goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(18)(吉崎再建と真宗の繁盛)

2010年10月17日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(18)(吉崎再建と真宗の繁盛)

吉崎御坊の出火の原因は何だったのか。
失火ともいわれているが、
当時の状況から放火の疑いが
強いといえる。

人々の心には、本光房了顕の殉教が
強烈に焼きついた。

「了顕に続け」と、門徒同朋の、
信仰のエネルギーは、
再建に向けられた。

かくて、再建工事は、
驚くほど急ピッチに進み、
2ヵ月後には、
以前にもまして立派な
吉崎御坊が完成した。


ある日、お弟子が蓮如上人に申し上げた。

「日々、参詣者が増えていきます。
 素晴らしい繁昌ぶりです。
 仏法は盛んになりました」

だが、上人は、否定された。

「一宗の繁昌と申すは
 人の多く集り威の大いなる事
 にてはなく候、
 一人なりとも人の信を取るが
 一宗の繁昌に候」
  (御一代記聞書)

浄土真宗の繁昌というのは、
人が多く集まり、
威勢がいいことではない。
と断言されている。

誰でも、人が少ないより多い方が
「繁昌」と思うのが当然だろう。
常識を真っ向から
破っておられる。

では、どうあるべきなのか。

「一人でも信心獲得することが、
 浄土真宗の繁昌なのだ」

と説かれている。

どれだけ参詣者が増えても、
信心決定する人がなければ
繁昌とはいえない。

他力の信心を獲て、
この世からまことの幸福に
救い摂られる人が一人でも
多く現れてこそ、
「浄土真宗の繁昌」
なのだと、
蓮如上人は教えられている。

当時は、秀吉、家康の天下統一から、
百年以上もさかのぼる乱世で、
各地で、激しい権力争いが
展開されていた。

蓮如上人は

「紛争に加担してはならぬ」

と厳戒しておられたが、
御心に反し、本願寺門徒は、
加賀(石川県)の政権争いに
巻き込まれたのである。

吉崎御坊の存亡のみならず、
蓮如上人のお命にまで
危機が迫った。

上人は、やむなく吉崎を
脱出された。

この時、蓮如上人61歳、
吉崎でのご教化は、
わずかに4年間だった。


蓮如上人が去られて数日後、
加賀の守護・富樫の軍勢が、
吉崎御坊へなだれこんだ。

血のにじむ浄財で再建された御坊は、
跡形もなく破壊されてしまった。

京都に次いで、吉崎でも。
蓮如上人のご心痛は、
いかばかりであっただろうか。







蓮如上人物語(17)(血染めの恩徳讃)

2010年10月16日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(17)(血染めの恩徳讃)

不審な火の手が揚がり、
吉崎御坊は瞬く間に火の海と化した。

蓮如上人は、拝読中の『教行信証』証の巻を
書院に置き忘れてしまわれたことに気付き、
取りに行こうとされたが法敬に制止された。

「しょ、上人さま、この猛火ではとても・・・!」

「ええい!放してくれ法敬!
 親鸞聖人ご真筆の『教行信証』、
 一巻たりとも失うわけにはいかぬ!
 ああ、この蓮如、
 祖師聖人さまに申し訳立たぬ・・・」

本光房が蓮如上人の御前で手をついた。

「上人さま、お許しくだされ。
 この本光房了顕、
 一命にかえても、
 その『教行信証』証の巻、
 お護り申し上げまする。
 何とぞ、何とぞ、
 この本光房にお任せくだされ」

「ほ、本光房か!」

「いざ!」

と脱兎の如く猛火の中へ
飛び込んで行った。

「浄土真宗の根本聖典、
 今こそお護り申し上げねば・・・」

必死で辿り着いた書院では、
証の巻がまだ燃えずに机の上に
残されているではないか。

「!しょ、証の巻!
 ああ、何と有り難い!!
 これぞ、如来聖人のご加護・・・」

と恭しく掲げる。

しかし浸っている場合ではない。
一刻も早くこの場を脱出せねばと、
今来た道を振り返るも、
今にも覆い被さるように、
猛火が容赦なく本光房を襲った。

「ああっ!」

周りを見渡しても、出口が見当たらない。

「ああ、何ということだ・・・」

親鸞聖人ご真筆『教行信証』証の巻を
お護りするため
猛火の中へ飛び込んだ本光房。
無事に証の巻を手にしたが、
脱出の術を失ってしまった。

「ああ、何ということだ・・・。
 もとよりこの場で
 我が命尽きようとも、覚悟の上。
 されど、されど、このお聖教、
 この御本典だけは
 お護り申し上げねば・・・
 上人さまとの誓いがたたぬ!
 どこかに逃れる術は、
 どこかに水は・・・!」

