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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(8)(平座の精神)

2010年10月03日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(8)(平座の精神)

蓮如上人のご布教の精神は
当時の仏教界を驚かせた。

親鸞聖人のみ教えを
無我に相承なされ、
そのご布教に、八十五年の
全生涯を捧げられた蓮如上人。

3頭の駿馬を買われ、
1頭の馬が疲れると
次の馬に乗り換えられて
全国を駆け回られた。

馬が疲れるということは
その馬に騎乗する人は
もっと疲れる。
その中を蓮如上人は布教の旅を
続けられたのである。

仏縁のある方がおれば、
1対1のご布教をなされる。

阿弥陀仏に救われた体験と
フルナの弁舌といわれるほど、
話が上手だった蓮如上人の
情熱あふれるご説法に
一人では勿体無いと
次のご縁には村中の人が
参詣されるようになる。

数年の内には村ごと、
他宗から浄土真宗に鞍替えすると
いうことになっていった。

蓮如上人が晩年、
子供さん達に足の指の間についたきらりと
黒光りした二本の線をみせられて

「蓮如上人、細々御兄弟衆等に
 御足を御見せ候、
 御草鞋の緒くい入り
 きらりと御入り候。
 斯様に京・田舎、
 御自身は御辛労候て、
 仏法を仰せひらかれ候由、
 仰せられ候いし」
  (御一代記聞書)

若い時には草鞋の緒が
食い込んで、黒光りするほど、
全国の人々に親鸞聖人のみ教え一つを
お伝えするために布教に
回られたことを話されておられる。

また、他宗の僧は説法の時、
高座で檀家の人を見下ろし、
見下したようにしていたのを
蓮如上人は平座で
聴衆の方と同じ目線で
説法なされていた。

「身をすてて平座にてみなみなと
 同座するは、聖人の仰にも、
 「四海の信心の人はみな兄弟」
 と仰せられたれば、
 我もその御言葉の如くなり。
 また同座をもしてあれば、
 不審なることをも問えかし、
 信をよくとれかし」と願うばかりなり
 と仰せられ候なり」
  (御一代記聞書)

それは親鸞聖人が
「四海の信心の人は、みな兄弟なり」
と仰有ておられるように
阿弥陀仏の前ではみな兄弟であり、
友達なのだから、

「分からないところがあれば、
 いつでも聞いてください」

との精神で生涯話をして
ゆかれたのである。

また、本願寺に参詣された御門徒に対しては

「御門徒衆上洛候えば、
 前々住上人仰せられ候。
 「寒天には御酒等の酣をよくさせて、
  路次の寒さをも忘られ候様に」
 と仰せられ候。
 又炎天の時は「酒など冷せ」
 と仰せられ候。
 御詞を和げわれ候。
 「又御門徒衆の上洛候を、
  遅く申入り候事、曲事」
 と仰せられ候。
 「御門徒衆を待たせ、
  遅く対面すること、曲事」
 の由仰せられ候」
  (御一代記聞書)

蓮如上人は門徒の道中の労をいやし、
少しでも真剣に聞法ができるようにと、
寒い季節には温かいお酒や雑煮を
暑い季節には冷酒で
もてなされている。




蓮如上人物語(7)(蓮如上人の御金言)

2010年10月02日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(7)(蓮如上人の御金言)

「我も知らぬことなり、
 何事も何事も知らぬことをも
 開山のめされ候ように御沙汰候」
  (御一代記聞書)

