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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(法然上人の見られた夢告)

2011年07月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人の見られた夢告)

法然上人は、43歳の時に
善導大師が『仏説観無量寿経』
を解釈された『観無量寿経疏』の
一文により、
数あるお釈迦様の教えの
中から本願念仏一つを選びとられ、
専修念仏の教えを
確立された。

善導大師は、『観経疏』の最後に

「この観経の要義を出して、
 古今を楷定せんと欲す。
 (中略)
 一句一字加減すべからず。
 写さんと欲するものは、
 もつぱら経法のごとく
 すべし、知るべし」
 (観無量寿経疏)

と、一字一句たりとも
おろそかにせず、
この書物を書き写すときは
仏のみ教え、すなはち、
「経法」と同じように
しなければならない
と述べられている。

その善導大師を法然上人は
如何に敬っておられたか、
『選択本願念仏集』の末尾に、

「唐では、善導は
 阿弥陀仏の化身である
 と言い伝えられている。
 そうであるならば、
 『観経疏』は
 阿弥陀仏の直説である」

と書いておられる。

法然上人は善導大師を
阿弥陀仏の化身と
崇めておられるのだ。

それまでは、厳しい修行
戒律をまもる聖道の教え、、
悟りの道をきわめるのが
お釈迦様以来の仏道で
あると思われていた。

しかし、この道は一部の男の
エリート僧にしか
実践できない道でもあった。

では、他の人々の救いは
どうするのか。

十方衆生の救済は
弥陀の本願念仏しかないことを
法然上人は善導大師の
『観無量寿経疏』を通して
明らかにされた。

法然上人が自身の
専修念仏の根本奥義を
明らかにした
『選択集』を完成した直後、
建久9年5月1日の夜、
はるかに時間と空間を
隔てた二人の始祖、
善導大師と法然上人が
法然上人の夢をかりて
宗教的交感を遂げた時、
二人の間で交わされた。

その夢のシーンは
『法然上人絵伝』七巻に
この上なく美しく
幻想的に描かれているだけでなく、
『西方指南書』の中で
「法然聖人夢想記」
として感動的に語られている。

ある夜、法然上人は夢を見られた。

「やがて、この雲の中より、
 墨染め衣をまとった僧が現れ、
 法然のところに降りてきた。
 よく見れば上半身は
 墨染めの衣をまとい、
 下半身は金身であった。
 法然は、合掌し、
 あなたは誰ですかとたずねた。
 僧は答えた。

 『我はこれ善導なり。
  汝、専修念仏の法を
  ひろむる故に、
  証とならんが為に
  来たれるなりと』」
 (法然上人御夢想記)

と記されている。

この夢告により、
善導大師と法然上人は
共に選択本願念仏のみが
全ての人が救われる
たった一本の道であることを
明らかになされたのである。



人間の実相を語る歴史人(法然上人 選択本願念仏集・捨閉閣抛)

2011年07月15日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 選択本願念仏集・捨閉閣抛)

『選択本願念仏集』は、
建久9年(1198年)、
関白九条兼実の要請によって、
法然が撰述された
2巻16章の論文である。
一般には『選択集』と略称される。

浄土三部経の経文を引用し、
それに対する
善導大師の解釈を引き、
さらに法然上人御自身の
考えを述べている。

末法においては称名念仏だけが
相応の教えであり、
聖道門を捨てて
浄土門に帰すべきで、
雑行を捨てて
念仏の正行に帰入すべき
と説いている。

それまでの観想念仏を排して
阿弥陀仏の本願を
称名念仏に集約することで、
仏教を民衆に開放することとなり、
浄土教の歴史の中で
画期的な意義を持つ聖教である。

1212年に刊行されると、
高名な仏教学者の
特に善導大師の書を引用し、
弥陀の本願の救いを
説いた書である。

確固たる学問的な根拠を示して、
弥陀の本願によらなければ
絶対に救われないから、
聖道仏教はさしおいて、
浄土仏教へ入れ、
と徹底して教える「選択集」は、
仏教界に水爆級の衝撃を与えた。