と、本光房は腕から
血が流れているのに気付いた。

「血だ・・・。そうだ、この血だ。
 この血によって、
 この御本典、お護り申し上げるのだ
 もう、それしかない!」

と、腰から短刀を引き抜いた。

「蓮如上人さま、
 多生にもお会いできぬ上人さまに、
 今生で会わせていただいた本光房。
 本当に、本当に幸せ者でございました。
 やがて散り行く露の命、
 護法のためならこの本光房、
 大本望でございます」

短刀を自分の腹に向ける。

「お許しくださいませ、
 上人さま、お先にお浄土へ・・・
 失礼いたしますっ!!」

と、一気に腹を十文字に切り立て、
奥深く証の巻を埋め込んだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

翌朝、吉崎御坊を焼き尽くした猛火も、
ようやく収まり始めた。

人々は火を分けて本光房の姿を必死で探した。

すると、一人が
「ほ、本光房だ!了顕殿が!」

蓮如上人はすぐさま駆け寄られ、
自ら、焼け残った畳と共に
本光房の屍をかき出し、
残り火を消された。

その姿は、右の手に刀を抜き持ち、
左の手は腹を抱え、
両眼は見開いていた。

「お、おお・・・本光房!我が過ちで、
 そなたをこんなことに・・・
 許せ、許せよ、本光房。
 許してくれ・・・
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

と、法敬が本光房の屍に目をやると、

「しょ、上人さま。
 腹が、本光房の腹が切れておりまする!」

「な、なんと!」

見ると、ハラワタを掴み出し、
お聖教を奥深く差し入れ
抱えていたのだ。

「上人さま、ここにお聖教が・・・」

「おお、本光房、けなげであった。
 よくぞ、この蓮如の果たさねばならぬことを・・・
 本光房、よくぞここまで・・・」

蓮如上人は、涙ながらに本光房の顔を撫で、
見開いたままの両眼を、
優しく閉じられたのである。

「本光房、そなたこそ、
 そなたこそまことの仏法者!
 そなたの選んだ決死の報恩、
 われら親鸞学徒の鑑じゃ。
 永久に、全人類の明闇を晴らす、
 灯炬(とうこ)になるであろう・・・
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」
  (恩徳讃)

まさに、恩徳讃そのままを体で示した、
本光房了顕の殉教であった。

かくて吉崎御坊は焼失したが、
親鸞聖人直筆の『教行信証』6巻は
護り抜かれたのである。

この時の証の巻は
「血染めの聖教」とも
「腹籠(ごも)りのお聖教」
とも呼ばれ、今に厳存している。

蓮如上人のもとには、
本光房了顕のような、
真実を知り、真実に生かされた、
多くの若き親鸞学徒が参集し、
布教最前線で活躍していたのである。





蓮如上人物語(16)(吉崎炎上)

2010年10月15日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(16)(吉崎炎上)

蓮如上人のお徳に引かれ、
北陸一帯の人々が吉崎御坊へ
参詣するようになると、
他宗、他派の僧侶たちの、
ねたみ、そねみを買うように
なった。

彼らは、政治権力と結託して、
吉崎を弾圧しようとした。
権力者としても、自己の身辺に、
強大な勢力が生まれるのを好まない。

時代は乱世。
都は、戦の巷と化し、
越前、加賀とて、
戦乱の圏外ではなかった。
何が起きても不思議ではない
情勢だった。

不穏な空気が漂う中、
ついに大事件が起きた。

1474年(文明六年)、
蓮如上人が60歳になられた年、
吉崎御坊が炎上、焼失してしまった。

この時、蓮如上人の
お弟子である本光房了顕が、
親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻を
命がけで守り、殉教したという
エピソードが残っている。

