して日本一の僧侶となり、
 父の菩提を弔ってくれ。
 これがそなたへの最後の望みだ」

と言いつつ息絶えた。

時国の遺言は勢至丸の
心の中に深く刻み込まれた。
勢至丸はそれに従い、
出家を決意する。

この法然上人のお父さんの
ようでありたい。

仇討ちは、またその仇を
生み出すだけなのだ。




人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑯伊賀越えの仇討ち)

2011年06月20日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑯伊賀越えの仇討ち)

寛永7年(1630年)7月11日、
岡山藩主池田忠雄が
寵愛する小姓の渡辺源太夫に
藩士河合又五郎が
横恋慕して関係を迫るが、
拒絶されたため
又五郎は逆上して
源太夫を殺害してしまった。

又五郎は脱藩して江戸へ逐電、
旗本の安藤次右衛門正珍に
かくまわれた。

激怒した忠雄は
幕府に又五郎の引渡しを
要求するが、
安藤次右衛門は旗本仲間と
結集してこれを拒否し、
外様大名と旗本の面子を
かけた争いに発展してしまう。

寛永9年(1632年)、
忠雄が疱瘡のため急死した。

よほど無念だったのか、
死に臨んで又五郎を
討つよう遺言する。

子の光仲が家督を継ぎ、
池田家は因幡国鳥取へ
国替えとなる。

幕府は、喧嘩両成敗として
事件の幕引きをねらい、
旗本たちの謹慎と
又五郎の江戸追放を決定する。

しかし、源太夫の兄・渡辺数馬は
仇討ちをせざるをえない立場に
追い込まれた。

戦国時代よりの仇討ちの
習いとしては兄が弟の、
父祖が子孫の、
主君が配下の
仇を討つことは
異例なことであったが、
主君忠雄の遺言による
上意討ちの内意を含んでいた。

数馬は国替えに従わず、
仇討ちのために脱藩する。

剣術が未熟な数馬は
姉婿の郡山藩剣術指南役
荒木又右衛門に助太刀を依頼する。

数馬と又右衛門は
又五郎の行方を捜し回り、
寛永11年(1634年)11月に
又五郎が奈良の旧郡山藩士の
屋敷に潜伏していることを
突き止める。

又五郎は危険を察し、
再び江戸へ逃れようとする。

数馬と又右衛門は
又五郎が伊賀路を通り、
江戸へ向かうことを知り、
道中の鍵屋の辻で
待ち伏せすることにした。

又五郎一行は又五郎の叔父で
元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、
妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが
護衛に付き、総勢11人に達した。

待ち伏せ側は数馬と又右衛門
それに門弟の岩本孫右衛門、
河合武右衛門の4人。

11月7日早朝、待ち伏せを知らず、
鍵屋の辻を通行する又五郎一行に
数馬、又右衛門らが切り込み、
決闘が始まる。

孫右衛門と武右衛門が
馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、
半兵衛に槍が渡らないようにした。

又右衛門は馬上の
河合甚左衛門の足を斬り、
落馬したところを切り伏せた。

次いで、又右衛門は
孫右衛門と武右衛門が
相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。
このとき武右衛門が斬られて
命を落としている。

頼みとしていた河合甚左衛門、
桜井半兵衛が討ち取られたことで、
又五郎側の多くは戦意を喪失し、
逃げ出してしまった。

逃げ遅れた又五郎は
数馬、又右衛門らに取り囲まれた。

又五郎を倒すのは数馬の役目で、
この二人は剣術に慣れておらず、
延々5時間も斬り合い、
やっと数馬が又五郎に
傷を負わせたところで、
又右衛門がとどめを刺した。

俗に又右衛門の「36人斬り」と
言われるが、実際に
又右衛門が斬ったのは2人である。

また、決闘地の領主である
津藩藤堂家が又五郎一行の
情報を提供したり、
兵を密かに配置し、
決闘が始まると周囲を封鎖し、
又五郎の逃走を阻止するなど、
数馬、又右衛門らを
支援していたともいわれる。

支援の理由はこの事件を
外様大名と直参旗本との
争いとみなしたためと見られる。

見事本懐を遂げた数馬と
又右衛門は世間の耳目を集めた。

特に、実質仇討ちを主導した
荒木又右衛門は賞賛を浴びた。




人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑮曽我兄弟の仇討ち)