『選択本願念仏集』には
聖道門の「捨閉閣抛」が
始終一貫、説かれてあった。

捨(しゃ)=捨てよ。
閉(へい)=閉じよ。
閣(かく)=さしおけよ。
抛(ほう)=なげうてよ。  

華厳宗の明恵は
生前の法然上人を
高徳な人格だと尊敬していたが、
法然上人の死後
「選択集」を読んで激怒し、
すぐさま『摧邪輪』三巻で反論した。

これを皮切りに反論書が
次々出されたが、
擁護する書も後を絶たず、
激しい応酬となった。

当時の仏教界は『選択集』を
中心に動いていた。

色々な『選択集』の解説書がでたが、
親鸞聖人の『教行信証』によって、
初めて法然上人の
御意が明かになったのである。

「しかるに愚禿釈の鸞、
建仁辛酉の暦、
 雑行を棄てて本願に帰す。
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて
 『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、
 「選択本願念仏集」の内題の字、
 ならびに「南無阿弥陀仏 
  往生之業 念仏為本」と
 「釈 釈空」の字と、
 空の真筆をもって、
 これを書かしめたまひき。
 --乃至--、
 『選択本願念仏集』は、
 禅定博陸 月輪殿兼実、
 法名円照の教命によりて
 選集せしめるところなり。
 真宗の簡要、念仏の奥義、
 これに摂在せり。
 見るもの諭り易し。
 まことにこれ
 希有最勝の華文、
 無上甚深の宝典なり。
 --乃至--
 慶ばしいかな、
 心を弘誓の仏地に樹て、
 念を難思の法海に流す。
 深く如来の矜哀を知りて、
 まことに師教の恩厚を仰ぐ。
 慶喜いよいよ至り、
 至孝いよいよ重し。
 これによりて、真宗の詮を鈔し、
 浄土の要をえらぶ。
 ただ仏恩の深きことを念うて、
 人倫の嘲りを恥ぢず。
 もしこの書を見聞せんもの、
 信順を因とし、疑謗を縁として、
 信楽を願力に彰し、
 妙果を安養に顕さんと。」
(教行信証後序)




人間の実相を語る歴史人(法然上人 大原問答)

2011年07月14日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 大原問答)

当時、法然上人は智慧第一、
勢至菩薩の化身と
尊崇されていた。

とりわけ法然上人の
名をとどろかせたのが、
1186年法然上人53歳の時、
大原勝林院で行われた
大原問答である。

法然上人には多くの帰依者があり、
天台宗や法相宗の学者たちも
その存在を無視できなくなってきた。

しかし、相手は一切経を
丸暗記しておられる
智恵第一の法然上人である。
各宗派の僧侶は分担を決め、
法然上人に相対した。

法然上人は

「これほど真実開顕の
 絶好の機会はないではないか。

と、身の周りの世話をする
数人のお弟子を伴われ
大原と向かわれたのである。

大原での法論は
聖道門各宗派380余人、
主に天台座主顕真と法然上人との間で、
浄土教の念仏により
極楽往生できるかどうか
行われた問答であった。

京都吉水の法然上人。
日増しに参詣者が増えることが、
各宗のねたみの的になり、
洛北・大原の勝林院で、
各宗の代表380余人と
法然上人の法論が
なされることになった。
寺の周囲には
2000人余りの僧侶も
集まってきていた。