時はまさに応仁の乱の最中、
政情は不安定であった。
各地で、本願寺の発展を
ねたんだ者たちによる
妨害が起きた。

しかし、真実を聞き求める参詣者は、
減ることはなかったのである。

文明6年3月28日
とても風の強い日のこと。

「うう・・・。何て強い風だ」

「見回りごくろうさん」

「あっ、本光房(ほんこうぼう)様」

「この風だ。特に火の元には
 注意してくれよ」

「はい。もしかしたら、
 他宗による焼き打ちが
 あるかもしれませんからね」

「またそのうわさ話か」

「うわさではありません。
 昨年は加賀の専称寺が
 他宗の者によって
 焼き払われたではありませんか」

「分かっておる。
 だから吉崎も防御を
 固めておるのではないか。
 いざという時は、
 蓮如上人とこの聞法道場を、
 お護りせねばならん。
 仏法を破壊する者には、
 厳然たる報いがあらわれる。
 因果の道理に狂いはない。
 蓮如上人さまも、そう仰せだ。
 さあ、再び見回りを頼むぞ」

「はい。・・・・ん?
 このにおいは・・・」

「た、大変です。火事です!
 み、南門から火の手が
 揚がっています!」

南門から火の手が揚がっているとの連絡。

「一刻も早く火を消さねば!」

「本光房様。やはり、他宗の者が?」

「と、とにかく急ぐのだ!!」

「水だ、水を早く!」

「まずい。火の手は
 本堂に近づいているぞ。
 ご本尊さまを、ご本尊さまを
 早くご避難申せ!」

「おい、順信房、
 蓮如上人さまは、
 どちらにおわす?」

「法敬(ほうきょう)様!
 いえ。まだお見掛けしておりません。
 まだ、書院にいらっしゃるのでは・・・」

「ええい、何をしておる。
 早く上人さまに
 お知らせせねば。
 上人さま!
 蓮如上人さま、火事ですぞ!」

この時、蓮如上人は親鸞聖人ご真筆の
『教行信証』証巻を拝読なされていた。

法敬は順信房と共に、
 蓮如上人の書院へと急ぐ。

「上人さま、大火事でございます!
 一刻も早くご避難くだされ」

「何!?この風に火事だと?
 まことか、それは!」

「はい。南門から不審な火の手が揚がり、
 この風にあおられ、
 火は本堂に近づいております」

「それはいかん!一刻も早く、
 御本尊さまを、安全な所へ」

「ははっ。順信房、御本尊さまを早く
 ご避難申すのだ。急げ!

「さあ、上人さまも早く、ご避難くだされ」

「法敬、わしよりも、
 この経櫃(きょうびつ)を。
 祖師直筆の『教行信証』を!
 早く手を貸してくれ、法敬!」

「かしこまりました。
 さあ、こちらへこちらへ。
 もう、ここまで火が・・・!」

無事に大火事を脱出された蓮如上人。
大勢が上人にかけよる。

「あっ、上人さま!ご無事で」

「おお、法敬。ご門徒衆の
 吉崎建立のご苦労を・・・
 何ということだ・・・」

「上人さま、申し訳ありませぬ。
 われらが至らぬため、
 火の回りを食い止めることができず・・・。
 無念でございます」

すると、本光房

「しかし、上人さまにお怪我もなく、
 安心いたしました」

「うむ。何より、
 この親鸞聖人ご真筆の『教行信証』を
 お護り申し上げたこと。
 蓮如、安堵いたした」

「さあ、上人さま。
 どうぞ安全なところへ・・・」

と法敬がご案内しようとした、
その直後、

「ああ!しまった!この蓮如、
 一生の不覚!!」
 
と突如、猛火の中へ走りだされた。

「しょ、上人さま!」

法敬は抱き込むように上人を制止した。

「どうか、どうかお待ちくだされ!」

「おう!法敬!放してくれ!!」

「一体、どうなされたのでございますか」

「ああ、法敬。わしとしたことが・・・。
 『教行信証』証の巻を、
 机の上に置き忘れてきたのじゃ!!」

「ええっ!」


蓮如上人物語(15)(諸人の出入をとどむる理由)