「我々の凡智で納得できなくても、
 ひたすら親鸞聖人(開山)の
 教えにしたがえば、必ず救われるのだ」

と教えられたお言葉です。

蓮如上人は『御文章』に、

「聖人一流の御勧化の趣は……」

「当流聖人の勧めまします安心というは……」

と常に、親鸞聖人のみ教えを
書かれている。

「今や教義を説くだけでは教えは伝わらない」

「親鸞聖人が、こうおっしゃったとか、
 教えはこうだ、というだけでは不十分だ。
 自分の考えを発表しなければ」

と言う人がいるが、
真宗再興の蓮如上人との
歴然たる違いを見る。

国を治めるのに必要なのは、
「兵、食、信」と『論語』にある。

もし削らねばならぬとしたらまずは
兵、次が食、残すのは信という。

生きていくには食こそ
不可欠と思いがちだが、
信なくば食は争いの種となり、
たちまち国は滅ぶだろうと答えている。

「信」がなければ国滅ぶ。
蓮如上人が吉崎御坊、
山科本願寺、石山本願寺と
建立してゆかれたのは
南無六字の城である。

ここから始まる〝国づくり〟は
「信」が要だ。

親鸞学徒の「信」は、
もちろん他力信心だが、
親鸞聖人のお言葉を示し、
正しくお伝えする、
これ以上の信頼はない。

姦雄信長10年の猛攻にも、
屈しなかった石山本願寺。

それは

「何事も何事も開山のめされ候
 ように御沙汰候」

と、親鸞聖人のみ教えを
そのまま伝えられた
蓮如上人以来の、
難攻不落の法城である。

南無六字の城の凄さは、
親鸞聖人のみ教えの凄さであり、
聖人のお言葉は、
私たちの千語万語も及ばぬ
重い一言と知らねばならぬ。

「聖人一流の御勧化」で生涯を貫き、
輝く親鸞学徒の本道を
往かれた蓮如上人こそ、
我々のお手本である。




蓮如上人物語(6)(親鸞聖人200回忌法要)

2010年10月01日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(6)(親鸞聖人200回忌法要)