法論の途中、お師匠様の身を
案じた熊谷次郎直実が
乗り込んできた。

直実は法然上人より
蓮生房の法名を頂いていた。
直実といえば泣く子も黙る
といわれた源氏の旗頭で
あった男である。

「お師匠様に指一本でも
 触れた者にはこの熊谷、
 ただではおかぬぞ」

と大声をあげた。
法然上人がすかさず

「これ蓮生房、控えおろう」

と叱りつけられる。

と、あの熊のような大男が
頭を地べたに押し付けながら、
部屋から退出したのである。
その光景を見て、
また大衆が驚いた
というエピソードも残っている。

勝林寺には漆塗りの
問答台が左右に一対、
対峙している。
法然上人がその一方に上がる。

天台座主が、口火を切る。

「浄土門が、聖道門より
 優れているとは、
 どういうことか」

すかさず法然上人は

「お釈迦さまの教えに
 優劣はないが、
 仏教はなんのために
 説かれたか。
 衆生の迷いを転じて、
 仏のさとりに至らすため。
 衆生を救う点において、
 浄土門のほうが優れている。
 聖道門は、人を選ぶではないか。
 経典を学ぶ知恵のない者、
 修行に耐える精神力のない者は
 求められぬ。
 欲や怒りのおさまらぬ者は、
 救われないと
 いうことではないか。
 自力聖道の教えでは、
 戒、定、慧の三学の修行、
 すなわち、
 煩悩をおさえ、
 煩悩をさえぎり、
 煩悩を断つ修行を
 長期間積まねば
 仏に成れぬと
 説かれている。
 
 さらに厳しい戒律が、
 男に250、女に500ある。
 いったい、完全に
 実行できる人は
 どれだけあるのか。
 ほとんどの大衆は
 救われないではないか。

 しかし、浄土の法門はちがう。
 欲の止まぬ者も
 怒りの起こる者も、
 愚者でも智者でも、
 悪人でも女人でも
 侍でも農民でも商人でも
 職人でも乞食でも、
 全く差別がない。
 平等に救われるのだ。

 なぜならば、阿弥陀如来が、
 すべての人を必ず救う、
 と誓っておられる。
 しかも、末法の今日、
 聖道門の教えで救われる人は
 一人もいないと
 お釈迦さまは仰言っている」

天台座主が言葉を失い、
高野山の明遍が根拠を求める。

法然上人は5回一切経を
読破しておられる。
淀みなく経典の根拠をあげられた。

法然上人は一切経を
丸暗記されている
お方である。

「『賢劫経』や『大集経』には、
 釈尊入滅後、500年間を
 正法の時機とし、
 その後1000年を像法の時機、
 像法後1万年を末法の時機、
 と説かれる。
 像法の時機には、
 さとりをうる者はひとりもなく、
 末法には教えのとおり
 修行する者さえ
 いなくなると、経典にある。
 すでに現在は末法。
 自力の修行では、
 成仏得道の道は断たれている」

天台座主が言葉を発する。

「末法だから助からぬというなら、
 浄土門も同じではないか」

法然上人はここぞとばかり
真実開顕される。

「いや、お釈迦さまは、
 『大無量寿経』に、
 「当来の世に経道滅尽せんに、
  われ慈悲をもって哀愍し、
  特にこの経を留めて
  止住すること百歳せん』
 と明言しておられる。
 これは、『法華経』など
 一切の経典が滅尽する、
 末法・法滅の時機が来ても、
 阿弥陀仏の本願が説かれる
 『大無量寿経』だけは
 永遠に残って、
 一切の衆生を幸福に導く、
 ということだ。
 だから、『大集経』にも、
 「当今は末法にしてこれ、
  五濁悪世なり、ただ
  浄土の一門有りて
  通入すべき路なり』
 と説かれている」

聖道仏教の者達は
どう対処していいか。
苦し紛れに、

「だが、阿弥陀仏以外の仏や
 菩薩や神に向くなとは、
 言いすぎではないのか」

法然上人はここぞとばかり
釈尊の御金言を説き切られる。

「一向専念無量寿仏、
 と『大無量寿経』にあるように、
 これはお釈迦さまの
 至上命令なのだ。
 決して法然が勝手に
 言っているのではない」

各宗の代表が次々に登壇し、
問答は一昼夜に及んだが、
法然上人はいかなる難問にも、
経典の根拠を挙げて、
よどみなく答え、
すべての学者を
ことごとく論破した。

論議は一日一夜に及んだが、
ついに法然上人に
軍配があがった。
法然上人の言葉に納得し、
高徳に打たれて満座の聴衆は、
声高に念仏を称え、
その声は三日三晩、
大原の山々に響いた
と伝えられている。


人間の実相を語る歴史人(法然上人 観無量寿経疏により本願に帰依)

2011年07月13日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 観無量寿経疏により本願に帰依)