2010年10月15日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(15)(諸人の出入をとどむる理由)

急速な真実興隆は、
蓮如上人が一貫して、
親鸞聖人の本当のみ教えを
説き続けられ、
信心の沙汰を勧めて
おられたからである。

吉崎御坊時代の
『御文章』1帖目12通には、
こう書かれている。

「せめて念仏修行の
 人数ばかり道場に集りて、
 わが信心は・ひとの信心は
 如何あるらんという
 信心沙汰をすべき用の会合なるを、
 近頃はその信心ということは
 かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ
 言語道断あさましき次第なり。
 所詮、自今已後はかたく会合の
 座中に於て信心の沙汰を
 すべきものなり。
 これ真実の往生極楽を
 遂ぐべき謂なるが故なり」

せめて月に一度でも、法友が集まり、

『自分の信心は、
 ほかの人の信心はどうか』

と、信心の沙汰をするのが会合である。
しかし最近は、その信心の是非について
話し合われていないのだから、
言語道断、あきれて物が言えない。
今後は会合で、信心の沙汰をしなさい。
これが真実の極楽往生を
遂げるに大事なことである。

吉崎に立ち並んだ「多屋」は、
各地の寺の宿舎であったのみならず、
上人のご説法をお聞きしたあとに、
布団に入るまで信心の沙汰を
する場でもあったのだ。


1473年(文明5年)、
蓮如上人が59歳のころ、
吉崎御坊の門前に

「当年より諸人の出入をとどむる」

との立て札が立てられた。

吉崎御坊が建立されてより、
近隣諸国だけではなく、

「加賀・越中・能登・越後・信濃・
 出羽・奥州七か国より、
 かの門下中、この当山へ、
 道俗男女参詣をいたし、
 群集せしむるよし、
 そのきこえかくれなし。
 これ末代の不思議なり」
  (御文章1帖目7通)

とあるように遠くは東北からも
多くの門徒が吉崎に聴聞に
集まった。

しかし、この吉崎にいい加減な気持ちで
聞きにくるものは入ってはいけないと
厳しい蓮如上人のお達しがあったのだ。

その理由は何か。
御文章1帖目8通に記されている。

蓮如上人は吉崎御坊で、

「道俗・男女群集せしむといえども、
 更に何へんともなき体なるあいだ、
 当年より諸人の出入を止むる
 (目的違いの者は出入りを禁ずる)」

と仰言ったことがある。

その御心は、
「この在所に居住せしむる根元は、
 何事ぞなれば、そもそも人界の生を受けて、
 遇いがたき仏法に既に遇える身が、
 徒に空しく奈落に沈まんは、
 まことにもって浅ましきことにはあらずや。
 しかるあいだ、念仏の信心を決定して
 極楽の往生を遂げんと思わざらん人々は、
 何しにこの在所へ来集せんこと、
 かなうべからざる由の成敗を加え畢りぬ。
 これ偏に名聞・利養を本とせず、
 ただ後生・菩提をこととするが故なり」
   (御文章)。
 
吉崎御坊建立の目的も、
自他ともに信心決定し、
往生一定の身となること唯一つ。
これを心得ぬ者、入るべからず。

いまだ己の本懐を知らぬ人には、
一人一人の後生の一大事を伝えねばならぬ。
吉崎御坊は、その解決に命を
懸けて聞法する、
親鸞学徒の神聖なる法城なのだ。

大変なご苦労の末、
建立されたにもかかわらず、
完成から三年、蓮如上人は、
人々の出入りを禁じるとおっしゃった。
全国から人が集まってはいたが、
目的違いの者を嘆かれたのだ。

「吉崎に暮らしている理由は何か。
 人間界に生を受け、
 遇いがたい仏法にすでに遇いながら、
 むなしく地獄へ沈むことは、
 全く嘆かわしいではないか」
 
世俗の欲望を満たすために、
吉崎に住む人が少なからずあった。
民衆の立ち入りを禁じた他宗寺院と異なり、
広く一般に開放されていたため、
商工業に従事する人が
増えていったと思われる。