1461年(寛正2年) 蓮如上人47歳の時、
親鸞聖人200回忌法要が行われた。

蓮如上人のご布教により、
親鸞聖人のご遺徳と慕って、
法要に参詣される方が急増した。

その中に蓮如上人と深く交流していたのが
トンチで有名な一休である。

一休は蓮如上人よりも21歳も年上だが、
お互いに尊敬しあっていた。

蓮如上人が浄土真宗の祖師親鸞聖人
の二百回忌法要を開かれた時、
一休も参詣者として訪れている。

そのときに一休が歌ったという、
次の和歌が残っている。

「襟まきの 
  あたたかそうな黒坊主 
   こいつの教え 
    天下第一」

親鸞聖人の御影前に対して、
なんと破天荒な和歌だろう。
あまりに砕けたところが
一休らしい。

また、浄土真宗の本願他力に
惹かれている様子が
ひしひしと伝わってくる。

一休と蓮如上人のトンチ合戦は
面白い。

ある夏の暑い日のことである。
蓮如上人が住まいする本願寺の
修復で本願寺の前庭には
多くの材木が置かれてあった。

そこに一人の風変わりな僧がやってきた。
夏に雨傘を被り、
その上には草がおかれてある。

そして、今から使う木材の上に
座ったまま、ニヤニヤ笑って
動こうとしない。

大工や蓮如上人の御弟子が
丁寧に動いてもらうように
頼むが一向にいうことを
きいてくれない。

ここは蓮如上人の智恵を
おかりしようと、弟子が
蓮如上人のもとへ行った。

その一部始終を聞かれた蓮如上人は
「そいつか、そいつになら、
 茶を一杯くれてやれ、
 去るじゃろう」

と言われたので、弟子は
半信半疑ながら、お茶を一杯
風変わりな僧侶に持っていった。

そのお茶を見た僧、
「流石は蓮如じゃわい」
と、お茶を飲み干し、
立ち去っていった。

驚いた弟子たちは
「一体、あの僧は誰ですか」
と尋ねた。

「あれか、あれは一休じゃ。
 俺に茶を一杯所望せよと
 トンチで言ってきたのじゃ」

「どうしてお茶と分られたのですか」

「一休はどの上に座っていたか」

「はい、木の上です」

「木の上に人が乗り、
 その上に草が置いてあれば
 草とは草かんむりで
 サという字であろう。
 それならば茶という字に
 なろう」

一休も一休だが、
それに答えられた
蓮如上人も凄い。

蓮如上人にトンチで負けた一休は
仕返しのつもりで本願寺を訪れた。

手には雀を一羽持っていた。

「おい蓮如上人、本願寺も
 綺麗に仕上がったな」

「一休か、今日は何をしにきたのじゃ」

「今からいう質問に答えてほしい」
と、雀を差し出す。

「この雀、生きておるか。
 死んでおるか」
と尋ねる。

しかし、これには一休の
しかけた罠があった。
どちらを答えても蓮如上人が
負けるようになっていたのだ。

「生きている」と言えば
殺してしまえばよいし、
「死んでいる」と答えれば
生かして離してやればよい。

これに気付かれた蓮如上人、
すかさず、答える。

「そちらの質問に答える前に
 こちらの質問に答えてくれぬか」

一休は嫌とは言えぬ。

そこで蓮如上人、
本願寺の本堂に上がる階段の
途中まであがられて、

「わしは上がるところか、
 降りるところか」

これには一休、降参した。
上るといえば、降りてしまえばよい。
降りると言えば、上ればよい。

またしても蓮如上人に
軍配が上がったのである。



蓮如上人物語(5)(千の中から一つ選りすぐられた御文章)

2010年09月30日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(5)(千の中から一つ選りすぐられた御文章)

蓮如上人の御文章はどのようにして
書かれたのか。

蓮如上人の法語や言行を記した『山科蓮署記』 には
こう記されている。

「教行信証文類、六要抄、
 表紙のやぶれ候ほど御覧じ候て、
 その後 御文を御作りなされ候、
 これ千のものを百に えり、
 百のものを十に えり、
 十のもの一に えりすぐりて、
 凡夫直入の金言を
 いかなるものも、聞き易く、
 やがて心得候うように
 あそばし候」

蓮如上人は『教行信証』を
表紙が破れるほど読み込まれ、
その中の大事なことを、
千の中から一つ選りすぐるようにして
御文章をお書きくだされたのだ。

御文章は五帖八十通にまとめられている。
一帖目から四帖目までは、ご執筆の年月順、
五帖目は、時期は不明だが、
大切なものが収められている。

中での有名なのが聖人一流の章だろう。

「聖人一流の御勧化のおもむきは、
 信心をもって本とせられ候。
 そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、
 一心に弥陀に帰命すれば、
 不可思議の願力よりして、
 仏のかたより往生は治定せしめたまう。
 そのくらいを「一念起入正定之聚」とも釈し、
 そのうえの稱名念仏は、
 如来わが往生をさだめたまいし、
 御恩報尽の念仏と、
 こころうべきなり」

親鸞聖人のみ教えの全て、
教行信証の教義の全てを
これだけ短いお言葉で
それも要を全て書き表した
御文章はどこにもない。

教行信証の千の中から
一つ選りすぐるようにして
御文章をお書きくだされた
蓮如上人だからできたことだ。

この御文章が

「凡夫往生の手鏡」

といわれるのは、
私たちが弥陀に救われるに、
大切な要は すべて書いてあるから、

「手鏡のように 常に手元に
 置いて拝読しなさいよ」

と いうことである。






蓮如上人物語(4)(画期的な布教革命、御文章の誕生)

2010年09月29日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(4)(画期的な布教革命、御文章の誕生)

蓮如上人が御文章を書かれたのは
1461年、上人47歳の時であった。

金森の道西は蓮如上人から
お聞かせ頂いた親鸞聖人のみ教えを
正確に分かり易く、一人でも多くの人に
お伝えしようとしていたが、
なかなかできないことに
苦しんでいた。

その苦悩を知られた蓮如上人は
御文章の作成を思いつかれる。

そして、最初にしたためられた御文が
金森の道西に当てられた御文章である。

「当流上人の御勧化の信心の一途は
 つみの軽重をいわず、
 また妄念妄執のこころのやまぬなんどという
 機のあつかいをさしおきて、
 ただ在家止住のやからは、
 一向にもろもろの雑行雑修の
 わろき執心をすてて、
 弥陀如来の悲願に帰し、
 一心にうたがいなくたのむこころの
 一念おこるとき、
 すみやかに弥陀如来光明をはなちて、
 そのひとを摂取したまうなり。
 これすなわち、仏のかたより
 たすけましますこころなり。
 またこれ信心を如来よりあたえたまうと
 いうもこのこころなり。
 さればこのうえには、
 たとえ名号をとなうるとも
 仏たすけたまえとはおもうべからず。
 ただ弥陀をたのむこころの
 一念の信心によりて、
 やすく御たすけあることの
 かたじけなさのあまり、
 如来の御たすけありたる御恩を
 報じたてまつる念仏なり
 と、こころうべきなり。
 これまことの専修専念の行者なり。
 これまた当流にたつるところの
 一念発起平生業成ともうすも
 このこころなり。
 あなかしこ、あなかしこ
 寛正2年3月日
 (1461年蓮如上人47歳)