法然上人が墨染めの衣で
向かわれたのは、黒谷である。

黒谷の報恩蔵には
当時、釈尊の一切経が
所蔵されていた。

法然上人は、天台宗を含めて、
それまで学んだ
いずれの宗派の教義を
もってしても
救われ難い自己の姿を
すでに知らされていた。

「善をなそうとしても
 善のカケラもなし得ず、
 悪をやめようとしても
 悪を造らずしては
 寸刻も生きてゆけない、
 そのような自分が
 廃悪修善を基調とする
 聖道門の教えで
 助かるはずがない。
 しかし、釈尊は
 このような者を救う道を
 必ず説いておられる筈である。
 そんな教えが一切経の
 どこかにあるに違いない」

法然上人はそう考えていた。

その教えを知るためにこそ
黒谷の報恩蔵へ来たのである。

黒谷の報恩蔵で法然上人は
尋常でない決意をした。

すなわち、

「一切経の中に
 自己の救われる道を知るまでは
 死を賭しても、
 この報恩蔵を出ない」

という覚悟である。

それ以来、来る日もくる日も
経典をひもとかれた。
七千余巻の一切経である。
それを一通り読むと
いうだけでも大変な作業だ。

手にされる一巻の経典に、

「この中にこそ」

と自己の救いの道を
期待して読み始め、
失望とともに一巻を閉じ、
次の経典をひもとく。

このようにして
一切経を一通り読まれた。

しかし、どこにも自分の
助かる道は説かれていない。
目の前が真っ暗に
なる思いであった。

「やはり自分のような者の
 助かる道はないのか。
 いやそんな筈はない。
 読み落としたに違いない。
 どこかに説かれているに
 違いない」

再び一切経を最初から
読み返そうと決心されたのであった。

「今、こうしている間にも
 無常は念々に迫ってくる。
 今死んだらどうなるのだ。
 いまだ救いの道は
 体得できていないではないか」

厳しく自己に言い聞かせ、
膨大な一切経を再度、
読み始められた。
ところが、二度目の一切経の
読破でも救われなかった。

一切経を幾度も読んで
ゆかれる法然上人。
しかし、一向に
魂の解決の道が分らない。

この時の源空上人の
煩悶する姿を、
ある書物は述懐として
次のように伝えている。

「また、凡夫の心は
 物にしたがいてうつりやすし、
 たとえば猿の枝につたうがごとし。
 まころに散乱して動じやすく、
 一心しずまりがたし。
 いかでか悪業煩悩の
 きずなをたたんや。
 悪業煩悩のきずなをたたずば、
 なんぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を
 解脱(げだつ)することをえんや。
 かなしきかな、かなしきかな。
 いかがせんいかがせん。
 ここに我達ごときはすでに
 戒(煩悩をさえぎり)
 定(煩悩を抑え)
 慧(煩悩をたちきる聖道門の修行)
 の三学の器にあらず。
 この三学のほかに
 我が心に相応する法門ありや」

三度目、四度目と、
想像を絶する持久力で
一切経読破の作業が続けられたが、
迫り来る無常を思えば、

「今、このまま死ねば、
 必ず無間地獄真っ逆様だ。
 いかがせん、いかがせん」

あふれる涙は頬を伝わり、
経典の上に滴り落ちる。
涙に濡れた経典を惰性のように
読み始めた五回目の中ほど、
中国の善導大師の書かれた
『観無量寿経疏』に、
大変な一文を
発見されたのであった。

善導大師の書かれた
『観無量寿経疏』
そこに書かれてあったのが、
次のご文であった。

「一心に専ら
 弥陀の名号を念じて、
 行・住・坐・臥 
 時節の久近を問わず、
 念々に捨てざる者、
 これを正定の業と名く、
 彼の仏願に順ずるが故に」

この文章を読まれた一念に
法然上人は、弥陀に救い
摂られたのであった。

「ここにあった!
 弥陀如来の本願こそ、
 愚痴と十悪の法然の
 救われる唯一無二の道だった。
 ああ、それにしても、
 極重の悪人、
 地獄しか行き場のない
 極悪最下の法然を
 救いたもうたとは、
 広大無辺な弥陀大悲の
 かたじけなさよ」