蓮如上人は、

「信心決定して、極楽往生を
 遂げようと思わない者は、
 どうしてこの地に集まるのか。
 そんなことは許さない。
 ひとえに、富や名声のためでなく、
 後生の一大事の解決を
 願ってのことである」

と厳戒されている。

上人のこの御心は、
次のエピソードからもうかがえる。

「参詣者が日々増えています。
 素晴らしい繁盛ぶりです」

と申し上げるお弟子に、

「一宗の繁昌と申すは
 人の多く集り威の大いなる事にてはなく候、
 一人なりとも人の信を取るが
 一宗の繁昌に候」
  (御一代記聞書一二二)

と釘を刺された。

「浄土真宗の繁盛とは、
 人が多く集まり、
 威勢がいいことではないのだ。
 一人でも信心獲得することが、
 浄土真宗の繁盛なのだよ」

という御心なのである。




蓮如上人物語(14)(拠点を越前・吉崎へ)

2010年10月11日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(14)(拠点を越前・吉崎へ)
 
1471年(文明3年)の初夏、
57歳になられた蓮如上人は、
弾圧の危険の多い近江(滋賀)から、
北陸へ向かわれた。

布教拠点を、越前(福井)の
吉崎へ移されたのである。

この時、破壊された本願寺から
大切に運び出された
「親鸞聖人の御真影」は、
大事をとって、大津の三井寺に
預けられた。

「吉崎というこの在所、
 すぐれておもしろき間、
 年来虎狼の棲みなれし
 この山中をひき平げて、
 七月二十七日より、
 かたのごとく一宇を建立し……」

『御文章』の一節にあるように
まさか、虎や狼は住んでいなかった
だろうが、荒れたるにまかせた
低い山であった。

蓮如上人がご到着になって間もなく、
のみ、のこぎり、つちの音が、
辺りのしじまを破って響き始めた。

吉崎御坊の建立には、
柱なども、年数を経た巨木を
あてねば、重い屋根を支えることは
できないなどのことがあって、
莫大な資金や物資が必要だった。

ところが、近郷近在の熱烈な
真宗門徒のご報謝で、
驚くべき短期間で成就したのだ。

かくして、三ヵ月あまり。
本堂ができかけたころには、
早くも、参詣者でごった返した。

こうなっては、蓮如上人も、
まだ未完成の本堂にお出ましになって、
ご説法を始められたのである。

水面に投じた波紋が広がるがごとく、
越前、加賀、能登、越中の
北陸地方はいうまでもなく、
越後(新潟)、信濃(長野)、
出羽・陸奥(東北)からも、
真実の殿堂が完成したと伝え聞き、
日ごとに参詣者が増していった。

たちまち問題になったのは、
宿舎不足である。

吉崎御坊は、野中の一軒家みたいなもの。
越前や加賀の人でさえ、
日帰りの参詣は困難だった。
泊まり切れない人は、
本堂の周辺か、雑木林で
野宿するしかなかった。

必要に迫られて登場するのが、
各地の末寺の出張所兼宿泊所の
役目を持つ「多屋」だった。

旅館とは違い、
あくまで自分の寺の門徒を
宿泊させる所で、
僧侶が運営していた。

これを「多屋の坊主」といった。

また、その妻を「多屋内方」と
いったのである。

多屋の坊主は、
参詣者の案内役を務め、
妻は宿泊の世話をした。

わずか一、二年のうちに、
吉崎御坊周辺に二百近い多屋が
できた。

虎や狼が住むといわれた
さびれた北陸の一寒村が、
あっという間に、
一大仏法都市に変貌したのである。

「あら不思議や、
 一都に今はなりにけり。
 そもこれは、人間のわざとも
 おぼえざりけり。
 ひたすら仏法不思議の
 威力なりしゆえなり」
   (帖外御文)

真宗再興の大盤石が、
この時に築かれたのである。





蓮如上人物語(13)(蓮如上人と空善とお初②)

2010年10月10日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(13)(蓮如上人と空善とお初②)