蓮如上人は御文章でひらがなまじりの
平易な言葉で親鸞聖人のみ教えを
明らかにせられた。

まず、どんな罪深い人であっても
阿弥陀仏は信ずる一念で
救い摂られることを明らかに
しておられる。

これを信心正因という。

次に念仏は救いの手段ではなく、
阿弥陀仏に救われたご恩を
報じるために称えるものである。

これを称名報恩という。

しかも親鸞聖人のみ教えは

「平生業成」

死んでからではなく、
現在、ただ今、生きている時に
救われるのが
阿弥陀仏のお約束なのである。

蓮如上人から御文章を受け取られた道西は

「これ聖教なり、
 これ金言なり」

と言って讃嘆した。

そして門徒から門徒へ
競って書き写され。

一通の御文章が数十、数百、数千と
膨れ上がり、山を越え、谷を渡り、
全国に拡大していった。





蓮如上人物語(3)(法主就任に貢献した叔父如乗)

2010年09月28日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(3)(法主就任に貢献した叔父如乗)

1457年6月18日に父存如が没し、
継母如円とその息子応玄との
後継者争いにおいて、
叔父如乗の強力な後押しで
蓮如上人は43歳にして
本願寺八代目をを継がれた。

蓮如6歳のときに母上が
本願寺を去り、
入れ替わるように存如は
正室如円を迎えて以後、
蓮如上人は存如の長子とは言え、
何十年も庶子の扱いを受けていた。

当時ただでさえ貧しかった
本願寺の部屋住みとして
貧窮の中にありながら、
蓮如上人は親鸞聖人のみ教えを
真摯に学ばれるとともに、
そのころ隆盛していた真宗他派に
比べて衰微としか言いようのない
本願寺をなんとかしなければと、
15歳のとき決心したと
述べておられる。

蓮如上人の本願寺法主就任を
強く推した如乗は、
存如の実弟で蓮如上人の叔父ではある。
しかし、蓮如上人より3歳年上でしかない。

如乗が加賀国二俣の地に
本泉寺を建立したのが、
如乗31歳、蓮如上人28歳の時だから、
それ以前の2人は叔父甥の間柄を越えて、
兄弟のような付き合いをしていた。

そんな中で如乗は、
蓮如上人が親鸞聖人のみ教え振興の決心や
教学研鑚の様子から、
蓮如上人しか真宗再興ができる人はいないと
確信していた。

蓮如上人は如乗の恩を忘れず、
彼の自坊・二俣本泉寺に二男の蓮乗を、
如乗の娘婿として送り出している。

蓮如上人の本願寺法主就任直後、
破れた継母如円と弟応玄は
本願寺にあった経典などの
聖教類ほとんどを持ち出し、
加賀国大杉谷に逃げて
いってしまった。

継母如円はしばらくして前非を悔い、
1460年10月に死去、
弟応玄もその後、
蓮如上人の下に帰参した。

蓮如上人は真宗本願寺派の
振興に乗り出してゆかれた。

蓮如上人物語(2)(法主就任後、わずか数年で大教団へ)

2010年09月27日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(2)(法主就任後、わずか数年で大教団へ)

「参詣の人、一人もみえさせたまわず」
  (本福寺由来記)