懺悔と歓喜で涙にくれ、
『観無量寿経疏』を手に
高々と報恩感謝の念仏を
称えられた法然上人。

当時の記録は、

「高声念仏」

と伝えている。

時に承安五年、
法然上人四十三才の御時であった。

絶対の幸福になられた法然上人は、
それ以来、京都吉水の禅房に移り、
万人の救われる阿弥陀如来の本願を
末法濁乱の世に
力強く説き続けられたのである。


人間の実相を語る歴史人(法然上人の出家)

2011年07月12日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人の出家)

勢至丸が最初に師と仰いだのは、
近隣の菩提寺の住職であった。

住職は幼い勢至丸の
並外れた聡明さに舌をまいた。
一を聞いて十を知り、
十を聞いて百を知る。
さらに、聞いたことは
二度と忘れなかった。

やがて住職は、これほどに
智恵勝れた勢至丸を
このような片田舎で
埋もれさせるのは
いかにも惜しいと、
比叡山行きを勧めた。

当時は、天台宗比叡山と
真言宗高野山が、
二大聖地として
仏教界に君臨していた。
天下の俊秀がこれらの山に
結集していたのである。

勧めに従って
勢至丸は、比叡入山を決意した。

その時、菩提寺の住職は、
叡山の僧侶あてに
送り状をしたため、文中、

「ここに文殊の像
 一体を進呈する」

と書いている。
比叡山の僧は、
送り状を見て、
どこに文殊の像があるか、
と一時思ったが、
やがて文殊の像とは勢至丸自身の
ことであることと悟った。

これだけでも住職が、
如何に勢至丸の
天才を認めていたかが分かる。

勢至丸は初め源光上人に師事。

15歳の時に同じく
比叡山の皇円の下で得度。
比叡山黒谷の叡空に
師事して

「法然房源空」

と改め、以来ひらすら
日本一の僧を目指して
切磋琢磨の年月を重ねた。

やがて水を得た魚のごとく、
学問はいよいよ深まり、
単に天台宗のみならず、
八家九宗といわれた
諸宗の教義にも
ことごとく精通した。

しかし、師の叡空すら
法然上人が真の知識と
仰ぐには至らなかった。

比叡山には叡空以上の
学者はいなかった。

ある時、叡空が
『観無量寿経』の講義の際、

「光明・照十方世界、
 念仏衆生摂取不捨」

と念仏が説かれたが、
この念仏が叡空は

「観念の念仏」

と、教えているのを
聞かれて法然上人は

「称名念仏ではないのですか」

と尋ねられた。

法然上人の言われることが正しく、
叡空は自分の誤りに気付き、
反論することができなくなった。

「これは観念の念仏でいいのだ」

「しかし、それでは
 お釈迦様の教えの真意を
 曲げることになるのでは」

「まだ言うか」

叡空は誤りを認め改めるどころか、
逆にその場にあった茶碗を投げつけ、
法然上人を破門している。

比叡の山にもう法然上人を
指導できる知識はおらなくなり、
一人での勉学、修行が始まった。

法然上人が四十歳を迎えたころ、
比叡山には肩を並べる者が
ない学識を備えるに至った。

比叡山天台宗の座主に
なられたのである。
名実もとに
日本一の僧侶となられた。

「ついて、父上の遺言を果たした」

と満足したのも束の間、
厳しく、内心に目を向けたとき、
いまださとりがえられず、
今にも死が来たならば、
必ず無間地獄に堕つる
暗い心しかなかったのである。

釈尊が仏法を説かれた目的は、
後生の一大事の解決である。
いくら名声や地位が得られても、
後生の一大事を解決していなければ、
迷いの衆生であり、
真の日本一の僧侶とは言えない。

そこに気づいた法然上人は、
一切の地位を投げ捨てても、
魂の一大事の解決を
求めずにはおれなかった。




人間の実相を語る歴史人(法然上人 父の遺言)

2011年07月11日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 父の遺言)