静まりかえった家に
お初の歌声に響きわたった。
蓮如上人も眠りから覚め、
不思議な歌の意味を考えられた。

「ガジンとリンカジンが、
 ゴンすることをモンすれば、
 タビのソウをセッすると
 ソウコウのソウの字、
 サの字取って、
 山と山がカッチンカッチン」

これを漢字に置き換えると

「我人と隣家人が
 言することを聞すれば
 旅の僧を殺すると
 草行の草の字、
 サの字取って
 山と山がカッチンカッチン」
となる。

意味は

「私の家のお父さんと隣の家の人が
 話しをしているのを聞くと
 旅の僧、蓮如上人を殺そうと
 言っていました。
 草の字からサを取れば、
 早いという字。
 山と山が重なれば、出るという字。
 早く、出て行ってください」

と歌っていたのだ。

蓮如上人は旅支度をして、
部屋から出ようとすると、
鍵が掛っていて出ることができない。

「これまでか。
 私は弥陀の本願に救い摂られ、
 何時死んでよしの身にさせて頂けたが、
 これから弥陀の本願を一人でも多くの
 人にお伝えすることができないのが、
 口惜しい。」

と覚悟を決められた時、
お初が鍵を外してくれたのである。

お初「蓮如上人様、
   どうか、急いでお逃げ下さい。
   里への道をお教えします。」


上人「私を助けたとなれば、
   そなたはどんな仕打ちを受けるか
   分らんぞ。」

お初「私は娘ですので、大丈夫でございます。」

蓮如上人が家から出てゆかれると、
家に残ったお初は、
蓮如上人の身代わりとなって
布団に潜り込んだのであった。

蓮如上人とお初が入れ替わったことも
知らずにやってきた長右衛門夫婦と隣の人。

蓮如上人の寝室に忍び込み、
暗闇の中で蓮如上人の首の辺りを
ナタで斬りつけた。
すると、「ギャー」という若い女の声。
転がったのは娘のお初の首だった。

「お初、なぜこんなところに」

二人にはお初の心が分った。
欲に目が眩み、尊い蓮如上人まで
手にかけてようとしていた恐ろしい心。
それをお初は身を挺して教えてくれたのだ。

しかし、蓮如上人殺しの大罪を
犯さなかったが代償は
あまりにも大きかった。
我が子を手にかけてしまったのだ。
長右衛門夫婦は泣き崩れたのである。

二人は蓮如上人の跡を追った。
そして、一部始終を話しをし、
自分達が犯した罪の恐ろしさに
打ち震えるのであった。

夫婦の後悔を受けて、
蓮如上人は二人を諭した。

「我が子を手にかけることは
 この世のものとも思えない恐ろしい所業。
 しかし、阿弥陀仏の本願を聞信するならば
 必ず救い摂られるだろう」と。

こうして、長右衛門は空善房として
蓮如上人の弟子となったのである。

お初の血に染まった衣服は
今も堅田の恵専寺(えいせんじ)に残されている。





蓮如上人物語(12)(蓮如上人と空善とお初)

2010年10月09日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(12)(蓮如上人と空善とお初)

蓮如上人のお弟子に
空善房といわれる方がいた。

空善房は「蓮如上人御一代記聞書」の著者。
精進に精進を重ねて、蓮如上人の
ご臨終にまで看病した信任厚い弟子である。

その空善がなぜ、蓮如上人のお弟子になったのか。
悲しくも、素晴らしい話が残されているのだ。

蓮如上人にご活躍により、弥陀の本願の真実を
聞かれた多くの人が本願寺に鞍替えしていった。

それを妬んだ他宗の坊主、特に比叡山延暦寺は
蓮如上人の首を捕った者には褒美を
払うとのおふれを出した。
それによって欲に目が眩んだ者が
現れたのは当然であろう。

蓮如上人が福井県敦賀でご布教を
終えられた後、京都に帰る途中、
近江の国(滋賀県)堅田を通って
おられた時、道に迷われてしまった。

行けども里に出るどころか、山奥へと
入っていった。
周りは家の一軒もない。
このまま野宿かと諦めていたところ、
一軒家を見つけることができた。
それが中井長右衛門の家であった。

一晩の宿をお願いすると
主人の長右衛門は喜んで
蓮如上人を家に招き入れた。
「地獄に仏とはこのことか」と
蓮如上人も大変喜ばれ、
もてなしを受けることに
されたのである。

