蓮如上人物語(29)(蓮如上人と一休 教学と信心 馬じゃげな)
浄土真宗の人々の多くは、
一文不知の尼入道にドン座り、
一向に教学を教えようともしないし、
また、勉強しようともしない。
それどころか、教学と信心とは全然別で、
教学すると信心がおろそかになったり、
聞法求信の邪魔になるようにさえ
考えている者がいるが、
とんでもない誤りである。
このような不心得者が多いから、
聞法しても忘れるのを手柄のように吹聴したり、
覚えている者を、間違い者のようにさえ
言う者がいる現状である。
これは、学問や教学の価値を過小評価し、
「一文不知」をことさらに強調して、
惰眠をむさぼってきた結果である。
もちろん、学問のための学問や、
名聞利養のための教学は、
信心決定のためにならないし、
求信の妨げにもなるから、
厳に警戒しなければならない。
だからといって、教学そのものまで
悪いとはいわれない。
それを行ずる者の心がけこそ大切なのである。
学問や教学で魂の解決はできない。
「それ、八万の法蔵を知るというとも
後世を知らざる人を愚者とす、
たとい一文不知の尼入道なりというとも
後世を知るを智者とすと言えり」
「いかに物を知りたりというとも、
一念の信心の謂を知らざる人は徒事なり」
(御文章5帖目2通)
で明らかである。
蓮如上人と一休にこんな話が残っている。
金持ちで、午年生れの馬好きが、
京都で一番の画家に素晴しい馬を描かせた。
それに偉い誰かに賛を頼もうと、
禅僧一休に依頼すると、
「馬じゃげな」
と書いてきた。
「こんな立派に描いてある名馬を、
誰れがブタやタヌキと見るものか」
と、高価な絵を台なしにされた富豪は大憤慨。
そこで今度は
「見事な名馬に見事な賛を」
と、蓮如上人に泣きついた。
快く引き受けられた上人は、
一休の賛の後に、
「そうじゃげな」
とつけ加えられたという。
富豪は飛び上って驚ろいたが、
いくら立派に描かれていても、
描いたものは描いたもの、
本物ではない。
「馬じゃげな、
そうじゃげな」
と言うわけである。
しかし、だからといって、
八万の法蔵を知ること自体が
悪いのではない。
後世を知らないということこそが、
愚かなことなのである。
故に、後世を知るための学問や教学ならば、
大いに結構といわねばならぬ。
念仏の元祖、法然上人は
智恵第一の法然房と謳われた。
わが親鸞聖人も、八万四千の法門を
幾度も読破せられた大学者であった。
そうでなければ、あの大著『教行信証』が
書けるはずがない。
先達は一人として学問教学を
無用排斥せられた方はない。
真実の教学は、信前の者には、
求信の指針となり、
破邪顕正の宿善となる。
信後は、信味を深め、
報謝の大活動の源泉となる。
言葉をかえれば、学問教学をすればするほど、
ますます真実の尊さが知らされ、
信心に命がかかってくるのである。
また、そのような教学でなければ、
真の教学とはいわれない。
また、仏教の学問は単なる机上の学問で
あってはならず、日常生活を通して、
仏教の真実性を確かめてゆく、
実践教学、いわゆる、
行学でなければならぬ。
いずれにしても、信心決定という
大目的を忘れた教学こそ、
排斥さるべき愚行だけれども、
真実の教学は、親鸞聖人や蓮如上人のご説法を、
親しく聴聞するのと同じことなのであるから、
大いに学び深めなければならぬ。
浄土真宗の人々の多くは、
一文不知の尼入道にドン座り、
一向に教学を教えようともしないし、
また、勉強しようともしない。
それどころか、教学と信心とは全然別で、
教学すると信心がおろそかになったり、
聞法求信の邪魔になるようにさえ
考えている者がいるが、
とんでもない誤りである。
このような不心得者が多いから、
聞法しても忘れるのを手柄のように吹聴したり、
覚えている者を、間違い者のようにさえ
言う者がいる現状である。
これは、学問や教学の価値を過小評価し、
「一文不知」をことさらに強調して、
惰眠をむさぼってきた結果である。
もちろん、学問のための学問や、
名聞利養のための教学は、
信心決定のためにならないし、
求信の妨げにもなるから、
厳に警戒しなければならない。
だからといって、教学そのものまで
悪いとはいわれない。
それを行ずる者の心がけこそ大切なのである。
学問や教学で魂の解決はできない。
「それ、八万の法蔵を知るというとも
後世を知らざる人を愚者とす、
たとい一文不知の尼入道なりというとも
後世を知るを智者とすと言えり」
「いかに物を知りたりというとも、
一念の信心の謂を知らざる人は徒事なり」
(御文章5帖目2通)
で明らかである。
蓮如上人と一休にこんな話が残っている。
金持ちで、午年生れの馬好きが、
京都で一番の画家に素晴しい馬を描かせた。
それに偉い誰かに賛を頼もうと、
禅僧一休に依頼すると、
「馬じゃげな」
と書いてきた。
「こんな立派に描いてある名馬を、
誰れがブタやタヌキと見るものか」
と、高価な絵を台なしにされた富豪は大憤慨。
そこで今度は
「見事な名馬に見事な賛を」
と、蓮如上人に泣きついた。
快く引き受けられた上人は、
一休の賛の後に、
「そうじゃげな」
とつけ加えられたという。
富豪は飛び上って驚ろいたが、
いくら立派に描かれていても、
描いたものは描いたもの、
本物ではない。
「馬じゃげな、
そうじゃげな」
と言うわけである。
しかし、だからといって、
八万の法蔵を知ること自体が
悪いのではない。
後世を知らないということこそが、
愚かなことなのである。
故に、後世を知るための学問や教学ならば、
大いに結構といわねばならぬ。
念仏の元祖、法然上人は
智恵第一の法然房と謳われた。
わが親鸞聖人も、八万四千の法門を
幾度も読破せられた大学者であった。
そうでなければ、あの大著『教行信証』が
書けるはずがない。
先達は一人として学問教学を
無用排斥せられた方はない。
真実の教学は、信前の者には、
求信の指針となり、
破邪顕正の宿善となる。
信後は、信味を深め、
報謝の大活動の源泉となる。
言葉をかえれば、学問教学をすればするほど、
ますます真実の尊さが知らされ、
信心に命がかかってくるのである。
また、そのような教学でなければ、
真の教学とはいわれない。
また、仏教の学問は単なる机上の学問で
あってはならず、日常生活を通して、
仏教の真実性を確かめてゆく、
実践教学、いわゆる、
行学でなければならぬ。
いずれにしても、信心決定という
大目的を忘れた教学こそ、
排斥さるべき愚行だけれども、
真実の教学は、親鸞聖人や蓮如上人のご説法を、
親しく聴聞するのと同じことなのであるから、
大いに学び深めなければならぬ。