法然上人は親鸞聖人を
阿弥陀仏の救いに導かれた
直接の善知識である。

法然上人は長承二年(1133年)に
美作国(今の岡山県)稲岡庄の武士、
漆間時国(うるまときくに)の
子として生まれられた。

幼名は勢至丸と名づけられたが、
それは阿弥陀仏の脇士の二菩薩、
観音菩薩(慈悲の象徴)
勢至菩薩(智慧の象徴)
のうちの勢至菩薩から
名づけられたものであった。

勢至丸はその名のごとく、
幼少のころより極めて賢い子供で
あったと伝えられていた。

勢至丸9才の時、その生涯を
決する大事件が起こった。

このころ、時国の所領にほど近い所に、
源定明(みなもとのさだあき)
という武者があった。
ふとしたことから
時国に大層の恨みを抱き、
ある夜半、大勢の手下とともに、
時国の館を襲ったのだ。

不意の出来事に
時国は一人、奮戦したが、
何といっても多勢に無勢、
たちまち斬り伏せられてしまった。
騒ぎに目を覚ました勢至丸が
時国の寝所に行ってみると、
既に賊どもの姿はなく、
体の各所に致命傷を受けた時国が
虫の息で横たわっていたのである。

「おとうさん、さぞかし
 無念でございましょう。
武士が互いに一騎討ちをして
武芸つたなく敗れたので
 あればともかく、
 寝首をかきに来るとは
 何たる卑怯な賊どもでしょう。
 しかし、お父さん、
敵は勢至丸が成長した暁には
 必ず取ってご覧に入れます。」

勢至丸はけなげに、
臨終の父に敵討ちを誓った。

聞いた時国、

「勢至丸よ、敵討ちの志は嬉しいが、
 それは父の望むところではない。
 私の死は、私自身の
 前世の業縁によるのだ。
 もし、そなたの敵討ちが
 成就したとしても、
 敵の子は次に、
 そなたを敵と狙って、
 幾世代にもわたり、
 争いは絶えないであろう。
 愚かなことだ。
 もし、父のことを
 思ってくれるのなら、
 出家して日本一の僧侶となり、
 父の菩提を弔ってくれ。
 これがそなたへの最後の望みだ」

と言いつつ息絶えた。

時国の遺言は勢至丸の
心の中に深く刻み込まれた。
勢至丸はそれに従い、
出家を決意する。




人間の実相を語る歴史人(善導大師 観無量寿経疏に着手)

2011年07月10日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(善導大師 観無量寿経疏に着手)

天台・浄影・嘉祥によって
捻じ曲げられた
『観無量寿経』の仏意。

かかる浄土門の一大危機に一人、
敢然と破邪顕正に 
立ち上がられたのが
善導大師である。

まず三人の邪説を論破する為に、
自らの『観無量寿経疏』
執筆に着手された。

その際、

「今、我が述ぶるところ、
 仏の願意に叶いませば、
 夢中に霊相を示したまえ」

と日々、『阿弥陀経』を三遍、
念仏三万遍を相続され、
十方の諸仏に証明を請われたという。

すると、夜ごとに化仏が夢に現れ、
その指図のままに、
『観無量寿経疏』の筆を進められた。

「一字一句加減すべからず。
 写さんと欲する者、
 一に経法の如くせよ」
  
とただし書きしれおられる所以である。

善導大師は『観無量寿経疏』で、

・韋提希は権化の聖者ではなく、
 「心相羸劣」(しんそうるいれつ)
 と『観無量寿経』にあるから
 凡夫であること。

・南無阿弥陀仏は唯願無行でなく、
 十方衆生をこの世から
 絶対の幸福に救う、
 願行具足の大功徳であること

を立証し、
諸師の説を完膚なきまでに
粉砕してしまわれた。

南無阿弥陀仏の名号は諸師が言う
唯願無行では絶対にない。

何故なら
「南無というは帰命、
 亦是発願廻向の義なり、
 阿弥陀仏というは即ち、その行なり、
 如来既に発願して信順無疑、
 仰せに順うたと同時に
 其の人の行となる。
 願と行とが六字の中に、
 ととのえて有るから
 必ず往生が出来るのだ。
 願行具足といっても
 凡夫が願を起し、
 凡夫が行を修して行くのなら、
 凡夫の願行だから
 凡夫の世界にしか行けないぞ。
 仏の願行を機無、円成するが故に
 仏の世界に行かれるのだ。
 だから遠生の結縁では絶対にない。
 帰命の一念に必得往生できるのだ。」
 