そこに14歳位の娘がいた。
名をお初といった。
お初は蓮如上人のお話しを熱心に
聞き入り、阿弥陀仏の本願に
感激したのである。

蓮如上人は一人一人の
後生を念じて話される。
お初も真剣に聴聞するのであった。

話しが終わり、蓮如上人は休まれることに。
旅の疲れと、酒の酔いが廻り、
すぐに床につかれた。

ところがお初は両親の大変な話しを
耳にすることになる。

父「おい、金の鳥が舞い込んできたぞ」
母「あんた、金の鳥って何のこと」
父「俺が里におりた時、立て札を見たが、
  あの蓮如には賞金が掛っているのだ。
  殺して首を出した者には金1貫文。
  どんな悪いことをした坊主かは
  知らないが、
  お初も、もう嫁入りの準備を
  してやらにゃいかん。
  嫁入り道具にも金がかかるからの」
母「しかし、あんた一人で大丈夫なの」
父「そこでだ。隣に手助けをしてもらおうと
  思ってな。
  今から相談にいくから、
  蓮如を逃がさぬようにな」

父、中井長右衛門は出かけていった。
母は蓮如上人の部屋に
鍵をかけるのであった。
  
両親が蓮如上人殺しという大罪を犯そうと
している。
お初は居ても立ってもおれなかった。
何としてでも止めなければ。

しかし、両親に悟られないように
蓮如上人に気付いて頂くにはどうしょう。

お初は考え、急に歌い始めた。

「ガジンとリンカジンが、
 ゴンすることをモンすれば、
 タビのソウをセッすると
 ソウコウのソウの字、
 サの字取って、
 山と山がカッチンカッチン」

奇妙な歌を幾度も
歌い続けたのである。

母はお初の歌の意味が分らなかったが、
蓮如上人は優れた智恵で、
歌の意味がすぐに分られ、驚かれた。

この歌には大変なことが歌われていたのだ。






蓮如上人物語(11)(命がけのご布教 寛正の法難)

2010年10月08日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(11)(命がけのご布教 寛正の法難)

1465年(寛正六年)1月10日。
蓮如上人が51歳の頃、
ついに、延暦寺の僧兵数百は、
京都・東山の本願寺を襲撃した。
暴徒は、さんざん破壊をほしいままにし、
愛山護法の門徒が駆けつけた時には、
すでに退散した後だった。

蓮如上人は、親鸞聖人の御真影とともに、
かろうじて避難されたが、
僧兵どもは、執拗に上人のお命を
狙い続けたのある。

世にいう「寛正の法難」。

蓮如上人が法主になられて
8年目の出来事であった。

以後、4年間、蓮如上人は、
琵琶湖周辺の道場(末寺)を
転々とされる。

それは、比叡山の目を
逃れながらのご布教であり、
幾度も身に危険の迫る
決死行であったのだ。

金森や琵琶湖西岸の堅田など、
上人の赴かれる所へ
僧兵の襲撃が相次いだ。

門徒への、直接の迫害も多く、
悪僧たちは、真宗門徒と見ると
金銭をゆすり、
御本尊を焼くなどの
暴行を加えた。

比叡山の麓に近い北雄琴の掃部では、
門徒に縄をかけ、
比叡山へ引き立てること、
17回に上ったうえ、
家財まで、没収した。

信教の自由が保障された今日からは、
とても想像できない、
無法な時代であった。

蓮如上人も命がけならば、
聞法する村人も、命がけだった。

見るに見かねた室町幕府は、
僧兵の取り締まりを命じたが、
何の効果もなかった。

すでに、幕府に力無く、
応仁の乱は、全国に
戦火を呼んでいた。
まさに、乱世であった。

蓮如上人物語(10)(蓮如上人 切り刻みても飽くかよ)

2010年10月07日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(10)(蓮如上人 切り刻みても飽くかよ)

