人間の実相を語る歴史人(赤穂浪士⑭大石内蔵助の最期)
元禄16年(1703年)2月4日、
4大名家に切腹の命令がもたらされる。
同日、幕府は吉良家当主吉良義周の領地没収と
信州配流の処分を決めた。
切腹前夜、4家のそれぞれにおいて
義士達の旅立ちの祝宴が開かれた。
これに対し4家は破格の
ごちそうを提供している。
そして2月4日
義士達は名誉ある切腹により
主君長矩の元に旅立った。
大石45歳であった。
彼の辞世の句が残されている。
「あら楽や、心は晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし」
(「楽し」ではなく「楽や」)
しかしながら上記は
浅野長矩の墓に対してのもので、
実際には次が辞世の句である。
「極楽の 道はひとすぢ 君ともに
阿弥陀をそへて 四十八人」
大石内蔵助の介錯を勤めたのは
細川家家臣安場一平であった。
安場一平は江戸細川藩邸で
大石切腹の介錯をした同藩士。
当時介錯するのは
身分の低い下級武士が
習わしとなっており、
安場も三十石二人扶持の小身者だった。
ところが切腹直前に大石から
「あなたはどのぐらいの武士なのか」
と聞かれた安場は、
小身者と言っては
身分の高い大石に失礼だと思い
「二百石」
と嘘をついてしまった。
このことが胸に刺さり
悩んでいた安場は
その後、詫びる気持ちで
大石の命日には
その格に合った衣装を着け
ひそかに高輪の泉岳寺へ
墓参を続けていた。
やがてこのことは
主家に知られてしまうが、
家老らが安場の礼節をたたえ、
二百石を与えねぎらったという。
元禄16年(1703年)2月4日、
4大名家に切腹の命令がもたらされる。
同日、幕府は吉良家当主吉良義周の領地没収と
信州配流の処分を決めた。
切腹前夜、4家のそれぞれにおいて
義士達の旅立ちの祝宴が開かれた。
これに対し4家は破格の
ごちそうを提供している。
そして2月4日
義士達は名誉ある切腹により
主君長矩の元に旅立った。
大石45歳であった。
彼の辞世の句が残されている。
「あら楽や、心は晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし」
(「楽し」ではなく「楽や」)
しかしながら上記は
浅野長矩の墓に対してのもので、
実際には次が辞世の句である。
「極楽の 道はひとすぢ 君ともに
阿弥陀をそへて 四十八人」
大石内蔵助の介錯を勤めたのは
細川家家臣安場一平であった。
安場一平は江戸細川藩邸で
大石切腹の介錯をした同藩士。
当時介錯するのは
身分の低い下級武士が
習わしとなっており、
安場も三十石二人扶持の小身者だった。
ところが切腹直前に大石から
「あなたはどのぐらいの武士なのか」
と聞かれた安場は、
小身者と言っては
身分の高い大石に失礼だと思い
「二百石」
と嘘をついてしまった。
このことが胸に刺さり
悩んでいた安場は
その後、詫びる気持ちで
大石の命日には
その格に合った衣装を着け
ひそかに高輪の泉岳寺へ
墓参を続けていた。
やがてこのことは
主家に知られてしまうが、
家老らが安場の礼節をたたえ、
二百石を与えねぎらったという。