大心海化現の善導でなければ
出来ない
古今楷定の妙釈により、
諸師は黙し、
『観無量寿経』を説かれた
釈迦牟尼如来の正意は
明かにされ、
万人の救われる大道が
開かれたのである。

以後、天台、浄影、嘉祥らの説を
一撃のもとに論破された
善導大師の雷鳴は
中国全土に響きわたり、
大衆は弥陀の法水を求めて
善導大師を慕い
集まるようになった。





人間の実相を語る歴史人(善導大師 道綽禅師との出会い)

2011年07月09日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(善導大師 道綽禅師との出会い)

善導大師が各地の名僧を
訪ね歩くうちに、太原の近く、
石壁の玄忠寺に
浄土門屈指の高僧、道綽禅師の
在すことを聞かれた。

「その方にお会いしたならば」

と厳冬の寒風をおかして、
数千里、一路、
玄忠寺に向かった。

ついに貞観十五年、
善導29才の時、
すでに80才の老境にあった
道綽禅師の門を訪ねられたのである。

善導の来訪を心から
喜ばれた道綽禅師は、
自分の後継者たるべき
若き善導に阿弥陀仏の本願と
『観無量寿経』の真意を
説き切られた。

道綽禅師は

「『観無量寿経』の真精神は
 『大無量寿経』を通してみて
 初めて分かる。
 定善十三観の観仏三昧は捨てもの。
 念仏三昧こそ一切三昧中の王であり、
 『観無量寿経』を説かれた
 釈尊の真意はそこにある」
 
と、『大無量寿経』の重要性を説いた。

かくて善導大師は、
道綽禅師の指南により、
長年の疑問が一度に氷解し、
『観無量寿経』の奥義を受得した。
大師は玄忠寺で、道綽禅師から
浄土門の真髄を学び続けられた。
そして四年後、禅師が
八十四歳で浄土往生されると、
長安に旅立たれた。
善導大師33才のころである。

善導大師が説法に用いられた
『観無量寿経』は
聖道門諸学者にも存在が注目され、
その解釈が流行となっていた。

なぜなら『観無量寿経』には、
聖道諸宗からは不可解
極まることが説かれていたからである。

1:韋提希夫人という平凡な一女性が、
  阿弥陀如来のお姿を拝した一瞬に
  絶対の幸福に救われ、
  等正覚という五十一段目の高い位に
  入ったと説かれている。

2:巻末に、どんな悪人でも
  阿弥陀如来の本願を信じ、
  称名念仏すれば極楽に往生できる
  と教えられていること。

2点とも、当時の常識では
到底理解できない。

わずかなさとりにも
血のにじむ、難行が必要なのに、
韋提希夫人は一日として
修行などしていないではないか。

また浄土往生には、必ず願と行が
具足しなければならぬのに、
極重悪人が称名念仏しても、

「阿弥陀さま。助けてください」

と繰り返すだけのことで
願はあっても行がない。
唯願無行だから、
救われるはずがないと考えた。

これらの疑問に、
天台、浄影、嘉祥たちは
解釈を競い、それぞれの
『観無量寿経疏』を著した。

が、内容は三者とも酷似していた。

1:韋提希は過去世から
  修行を重ねてきた
  権化の聖者。
  つまり、相当高いさとりを
  過去世に開いてしまった菩薩が、
  この世で仮に韋提希という姿で
  現れたのだから、
  容易に等正覚を得られた。

2:念仏往生は別時意趣。

  称名念仏で直ちに助かるのではなく、
  遠生の結縁となって、
  いずれの時にか浮かぶ縁となる。

と解説したのだ。

これら三師の説は
たちまち仏教界を風靡し
韋提希は権化の菩薩、
念仏往生は別時意趣の方便説、
と『観無量寿経疏』の真意は歪曲され、
凡夫往生の白道はまさに
風前の灯となってしまった。



人間の実相を語る歴史人(善導大師 観無量寿経との出会い)

2011年07月08日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(善導大師 観無量寿経との出会い)