2011年06月19日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑮曽我兄弟の仇討ち)

正月の初夢に見ると
縁起が良い夢をあげて

「一富士、二鷹、三なすび」

という伝統的な表現がある。

これは一説には
江戸時代の中頃から
「三大仇討ち」として
喧伝されてきた

「曾我兄弟の仇討ち」
「赤穂浪士の討ち入り」
「伊賀越えの仇討ち」

から来ているといわれる
ようになった。

「曾我兄弟の仇討ち」は
曾我兄弟が富士の裾野で
巻狩りが行なわれた際に
これに乗じて仇討ちを
行なったことで

「いちふじ」

といわれるようになった。

「赤穂浪士の討ち入り」は
播州赤穂藩浅野家の家紋が
「丸に違い鷹の羽」
だったことから

「にたか」

と言われている。

「伊賀越えの仇討ち」は
伊賀国はなすびの産地として
知られていたことから

「さんなすび」

と言ったのである。

その曽我兄弟の仇討ちとは
どんなことであろうか。

曽我兄弟の父、
河津三郎祐泰(すけやす)が
伊豆の伊東で工藤祐経(すけつね)の
従者によって暗殺されたのは、
安元二年(1176) 十月、
伊豆奥野で行われた
狩の帰途であった。

暗殺の背景には、
祐泰の父伊東祐親と
工藤祐経との間に
伊豆久須美荘をめぐる
所領争いがあったという。

兄の曽我十郎祐成(すけなり)、
弟の曽我五郎時致(ときむね)は
武士道の面目にかけて
仇討の達成を念願した。

兄弟の母は、
身辺の平穏を望み、
わが子に仇討ちの志を
捨てさせようとしたが、
兄弟の父への思慕と、
仇祐経に対する憎しみは強く、
兄弟は仇討ちの初志を
貫く心づもりであった。

今から約830年前の
建久4年(1193)5月28日、
源頼朝が富士山麓を
舞台に大巻狩を催し
最後の狩場として
白糸の滝付近に陣を
構えた。

工藤祐経の陣は
音止の滝の東方にあり、
兄弟はこの夜、
松明を手に幾つもの
木戸に防げられながらも、
ついに仇討ちを
成し遂げた。

17年の歳月をかけ、
本懐を成就したのである。

兄弟は駆けつけた
部下たちと渡り合い、
兄十郎は斬殺され、
弟五郎は捕らえられた。

翌29日。五郎に対する
尋問が行われ、
夜討ちの本意をただしたところ
五郎は将軍の面前で
直に言上したいと言いはり、
許され述べた。

ついで五郎は、
拝謁を遂げた後は
面前で自害する
つもりだったといい、
皆を驚かせた。

兄弟の仇工藤祐経は、
頼朝の寵臣でしたので、
その人を討つということは、
頼朝を中心とする
東国の武家秩序に対する
反逆であった。

従って仇討ち成就は
死を覚悟しての行動であったのだ。

頼朝は五郎が稀代の勇士で
あるため助命を考えたが、
祐経の遺児の嘆きを見て、
断首による処刑を申し渡した。



人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑭大石内蔵助の最期)

2011年06月18日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑭大石内蔵助の最期)

元禄16年(1703年)2月4日、
4大名家に切腹の命令がもたらされる。

同日、幕府は吉良家当主吉良義周の領地没収と
信州配流の処分を決めた。

切腹前夜、4家のそれぞれにおいて
義士達の旅立ちの祝宴が開かれた。
これに対し4家は破格の
ごちそうを提供している。

そして2月4日
義士達は名誉ある切腹により
主君長矩の元に旅立った。

大石45歳であった。
彼の辞世の句が残されている。

「あら楽や、心は晴るる 身は捨つる
   浮き世の月に かかる雲なし」

(「楽し」ではなく「楽や」)