蓮如上人は親鸞聖人のみ教えを歪曲したり、
破壊する者には、歯をくいしばり、

〝切りきざんでも、
 なお、あきたらぬ〟

と、激怒なされた。

聖人の、み教えを、
ネジ曲げていた、
奥州の浄祐という者に、

「もってのほか、御腹立候て、
 さてさて、開山聖人の御流を
 申しみだすことの浅ましさよ、
 憎さよ、と仰せられ候て、
 御歯をくい締められて、
 さて、切り刻みても、
 飽くかよ、飽くかよ、
 と、仰せられ候」

とある。

「一人なりとも、
 信をとるべきならば、
 身を捨てよ」

の、蓮如上人のきびしさに、
身のひきしまる思いがする。

蓮如上人が関東ご布教をなされた時、
善鸞の墓がある村の近くを通りかかった。

蓮如上人のお弟子が

「あれは親鸞聖人の教えを破壊した
 善鸞の墓のある村でございます」

と、申し上げると、
蓮如上人は笠でその村の方角を隠し、
見ないようにして通り過ぎてゆかれた。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」

と言われるが、
親鸞聖人の教えを捻じ曲げていった
善鸞に対して、墓があると聞かされた
だけでも、そんな村は見たくもないと
邪に対しては徹底しておられる。

蓮如上人から勘当された
下間安芸の法眼という弟子は、
何とか御赦免を願えないものかと
悩んでいた。

法眼の先祖は親鸞聖人のお弟子蓮位房で
あるから、聖人の重恩を感じて
日夜苦しみ続けていた。

蓮如上人の常随昵懇のお弟子で
あった慶聞房は、
法眼の苦悶をみるにみかねて、
法眼の赦免をしばしば
蓮如上人にお願いした。

しかし蓮如上人は、断固として
許そうとはされなかった。

余り慶聞房が頼むので、遂に蓮如上人は、

「今後、法眼のことを言い出す者は、
 その者も共に勘当いたす」

と、怒られた。
今はわが力及ばずと慶聞房は
断念したといわれる。

これが蓮如上人八十五才、
御臨終に近い時のことである。

臨終まで善鸞の勘当を許されなかった
親鸞聖人のきびしさ、はげしさを、
彷彿とさせる光景ではないか。

蓮如上人物語(9)(蓮如上人の破邪の厳しさ)

2010年10月04日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(9)(蓮如上人の破邪の厳しさ)

「『御文』は如来の直説なり」
 と存ずべきの由に候。
 「形を見れば法然、
  詞を聞けば弥陀の直説」
 といえり」
  (御一代記聞書)

とあるように、蓮如上人は

「法然上人のご再来か」

といわれるほど、その風貌が
似ておられたといわれる。

やさしそうなお顔に
フルナの弁舌といわれるほど、
お話が上手であった。

しかし、おやさしい反面、
邪に対する厳しさは
凄いものがあった

御一代記聞書から、
その破邪顕正を、窺ってみよう。
 
お弟子たちと、大阪四天王寺の、
門前を通られたとき、のこと。
あたかも、牛頭天王を祀る社 
土塔会といわれる祭礼が、
盛大に行われ、幾千の信者で、
賑っていた。

それらの、参詣者を指さして、
蓮如上人、厳然と、仰有ったのだ。

「あれほどの多き人ども、地獄へ、堕つべし」

〝あんなに多くの人が、
 神信心しているが、
 みんな、地獄へ堕ちるのだ。
 可哀相な、人達ではないか。
 浄土真宗の、他力の信心を
 獲得している人だけが、
 浄土へゆけるのだよ〟

随分、思いきった、
お言葉ではなかろうか。

又、同じく御一代記聞書には、
堺に住んでいた日向屋という豪商は、
三十万貫の大金を所持し
豪奢な日暮らしして死んだが
仏にはなれない、
それに較べて大和に
住んでいた了妙は
帷一枚も着かねた
貧乏人であったが、
よく信心獲得していたから
仏になるだろう、
と蓮如上人は道破なされている。

これは、後生の一大事の解決は
社会的な地位や、名誉や資産などの
有無とは何の関係もなく、
ただ信心獲得の有無によって
定まるのだということを
明示なされたものである。

「地獄の沙汰もカネ次第」

などといわれている世間の俗信を
真向うから打ち砕かれた、
はげしい破邪の御教導である。