善を実践しようとすれば
するほど、知らされる
真実の自己。

善導大師の善ができるか
どうかの煩悶が続く。

「どこかに悪人の
 救われる道があるはずだ、
 どこかに凡夫往生の道はない」

か、必死の探求が続けられた。

やがて目にとまったのが、
『観無量寿経』である。

『観無量寿経』とは、
釈尊が晩年にインド王舎城の
牢獄に幽閉された韋提希夫人に
阿弥陀仏の本願を説き、
浄土往生の道を
示されたものである。

「これだ!この経典こそ
 私の求めていたものだ」

「心想の散り乱れた
 凡夫の韋提希夫人が
 阿弥陀如来の見た一念
 大安心・大満足の
 絶対の幸福に救われた
 とあるではないか。
 ここにこそ私の
 助かる法があったのだ」

小踊りして喜ばれた善導大師は、
早速、釈尊が
『観無量寿経』に説かれている
定善十三観の修行に
打ち込んでゆかれた。

第一は日想観。
心を静め、太陽が西に
没する情景を心に思いながら、
阿弥陀仏とその浄土を
念ずる修行である。

次は水想観。
清らかで波一つない水面を
心に浮かべながら、
阿弥陀仏と浄土を念ずる。
このような修行方法が
十三通り説かれている。

ところが、どれだけ
経典通りに定善十三観の
修行を励んでも
『観無量寿経』中に
韋提希夫人が体験したような、
阿弥陀如来の絶対の救済に
あずかることはできなった。

「ああ、自分はまだ到底、
 この経典の深意が体得できない。
 これは然るべき名僧知識を
 求めなければならない」

こう決意した善導は
一転して求法の旅に
立ったのである。







人間の実相を語る歴史人(善導大師 30年寝処なし)

2011年07月07日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(善導大師 30年寝処なし)

618年、隋が滅亡し、
唐の建国により、
ようやく長い戦火が収まった。

しかし、国中は荒れ果て、
戦災で家を焼かれた群衆は
路上をさまよい歩いていた。

こうした世の乱れは幼い善導に
平和な世界をあこがれさせ、
母親と寺院で見た
浄らかな極楽の絵は、
その心を一層固いものに
したのである。

やがて三論宗の学匠、
明勝法師について出家し、
『法華経』や『維摩経』の
研鑚を重ねてゆかれた。

大師の修行の厳しさを伝記は

「三十余年、別の寝処なし」

と記している。
三十余年間、布団を敷いて
休まれなかったということである。

夜更けまで経典の勉強が続き、
そのまま机に伏すように
して休まれた。

また、

「曽て目を挙げて女人を視ず」

ともある。
淫らな心の生じないように、
一切、女性を見られなかったのだ。

しかし、厳格な戒律のもと、
『法華経』に従って自力修善に
向かえば向かうほど、
深刻な悩みに突き当たるようになる。

善導大師の修行は
峻烈を極め、煩悶は深まった。
それは、まことの善ができるのか、
ということである。

欲や怒りの煩悩は、
抑えようとすれば
するほど、渦を巻く。

そのまま外見だけ
身を慎んで修行しても、
修めた善には必ず
汚い毒が混じってしまう。

物を施せば心中に
お礼や見返りを
求める心がやまない。

修行に専念すればするほど、

「私ほど厳しい修行の
 できる者はないだろう」

という自惚れ心がわいてくる。

「ああ、私の為す善は
 すべて猛毒に汚されている。
 今まで、頭髪にかかった
 火の粉を払うほど真剣に、
 昼夜十二時、心身を
 励まして善に向かってきたが、
 すべては雑毒の善であった。
 心にまことの伴わぬ
 虚仮不実の行でしかなかった。
 こんな善を修めても、
 万が一にも生死の一大事、
 解決できるはずはない。
 上根の聖者を対象とした
 『法華経』の教えでは、
 到底、自分のような者は
 すくわれぬ」

絶望の深淵に
立たされたのであった。

しかし、善導は

「仏の経法は深広にして
 涯底なしと聞く。
 それならば、私のような 
 悪性さらに止め難い
 罪悪生死の凡夫といえども、
 釈尊の大悲はどこかに
 救いの道を説かれているはずだ」

と、すがるような思いで、
経蔵に引きこもって
一切経を一巻一巻、
ひもといていったのである。