しかしながら上記は
浅野長矩の墓に対してのもので、
実際には次が辞世の句である。

「極楽の 道はひとすぢ 君ともに
 阿弥陀をそへて 四十八人」

大石内蔵助の介錯を勤めたのは
細川家家臣安場一平であった。

安場一平は江戸細川藩邸で
大石切腹の介錯をした同藩士。
当時介錯するのは
身分の低い下級武士が
習わしとなっており、
安場も三十石二人扶持の小身者だった。

ところが切腹直前に大石から

「あなたはどのぐらいの武士なのか」

と聞かれた安場は、
小身者と言っては
身分の高い大石に失礼だと思い

「二百石」

と嘘をついてしまった。

このことが胸に刺さり
悩んでいた安場は
その後、詫びる気持ちで
大石の命日には
その格に合った衣装を着け
ひそかに高輪の泉岳寺へ
墓参を続けていた。
やがてこのことは
主家に知られてしまうが、
家老らが安場の礼節をたたえ、
二百石を与えねぎらったという。


人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑬大石内蔵助の不覚)

2011年06月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑬大石内蔵助の不覚)

あの大石内蔵助にも、
こんな不覚があったという。
仇討ちを恐れて吉良方では
十重二十重に守りを
かためているので、
大石は相手を欺くのに
日々廓あそびに耽った。

大石を深く信じていた人たちも、
度のすぎる遊蕩三昧にあきれる。

「一体、大石はどうしたのじゃ」

「酒と女に腰が抜けては、
 仇討ちは無理じゃろ」

「人は、あてに
 ならんものじゃのお」

「いや、彼の本心は
 変わっていない」
 
かねてから大石内蔵助に
好意をもっていた者たちまでもが、
種々に沙汰するほどだった。

その中の一人の賢い男が、

「それとなく大石の
 本心を探ってみよう」

と一本の掛け軸を持って、
山科へ出かけてゆく。

内蔵助がいつも通る、
道端の茶店の親爺に、

「相変わらず大石殿は、
 ここをお通りになるかな」

と尋ねると、

「お武家さま、あんな者に
 大石殿と殿などいりません。
 大石か軽石か漬物石か
 知りませんが、まことに
 情けない男です」

と大変な軽蔑ぶり。

「まあまあ、そう言うな。
 実は、そなたに
 頼みがあるんじゃが」

「はい。私にできること
 ならなんなりと……」

「それでは大石殿が
 ここを通られたら、
 この軸に賛を頼んで
 もらいたいのじゃ」

「へぇ! サンですか。
 たしか大石は男だったと
 思いますが、男に
 お産させるんですか」

「いやいや、サンというのは
 軸の絵に合った言葉を
 書いて貰うことなのじゃ」

「へぇ! サンとは、
 字を書いて貰うことですか」

「それでなあ、
 首尾よく大石殿に
 書いてもらえたら、
 おまえに二十両の
 褒美を遣わす」

「へぇ! 二十両も……」

それまで内蔵助が来ると
シオをまいていた男が、
それからは、
まだかまだかと
待つようになった。

そこへ何時ものように、
フラフラに酔った大石が、
女たちに支えられながら
やって来る。

今までとガラリと
態度を変えた茶店の親爺が、
慇懃に、

「大石さま、いつも
 ご機嫌うるわしゅう
 ございます。
 つきましては私、
 京でこんな軸を
 求めて参りましたが、
 ぜひ大石さまに
 賛をお願いしたいのですが……」。
 
深く頭を下げてたのむと、
快く承諾した大石は
女たちを外に待たせて
独り奥の間に入っていく。

ピシャリと襖を閉めると
同時にシャンとなった
大石は、しばらく軸の絵を
ジッと見つめる。

そこには、濁った池に
身を潜めている魚を、
狙っているカワセミが
描かれていた。
カワセミは魚を捕る
名手である。

やがてサラサラと
書き終えて出てきた
内蔵助は、また
ぐでんぐでんに酔った
ふりをしていたという。

墨痕鮮やかに軸には、
こう記されていた。

「濁りえの 
   にごりに 
     魚はひそむとも
 などかわせみの
   とらでおくべき〟
 
にごりえに潜む魚を
吉良上野介にみたて、
狙うカワセミを己に
引き当てての
大石内蔵助の決意であった。

帰宅した内蔵助が、
ついつい本音を
漏らしたことに
気がつき、
こう叫んだという。

「大石一生の不覚じゃ。
 だれかあの軸を
 五十両でも百両でもよい。
 早く買い求めてくるのだ」
 
すぐに家来が飛んだが
後の祭り。
すでに掛け軸は
人手に渡っていた。

もし吉良側の手に
渡っていたら、
あの仇討ちは
成功していたかどうか
とさえ言われている。