といわれるほど、その当時の本願寺の
衰退は目に余るものがあった。

しかし、1457年6月18日に父存如が没し、
蓮如上人が、43歳で、
本願寺八代法主に就任されるや、
がぜん、様相が一変した。

数々の弾圧にあわれながらも、
浄土真宗は、我が国最大の
仏教教団に発展するのだった。

真宗再興の大事業は、
まず、近江(滋賀)一帯の
布教から始められた。

蓮如上人のご布教に、
『御文章』の果たした役割は、
実に、大きなものがあった。

『御文章』は、『御文』ともいわれ、
蓮如上人ご自身が、
親鸞聖人のみ教えを分かりやすく、
平易な文章で書かれたお手紙である。

門徒の集会の際に読み上げられ、
文字の読めない人たちにも
大きな感銘を与えた。
 
しかも、一通の御文章は、
次々に書き写され、
数十、数百にふくれ上がってゆく。

それは同時に、数十、数百の蓮如上人が、
各地で布教活動されているのと、
同じ効果をあげることになる。

蓮如上人は、生涯に
数百通の御文章を書かれた
といわれる。
この中から、八十通を
選んで編集されたのが、
朝晩の勤行で拝読している
『御文章』である。

最初の御文章は、
金森の道西の願いに
応える形で書かれた。

金森は琵琶湖東岸に位置し、
蓮如上人が法主になられる前から
法話をされていた所だ。

琵琶湖周辺には、金森のように、
門徒が集う道場(末寺)が
多くできていた。

漁民、職人、商人、農民と、
あらゆる階層の人々が、
仕事を終えてから道場に集まり、
御文章を拝読して、
信心の沙汰をするという会合が、
いくたびも繰り返されていた。

親鸞聖人の教えを知らされた人々は、
友人、知人に、熱烈に仏法を伝えた。
法の輪が、ますます拡大していっただ。

しかし、この急激な発展は、
当然ながら、他宗、旧仏教の、
ねたみ、反発を買った。

特に、近江(滋賀)に地盤を持つ
比叡山延暦寺を大きく刺激し、
弾圧の危機が、日ごとに
高まっていった。

蓮如上人物語(1)(浄土真宗の「中興の祖」)

2010年09月26日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(1)(浄土真宗の「中興の祖」)

浄土真宗の「中興の祖」と
仰がれる蓮如上人は、
八十五歳で、浄土へ
お還りになられた。

蓮如上人のご一生は、
あまりにも激しく、劇的で、
生命の危機に何度もあっておられる。
一体、何のためのご苦労で
あったのか。

それは、親鸞聖人のみ教えを、
正しく、一人でも多くの人に
お伝えする以外にはなかったのだ。

まさに親鸞学徒の鑑が蓮如上人である。

その波乱のご生涯を振り返ってみよう。

蓮如上人は応永22年(1415年)に、
本願寺第7代宗主存如上人の長男として、
京都東山大谷本願寺にて誕生された。

上人誕生当時の本願寺は、

「さびさびとしておあします。
参詣の人一人としてなし]
  (本福寺由来記)

と呼ばれた状態であり、
今日の本願寺からは想像も
できない程の寂れきった状態だった。

本堂の広さは、わずか三間四面(約十八畳)。
上京した堅田の法住が、
さびれ切った本願寺を眺めて失望し、
参詣者の多い真宗他派の仏光寺へ
鞍替えした例もあったほどだった。

上人が六歳になられたとき、
母上は上人を残して、
ひそかに本願寺を去られた。
上人のご生母は本願寺で働いていた方で、
いつしか父上の存如上人と
お互いのやさしい愛を育まれ、
上人が誕生された。

ところが、26歳になられた
存如上人に縁談が持ち上がったことを
知られた母上は、絵師にたのんで
鹿子の小袖を着た布袋丸さま(上人の幼名)の
絵を描かせて形見とされた。

「あなたは、親鸞聖人のみ教えを
 正しく伝えて、
 世の中の苦しむ人々の力に
 なってください。
 母はいつもあなたを見守っています」

上人は、いくたびか聞いた母上の言葉を、
胸の奥に秘めて、
健気にご幼少の時代を過ごされた。

蓮如上人は、ご成長と共に、
母上が残された言葉を心に刻み、

1429年15歳の時、
真宗興隆の志をたてられ、
勉学に勤しまれる日々を送られた。

17歳のとき、青蓮院で得度をされ、
法名を「蓮如」、諱を「兼寿」と名乗られた。
 
それからのご修学は、
貧しく苦しい暮らし向きの中で、
ひたすら浄土真宗のみ教えを
学ぶことに情熱を傾け、
励まれる日々であった。

やがて、人々の求めに応じて、
親鸞聖人のお聖教を
父上に代わり書写して与えられるなど、
人々の期待に十分に応え
本願寺の跡継ぎにふさわしい、
立派な方にご成長された。

1449年、蓮如上人35歳の時、
金森の道西や堅田の法住が
初めて蓮如上人のご説法を聴聞し、
人生の師はこの方と慕われるように
なったのである。

そして、蓮如上人43歳の時、
真宗再興の大きなる変革が
起こるのである。